珠洲の揚げ浜式製塩(プチ歴史)

さいはての街・珠洲

揚げ浜式製塩が 角花家だけになったわけ

 ここからは,こんなに盛んだった揚げ浜式製塩が,最終的にはなぜ角花菊太郎家だけになってしまったのかを見てみよう。同様の問題意識から揚浜塩田の歴史を説明してる本を見つけたので,まずはその最初の文章を引用する。能登のくに刊行会編『能登のくにー半島の風土と歴史』(2003年)という本の一節である。

 山が海にせまり,むきだしの岩場を荒波が洗う外浦の珠洲市仁江海岸,ここに日本で唯一「揚浜」製塩の技を守り,伝える,角花さん一家の塩田がある。
 100年ばかり前まで,能登の長い海岸線で開かれていた塩田も,1905年(明治38),国の専売制の施行によって斜陽産業のみちを歩み,1959年 (昭和34)に幕をとじた。本来なら「喜兵衛どん」(珠洲市上戸町)に集められた製塩の道具(34種123点、国指定重要民俗資料)だけが残るはずだったが, 能登「塩士(しおじ)」の技へのこだわりと心意気に支えられて,いまも近世の塩づくりを目のあたりにみることができる。

吉岡康暢「6なりわい 土器製塩から揚浜塩田へ」『能登のくに』138ぺ(漢数字は訂正)

 それでは,簡単に珠洲市(能登)における揚浜塩田がたどってきた歴史を見てみよう。その前に,本レポートの一番最初に紹介した文章を再度上げておく。

能登では約1,300年前から揚げ浜式の塩づくりが行われてきました。藩政期に入ってからは,貴重な藩財源の確保のために加賀藩主三代前田利常公が,寛永4年(1627年)専売制を敷き,能登半島一帯に揚げ浜式製塩を奨励。この政策により能登は江戸時代から製塩業が盛んな土地になりました。江戸時代には加賀藩の重要産業として,内浦・外浦問わず能登一円に揚げ浜(外浦側は塗浜,内浦側は自然浜)が広がってきたのです。

能登半島珠洲の塩協議会編「能登半島最先端珠洲 揚げ浜式製塩」より)

「能登」についての基礎知識

 揚浜塩田は「能登一円」で行われていたというのだが,まず,その能登の範囲を見てみよう。
 江戸時代における能登国は,4郡に分かれていて,口郡(羽咋郡・鹿島郡)と奥郡(鳳至郡・珠洲郡)と呼ばれていた。
 そのうち,珠洲郡は,現在の珠洲市と能登町の一部を含んでいることが右地図からも分かる(地図は,『能登の揚浜塩田』より)。

加賀藩の塩専売制(塩手米制度)

 3代前田利常がはじめたという塩の専売制とはどのようなものだったのかを簡単に説明する。
 この専売制というのは「能登の人々に米を前貸しして塩を作らせ,米の代わりに塩を納めさせる制度」である。こうした目的をもった米のことを「塩手米(しおてまい)」と呼んだ。「毎年の春,藩から塩士に対して塩手米を貸与し,秋になると,前貸しした米のかわりに,玄米1石につき塩九俵(1俵は5斗)の割で,塩を返納させるようになりました」(『珠洲の歴史』71ぺ)とあるように,これが加賀藩の政策となっていた。そして政策遂行のため,藩士には,御塩奉行,御塩才許人,御塩吟味人などの役割を,地元の有力者には,製塩取締役(十村が担当),製塩相見役(肝煎が担当),製塩枡取締役などの役割を分担させた。
 なお,米と塩との交換比率(これを「御塩概(おしおがえ)」と言った)は,江戸時代を通して一貫しておらず,だいたい9俵~12俵くらいだった。

塩の生産量

 その結果,能登全体でどのくらいの塩がとれたのかというと「17世紀半ばの約20万俵(1俵約50㎏,5斗3升づめ)から150年後には30万俵を超え,1870年(明治3)には50万俵にのぼった」(『能登のくに』140ぺ)というからすごい。

