珠洲の揚げ浜式製塩(プチ歴史)

さいはての街・珠洲


尾形正宏

はじめに…SDGs学習会で

 夏休み中,珠洲市内の小中学校の教師が集まるSDGs学習会に,昨年に引き続き今年も参加させてもらった。わたしの立場はNPO法人おらっちゃの会員(+元教員)としてなので,NPO会員がイベント等で身につけている「Tシャツと帽子」というユニフォーム姿で参加させてもらった。気楽でいい会である。ネクタイよ,さらば。
 そこで何をやるのかといえば,各学校の先生方から1学期の実践を報告してもらった上で,2学期以降の学習の方向性について交流し,アドバイザーから専門的な立場からの助言などを行う…というようなことだった。がしかし,わたしなんてなんの専門家でもないので,「とにかく何か体験したいことがあったらNPOをどんどん使ってね」というしかないのだが。
 その際,若い先生から「昔,宝立町(内浦側)にも塩田があったのですか」と聞かれた。里海教育研究所の先生が,隣接している市民図書館からすぐに参考書を見つけて紹介してくれたのはさすがだ。
 わたしは「内浦の方が砂浜も広かったので塩田もたくさんありましたよ」と答えたのだが,そのときは詳しいことは説明できなかった。「宝立町の歴史を書いた本もあるので,読んでみてください」ということも伝え,後日,彼には,その本(中嶋吉正著『宝立の今昔』1981年)のコピーをお渡しした。
 このレポートは,以上のようなことをきっかけに,珠洲の揚げ浜式製塩について…特に平成生まれの教員および児童・生徒向けに…まとめたものである。このレポートに書いたことよりもっと詳しいことを知りたい方は,巻末に紹介した参考文献に当たっていただきたい。

内浦(富山湾)側にも揚げ浜塩田はあったのか

現状が誤謬を引き起こす

 わたしは,小さいころから,親父に「鵜島のデカ曳山(後述)は,うちの下の浜を通っていたんだぞ。昔は塩田がたくさんあったので,悠々と通れた。舟橋川の川渡しが見物だったもんだ」と聞いていたので,「広い砂浜=塩田」という図式がすんなりと入っていた。だから,逆に,外浦にポツンと残っていた角花菊太郎さん(故人)の揚げ浜塩田の存在の方が,「なぜこんな岩場の所に…」と不思議に思っていたくらいだ。
 しかし,今の珠洲市を見ると下地図のように,角花さんの塩田だけではなく新しくできた製塩会社の塩田もまた外浦地方に集まっている。「塩田」といえばこの地図…のような現状が当たり前の若者にとっては,「内浦は塩田に向いていないではないか」と考えても無理はない。実際,観光客も,塩田=珠洲の外浦(一部輪島含む)と思っていることだろう。現状は確かにそうである。

珠洲市の塩田地図
青丸数字が製塩所。すべてが「揚げ浜式」とは限らないのでご注意を(能登半島珠洲の塩協議会編「能登半島最先端珠洲 揚げ浜式製塩」より)

珠洲の揚げ浜式製塩の広がり

 上のリーフレットは,コンパクトながら大変よくまとまっていて,揚げ浜式製塩の詳しい年表も載っている。ここでは,同リーフレットから「珠洲の製塩の歴史は『能登人の歴史』」という解説を引用してみる。

能登では約1,300年前から揚げ浜式の塩づくりが行われてきました。藩政期に入ってからは,貴重な藩財源の確保のために加賀藩主三代前田利常公が,寛永4年(1627年)専売制を敷き,能登半島一帯に揚げ浜式製塩を奨励。この政策により能登は江戸時代から製塩業が盛んな土地になりました。江戸時代には加賀藩の重要産業として,内浦・外浦問わず能登一円に揚げ浜(外浦側は塗浜,内浦側は自然浜)が広がってきたのです。

 上の解説には「内浦・外浦問わず能登一円に」とあるので,揚げ浜式塩づくりは,珠洲市内の外浦・内浦に限らず,もっと能登の広範囲に広がっていたのだろう(なお,専売制など歴史的な話題は後半(次頁)の「揚げ浜式製塩が角花家だけになったわけ」で解説することにする)。
 まずは,外浦と内浦での塩田を見てみよう。
 珠洲市・旧内浦町あたりの塩田はどのくらい広がっていたのかを手元にある資料で調べてみた。児童・生徒向けに書かれた珠洲市教育委員会・珠洲市郷土史教育研究会編『珠洲の歴史』(昭和39年)には,次のような地図が載っている。

御塩蔵分布図

 タイトルにある「御塩蔵」というのは,加賀藩が建てた塩蔵のことである。御塩蔵は板葺きだったそうだ(大安尚寿他著『能登の揚浜塩田』)。とにかく,随分多くの塩田があったことがこれで分かるだろう。そして,予想通り,外浦地区より内浦地区の方によりたくさんの塩田があったことも分かる。

