藻寄行蔵ものがたり

さいはての街・珠洲

上のイラストは『ふるさとがはぐくむ どうとくいしかわ 小学校高学年』(石川県教育委員会編)より

珠洲郡敎育研究會編『珠洲郷土讀本』(昭和11年発行)

第24課 藻寄行蔵

旧字体,旧仮名遣い,漢数字(一部)を修正して紹介します。また,今では余り使われない漢字にはふりがなを振っておきます。

 旧藩時代は加賀藩主が大いに能登の製塩業を保護し,貸米の制を立てていた。能登の製塩業者は其(そ)の恵を蒙(こおむ)ること二百余年,製塩業は頗(すこぶ)る盛んであったが,明治四年の廃藩と共にその制度はすたれてしまった。能登四郡の業者は資金を得る途が,にわかになくなったので悲惨な状態になってしまったが,殊に業者の最も多い珠洲郡民の困窮は甚だしかった。
 此(こ)の時郡区長であった藻寄行蔵氏は深く之を憂い,百方奔走して大蔵省を説き,資金の貸与を仰いでこれらの人々に頒(わ)かった。又(また)後図に備えるために,其の利益の一部を割いて貯蓄を励行させた。
 氏は上戸村の人で,名は秀と言い字(あざな)は子實と言った。若い頃に江戸に出て昌平黌(しょうへいこう)に学び,又京都に上って医術を修めた。
 医術を学んでから郷里に帰って開業したが,治療を乞うものが門前市をなし名医遠近に聞こえた。明治の始めに珠洲区長となり,同8年には石川県吏に任ぜられたが,間もなく辞して医業の傍(かたわ)ら製塩業に尽くすこと前述の通りであった。
 明治11年車駕(しゃが)北陸御巡幸の砌(みぎり),褒書を下し賜い,越えて同16年に藍綬褒章を賜った。
 明治19年10月10日,67歳を一期として不帰の客となった
時は,郡民挙(こぞ)って深く其の死を悼み,恰(あたか)も慈父に別れる如くであったと言う。 今上戸の沿岸にある氏の石碑は松吹く風と共に,能登塩田再興の偉績を永(とこし)えに物語っている。

能登四郡…珠洲郡,鳳至郡,鹿島郡,羽咋郡
後図(こうと)…後々のためのはかりごと
字(あざな)…平安時代,成人男子が人との応答の際に名乗る名。実名のほかの名。また,あだな。
昌平黌(しょうへいこう)…昌平坂学問所の別称
県吏(けんり)…県の行政事務にたずさわる職員。県の吏員。
車駕(しゃが)…行幸の際,天皇の乗るくるま。転じて,天皇のことをもいう。

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