 17世紀半ば(江戸時代前期)… 約1000万㎏(約1万t)
 19世紀前半(江戸時代後半)… 約1500万㎏(約1.5万t)
 19世紀後半(明治時代初頭)… 約2500万㎏(約2.5万t)

 現在のわたしたち日本人の食塩摂取量は,平均10g/日・人だそうだ( 国民健康・栄養調査調査2016 )。この摂取量は各国と比べても多い方で,WHOは5g/日・人を奨励しているという。
それはさておき,この現代日本人の食塩摂取量と当時の生産量とを比較してみよう。当時,能登では,いったい何人分くらいの塩を生産していたのだろう。計算があっていればいいが(^^;)

約1000万㎏=1000万✕1000g=100億g 
100億g÷10g/日・人=10億(日・人)
10億(日・人)÷365日/年=約274万人/年

 よって,17世紀半ば…約274万人分,19世紀後半…約685万人分もの塩を生産していたことになる。これは,とんでもない量だ。明治3年の金沢藩の人口は約100万人(「江戸時代の日本の人口統計」より)。

奥郡(珠洲郡・鳳至郡)の生産量

 しかも,奥郡(珠洲郡・鳳至郡)の生産量は,能登全体の85~90%を占めていて,その大部分が珠洲郡の塩だったという。特に珠洲に多かった理由を『珠洲の歴史』(72ぺ)は,以下のように述べている。

1.加賀藩が珠洲の塩に力を入れたこと。
2.燃料が手に入れやすかったこと。
3.内浦の海岸は砂浜が多く塩田をつくりやすかったこと。
4.外浦の海岸は,いそ浜で塩田をつくるには苦労が多かったが,日照時間が長い利点があったこと。
5.大きな川がなく海水の塩分がこいこと(珠洲郡志250ページには異論をのべてある)。
6.水田が少ないので米の生産がじゅうぶんではないが,米にかわる他の生産がないこと。

 なるほど,説得力のある理由だ。
 ここに出てくる当時の「燃料」というのは「薪」のことである。薪は,近くの山方の村から採ってきた(買ってきた。柴代・割り木代)。

バカにならない燃料代…山方との繋がり

 右図は,牛で薪を運んでいるようすを描いた図である。牛の姿が見えないほどの柴が積まれていることが分かる。それほど燃料としての柴が必要だったのだろう。「燃料費が経費の半分を占めていた」(『能登の揚浜塩田』59ぺ,右図も)だけではなく,塩を袋詰するための,俵や縄なども必要だった。海沿いで行う製塩のためには,山の人たちとの繋がりも必要だったのである。

煮詰めて塩になるために約十二時間を要する。したがって燃料の塩木の消費は莫大な量となる。一釜に牛二頭分の薪木を要するのが普通であった。

下出積與著「揚浜製塩の方法」『能登の塩』84ぺ,下線は引用者

塩の生産では,海水を煮詰め塩とする課程で大量の燃料を必要とした。この燃料を塩木と呼んだが,道下(とうげ)には御薪山(おんにゃま)とよぶところがあり,その薪をとった山である。塩づくりは山にも依存する。

南龍保「塩づくりと制度」『図説 門前町の歴史』63ぺ,下線は引用者

2011年6月,「能登の里山里海」が国連食糧農業機関から世界農業遺産に指定されたことによって,能登の里山・里海が注目されているが,このようにみると,能登における塩づくりこそが,里山・里海にかかわる能登の暮らしの典型なのである。

長山直治「第1章 能登揚浜塩田の歴史」『能登の揚浜塩田』60ぺ,下線は引用者

 塩一釜を煮詰めるために得るために上図のような牛2頭分の薪を必要としたのだから,塩作りと里山との繋がりは,とても深かったことが分かるだろう。

明治以降の揚浜式製塩

 揚げ浜式製塩は,瀬戸内海沿岸のように潮の干満差が大きな海岸で行われている入浜式製塩と比べて生産性は低く,自由競争に晒されると,すぐに勝負あった!となる。しかし,前述したように加賀藩の保護の元で,江戸時代を通し,能登地方の揚げ浜式製塩の生産高は上がり続けた(もちろん釜やの改良などもある)。
 しかし,時代は明治となり,状況は大きく変化した。

藩による専売制の廃止

 1971(明治四)年,廃藩置県が実施されると加賀藩(当時は金沢藩と呼ばれていた)は廃止され,金沢県(明5年2月,石川県となる)が設置された。その後,すぐ金沢県が分離されて,能登方面は七尾県となる。まだ廃止が決まっていなかった塩手米は,七尾県が管理することになる。
 翌年1972(明治5)年,七尾県は,御維新の趣旨だとして「塩手米制度廃止」の方針を打ち出した。その際,移行期の分として明治5年分の塩手米を少しだけ支給した。また,七尾県では,塩手米制度に変わるものとして「製塩資金を貸し与える製塩会社」の構想を示した。その構想を生産者に説明する役(製塩業世話方惣締そうしまり)として,奥郡では藻寄行蔵(もよりこうぞう)と多田六蔵が,口郡では岡部直造と加藤又八郎が任命された。

藻寄行蔵たちの尽力…製塩資金の創設(明治初期~20年代)

 珠洲郡上戸北方村出身の藻寄行蔵は,「七尾県が提案する製塩会社に対しては批判的で,零細な塩生産者から10万円の資金を集めてこれを貸与資金とすることは不可能であり,会社の経費などとして1年間に1万数千円もかかるのではとても実現しないと考えていた」(『能登の揚浜塩田』86ぺ)ので,別の方法を政府筋に提案する行動をとり,その尽力の結果,「能登の塩田」を守ることにつながっていった。

 藻寄行蔵の「尽力」についてはここでははぶく。詳細は『能登の揚浜塩田』『珠洲市史第4巻』等にあたって欲しい。また児童向けの道徳資料「珠洲の塩田を守った藻寄行蔵」『ふるさとがはぐくむ どうとくいしかわ 小学校高学年』(石川県教育委員会編)にもなっているので,そちらをご覧頂きたい。なお『珠洲郷土読本』(1936年)という補助教材には「第24課 藻寄行藏」という文章が載っているのを見つけたので,別ページで紹介しておく。
 ひとつだけ。明治16年,藻寄行蔵と多田六蔵に藍綬褒章が授与された際の石川県からの稟請書(現代語訳)を紹介する。

行蔵は,塩手米が廃止され,人々が苦境に陥った際,製塩資金の創設を主導し,10年間,その主宰者となって活躍,その功績については,能登一円に賛美しないものはなく,その命名は管内に広まっている。そして,その行蔵を補佐したなかで,六蔵が最も功績があったというのである。(『能登の揚浜塩田』89~90ペ)

能登塩田再興碑(1937年建立)

 行蔵たちのお陰で,珠洲郡の塩の生産高は,明治19年…約41万3000俵,明治20年…39万5000俵となっており,能登全体では50万俵を超えていたと思われる。「加賀藩の専売制が廃止された後も,製塩資金が創設されたことによって,生産は高水準を維持していたのである」(『能登の揚浜塩田』92ぺ)

3度の塩田整理

 しかし,明治30年代になると能登全体の生産量が20万俵~30万俵となり,1905(明治38)年には16万5000俵に減少する。なぜ,こんなに減ってきたのか。

塩の専売制と第1次塩田整理…1910(明治43)年ごろ

 それは,1904(明治37)年2月に起きた日露戦争の戦費を捻出するため,政府が塩専売制度の導入を実施したこと。そして日露戦争後,外国から安い塩が入ってきたことによる。とくに,専売制の導入は揚げ浜式製塩を行っていた地域には深刻な打撃となった。

 1905(明治38)年から実施された…中略…専売制の施行により,産塩はすべて生産費を加味した賠償価格で買い上げられた。そのため,条件が悪く,生産性の高い生産地が存在することは,塩の価格を高めることになり,また,専売収入の面からも好ましいことではなかった。…中略…そこで,政府は,製塩地整理法を制定し,1910(明治43)年,1911(明治44)年に全国的な規模での塩田の整理をすすめた。これが第1次塩田整理であった。 

長山直治「第1章 能登揚浜塩田の歴史」『能登の揚浜塩田』97ぺ,西暦付け足し

 1910(明治43)年の第1次塩田整理では,産額が少ない地方の塩田で実施された。石川県でも,鳳至郡の一部と,羽咋・鹿島郡以南のすべての塩田が廃止された。残された塩田は,以下の通り。

石川県内で残った塩田

鳳至郡…輪島町,鵠ノ巣村,南志見村,町野村,宇出津町,鵜川村,諸橋村(製造人員 148人)
珠洲郡…小木町,木郎村,宝立村,上戸村,直村,正院村,蛸島村,三崎村,西海村(製造人員 779人)

 日本全国で「揚浜塩田」として残ったのは,鹿児島県大隅と沖縄県,そして能登2郡のみだったそうだ。よく残してくれたねえ。

第2次塩田整理…1929(昭和4)年ごろ

 昭和の初めには,内地塩・輸入塩ともに生産が伸び,塩の供給過剰となってきた(下図1)。そのため,1929(昭和4)年,1930(昭和5)年に,第2次塩田整理が行われた。その結果,

石川県内で残った塩田

鳳至郡…町野村(製造人員 46人)
珠洲郡…西海村(製造人員 269人)

となってしまった。揚浜塩田は,わずかに外浦地区のみに残ったのである。
 この地区が整理の対象外となったのは,
・能登で最も生産性の地域であったため
・地方経済に及ぼす影響が大きかったため(従業員が多い,転業が難しい)
ではないか,と長山直治は『能登の揚浜塩田』で述べている。

太平洋戦争で国内生産・輸入塩が極端に減少…自家製塩の推奨で塩田復活

 こうして風前の灯火になるかに見えた能登の揚浜塩田だったが,日本が世界を相手に太平洋戦争をはじめたことにより,労力・燃料などの不足による国内生産塩の減少,それに加え外国産塩も入ってこないということで,塩が足りなくなってきた(図1,図2)。

太平洋戦争が始まる1941年ごろまでは,その需給量が食糧塩100万トン,工業塩150万トン程度で安定していた。が,戦争の激化に伴い供給量が急減。国内の生産量は最大68万トンから39万トンに減少する。当然,輸入も困難となり,1942年には塩の配給制度が始まり,非常手段として専売制の趣旨に反する自家用製塩が認められた。

「塩と食のお話」『塩と暮らしを結ぶ運動公式サイト』より

 太平洋戦争に敗戦したあとも,塩の配給は滞り,塩は闇市にも流れていった。このあたりの事情も,先のサイトから引用してみよう。

1947(昭和22)年12月,時事通信社が全国4,000人を対象に塩の消費に関する輿論調査を実施する。その結果を要約すると,敗戦直後の塩をめぐる状況はつぎのようなものであった。

「90%近くが『塩が足りない』という。で,その不足を80%余りの人が『物々交換や闇で補っている』と答えた。だから,味噌や醤油ではなく『塩そのものの配給』に重点をおいて『現在の2倍以上を配給』してほしい。ただ,現状では50%近くが『塩の闇取引とその値上げはやむを得ない』と考えているという。

「塩と食のお話」『塩と暮らしを結ぶ運動公式サイト』より

 その後,この自給製塩も,1949(昭和24)年6月の新専売法の施行によって全て廃止された。
一方で,1950(昭和25)年に「転換専業製塩」としてそのまま塩の生産を続けた地域がある。
 それが能登では,珠洲郡の小木町,松波町,宝立町,三崎村であった。しかしそれも,その後,数年で廃止された。

現在,少しばかり「塩田の記憶が残っている」方は,このときの揚浜塩田を知っているのだと思われる。
ちなみに,1940年~1950年頃に5歳だった人は,2023年現在,78歳~88歳である。

新専売法と第3次塩田整理

 1947(昭和22)年頃から塩の輸入が復活。国民に塩が充分行き渡るようになった。政府は1949(昭和24)年6月,新専売法を施行。日本専売公社が発足した。
 専売公社は,塩の増産のために製塩業の改良に取り組み,1952(昭和27)年から流下式製塩を導入。この製塩法は従来の入浜式製塩の2倍以上の生産高となり,かえって供給過剰となった。そのため生産調整が必要となり,1959(昭和34)年に第3次塩田整理が実施された。
 対象となった能登外浦の塩田では「とうてい継続するすることは不可能との結論に達し」全員が廃業することを決定し,1960年2月,完全に廃業した。当時の廃止許可人員は127名だった。
 その後,専売公社は,1969年には全て「イオン交換樹脂法」で製塩を行うことを決定した。1971年,塩業近代化臨時措置法が制定され,第4次塩田整理が行われ,これによってわが国から全ての塩田が消えた(図2,図3)。

石川県内で残った塩田

鳳至郡…なし
珠洲郡…なし

グラフで見る全国の状況

 明治以来の塩の輸入量や4度の塩田整理による塩の製造人や生産高の歴史的な変化を日本全体で見てみたいと思って調べていたら,次のようなグラフが出ているレポートを見つけた。
 詳しいことを知りたい方は,小林利雄「日本における塩製造人の変化について」(1986年,PDF)をご覧頂きたい。
 ここまでわたしのレポートを読んでこられた方は,これらのグラフをご覧になれば,日本の大きな流れがあったからこそ,能登の揚げ浜式製塩が縮小されてきたようすがおわかりになると思う。

図1 日本の国内塩と輸入塩
図2 日本の塩製造人・生産高
図3 日本の塩製造人1人あたりの生産高

塩田製塩生産高率は1971年で0%になっている

揚げ浜式製塩 復活

文化財保護・観光資源として

 その後,地元から「揚浜塩田の伝統的技術の継承」と「観光資源」として揚げ浜式製塩を復活したいという要望が出てきた。専売公社もそれを受け入れ,珠洲市2カ所,輪島町1カ所で揚げ浜式製塩の塩田が復活することになった。
 1960年,珠洲市・輪島市は,3名の従業者に製塩業を委託した。しかし翌年には2名が辞退し,結局,角花菊太郎さん(1919-2004)一人だけが,揚げ浜式製塩を続けることとなった。

しかし,珠洲市からの補給金もかならずしも十分とはいえず,角花家では冬場に出稼ぎに出かけるなどして,専ら塩田作業に従事しなければならい夏の間の生活費を工面するなど苦労も多かったという。

長山直治「第1章 能登揚浜塩田の歴史」『能登の揚浜塩田』106ぺ

 角花菊太郎さんが,こんなにしてまで,塩田を続けたこれたのはなぜなのか。珠洲市出身で民俗学会会員の西山郷史氏は次のように言う。

塩作りに励んでいる間に,戦地で死んでいった戦友がいる。命の根源に関わる仕事を行っていたにも関わらず,人一倍誠実な彼の脳裏から,その思いが離れることはなかった。そして,塩づくりのおかげで生き残ったものが果たすべき責務,それは,どんなに苦しいことがあろうとも塩づくりを続け守ること,を課すに至る。

西山郷史「能登の塩づくり」『いしかわ人は自然人・第20号』32ぺ
全国で残った揚げ浜式塩田

珠洲市…仁江町(角花菊太郎家)一軒のみ

無形民俗文化財,そして世界農業遺産へ

 角花菊太郎さんが44年間一人で伝統を守ってきた揚げ浜式製塩は,
・1992(平成4)年 「能登の揚浜式製塩の技術」が石川県無形民俗文化財に指定
・2008(平成20)年 「能登の揚浜式製塩の技術」が国重要無形民俗文化財に指定
・2011(平成23)年 「能登の里山里海」が世界農業遺産に認定
となっていくのである。

びりっけつ向きをかえれば先頭に

 以上で「江戸時代には盛んだった能登の揚げ浜式製塩が最終的には角花家だけになったのはなぜか」の調査を終わる。
 現在では「うちは珠洲の揚浜塩を使っていますよ」というのが,ブランドにまでなっている世の中だ。ここまでくるには,このレポートで紹介した角花菊太郎氏や藻寄行蔵・多田六蔵氏だけではなく,いろいろな人たちの努力があったのだと,改めて感じた調査だった。

2023年10月20日 記
2023年12月26日 追記

参考図書,映像,サイト

ドキュメンタリー映画『ひとにぎりの塩』

 セブ国際ドキュメンタリー映画祭2013最優秀撮影賞受賞作。
 守り継がれていくものがここにある。
“手塩にかける”の語源とも言われる「揚げ浜式製塩」は,石川県能登半島の最北部「奥能登」で江戸時代から一度も途切れることなく続けられてきた。/ 真夏の炎天下,汗だくの浜作業は,天気に左右される力仕事で,続く釜焚きは,薪に火が灯れば,摂氏60度にもなる釜屋で一昼夜寝ずの作業となる。/ 日本の高度成長を陰で支えた 大量生産による現代日本の製塩技法が確立した今,それでも,浜士と呼ばれる男たちが,手づくりの塩にこだわり,日夜塩づくりに励む意味とは……。(DVDケース裏面)

参考図書・資料

  • 珠洲市郷土史教育研究会編『珠洲の歴史』(1964年)
  • 下出積與著『能登の塩』(1968年)
  • 中嶋吉正著『宝立の今昔』(1981年)
  • 『自然人』編集委員会編『いしかわ人は自然人・第20号』(1993年)
  • 宝立公民館改築記念事業実行委員会編『宝立の今昔写真集』(1993年,1925年の復刻版)
  • 珠洲市教育委員会編『珠洲市の文化財』(1994年)
  • 能登のくに刊行会編『能登のくにー半島の風土と歴史』(北國新聞社,2003年)
  • 珠洲のれきし編さん委員会編『珠洲のれきし』(2014年)
  • 門前町史編さん専門委員会編『新修門前町史 図説 門前町の歴史』(2004年)
  • 大安尚寿他著『能登の揚浜塩田』(2013年)
  • パンフレット…能登半島珠洲の塩協議会編「能登半島最先端珠洲 揚げ浜式製塩」
  • 小林利雄著「日本における塩製造人の変化について」(1986年,すぐにPDFがダウンロードされます)

参考サイト

おまけ…能登記念館「喜兵衛どん」の案内パンフ

櫻井家の由緒(上記案内パンフより)

 能登記念館「喜兵衛どん」は、櫻井家を中心にした能登の歴史博物館として設立したものである。
 櫻井家は佐渡の羽茂本間の末裔である。佐渡の地頭として、本間氏が相模から佐渡へ移ったのは鎌倉時代であった。それから南北朝・室町と経る間に一族は繁栄し、主なる家は十三家を数え所領も佐渡半国に及ぶようになった。ことに羽茂本間は南佐渡最大の地頭として、北佐渡の河原田本間と並称される勢いであった。戦国時代になって、越後の上杉氏の佐渡攻略に対しては最後まで抵抗したが、ついに天正十七年(一五八九)六月、上杉景勝の攻撃で落城した。
 最後の城主羽茂高貞は国府川畔の夢と消えたが、運よく逃れた子女は海路を越中の櫻井にたどり着き、やがて能登の北方村に移った(現在地)。以後は帰農して百姓名を「喜兵衛」となのり、明治初年の九代に至るまでその名を世襲している。
 「どん」というのは当地方最高の敬称であり、江戸時代の喜兵衛家の呼称であった。館名を「喜兵衛どん」としたのは、これに因んだのである。
 姓として「櫻井」を公称するのは天保十一年(一八四〇)からで、今日に及ぶ。
 本館は明治中期の建築で、いわゆる浜屋造りの典型的なものである。ここには喜兵衛家関係の遺品を陳列し、江戸時代の上層農民の生活を再現した。芳躅館は総漆塗りの土蔵で、佐渡時代の遺品と祖先の収集した美術品ならびに遺品を収めている。
 なお、江戸時代を通じて喜兵衛家の生業は製塩と漆掻きであったが、その関係資料は、それぞれ国指定重要有形民俗文化財となり、塩士館(もと米蔵) 漆宗館 (もと味噌蔵)に展示してある。

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