内浦地区の塩田

 さらに内浦地区で塩田が盛んだったようすが分かる資料があるので,紹介しておこう。先に紹介した『珠洲の歴史』からの引用である。

上戸町の例

上戸町の揚浜塩田

 左図は,今から約170年前(左)と約60年前(右)の上戸町のようすを表した地図である。これを見ると,江戸時代の上戸町の道路の海側には,御塩浜と呼ばれる塩田がたくさんあったことが分かる。今では,道路の海側にも住宅が建ってしまっているから,当時の様子は感じられないが…。また『珠洲の歴史』には,次のような解説が載っている。

このような塩田は,上戸町だけでなく,南は内浦町の布浦から,北は三崎町寺家までの長い砂浜海岸にすきまがない程たくさんならんでいたのです。

『珠洲の歴史』70ぺ(左地図も)

長い砂浜海岸=「長浜」

 珠洲市民なら「長浜」という言葉を聞いたことがあるのではないだろうか。珠洲市内の小中学校には,歌詞の中に「長浜」という言葉が入ってる校歌もある。
 太田頼資著『能登名跡志』(1777年)には,次のような解説が載っているという(『能登の揚浜塩田』より孫引き)。

鵜島三ヶにて家三百軒あり。村の長さ二十町余あり。この辺より三崎までを長浜の浦というて塩多く焼く所なり。風景類い無し。

惣じて此の松波より三崎まで十里(四十キロメートル)の間を長浜の浦とて,布浦・高麗の端より雲津の鉢崎(はちがさき)と云(いう)まで,村々一目に見ゆる也。秀景まことに名所なり。八景あり。

『能登の揚浜塩田』130ぺ

 上記引用文の黄下線の部分を,今の珠洲市のイラストマップで表してみると,下図の黄色い曲線のような場所になる。珠洲において「長浜」と呼んでいるのは,おそらくこの部分であろう。わたしもそういう認識をしている。この黄色の範囲の海岸線に立つと,この砂浜の海岸線を一目で見ることができる。
 なお「内浦地区の塩田」で触れた引用文の青下線の海岸線はこの黄色に緑色曲線の部分が追加された場所である。黄線と緑線の境目(珠洲の最東端)が「長手崎」と云われている場所である。これより北側の方は「一目」では見られない。

珠洲イラストマップ

長浜をうたった短歌・俳句

 また,著者の太田頼資が「鵜島晴風」(八景の一つ)と題して作った短歌もある。

【鵜島晴風】 晴れて行(いく)嵐(あらし)に残る塩釜の煙たなびく長浜のうら

 中嶋吉正著『宝立探訪』(1983年)には,「餘力堂文著『珠洲之海』(元禄十三年(一七〇〇)出版の俳書)には,塩浜について次のように書いている」(16ぺ)として,次のような俳句とその解説を紹介している。

【長濱浦】  秋の日や長濱過る気のいらち

十餘里続て塩焼濱也。俗に大濱と云。又越前より加賀能登までの浦続きを越の長濱と云也。
(註)いらち(心のおちつかぬ性。あわてる性。物事を急ぐ性)

 

鵜島全景

 下の写真は『宝立の今昔写真集』(1993年3月)に掲載されていたものである。本著は,宝立公民館の改築を記念して発行されたものだ。その内容は,大正14年に発行された『役場新築落成記念 寶立村寫眞帖』に,新たに昭和~平成の写真など14頁分を加えたもので,大正~昭和期の宝立を知る貴重な写真集となっている。
 この写真の解説には,次のように書かれている。

字宗雲なる不考山より北方を望めるものにして字鵜島字南黒丸,字宗雲悉く一望に盡く,海岸に近く平坦なる地は塩田なり

『寶立村寫眞帖』7ぺ

「宗雲」というのは現在の「宗玄」のことだろう。また「不考山」というのは「不老山」の間違いだと思う。写真の解説には「不老山」となっている。 

鵜島の海岸線

 ちなみに,太田頼資が上げる八景とは,南から
「椎泊(しどまり,布浦村)夜雨」「松波秋月」「鵜島晴風」「吼木(法住寺)晩鐘」「黒峰(宝立山)暮雪」「飯田夕照」「蛸島帰帆」「雲津落雁」…但し( )内は引用者
である。なかなか風情のある景色じゃないか。改めて,四季折々の景色と共にかみしめたい言葉だ。

 さて,珠洲に伝わる和歌といえば,もっと有名なものがあるじゃないか…ということで,大伴家持の和歌も紹介しておこう。万葉集にも掲載されている歌である(巻17,四〇二九)。上戸町柳田児童公園内,飯田町春日神社境内に,この和歌の句碑が建っているので,ご存知の方も多いだろう。

大伴家持の歌碑

珠洲の海に朝開きして漕ぎ来れば長浜の浦に月照りにけり

 この「長浜の浦」というのも,既述の通り,旧内浦町~珠洲市の内浦側に続いている砂浜のことを指しているのだろう。実際,太田頼資も,そのような意味で大伴家持の和歌を紹介しているくらいだ。
 ところが,ネットで見つけた情報(高岡市万葉歴史館)によると,この「長浜」は富山県の「渋谿(しぶたに)の崎(高岡市の雨晴海岸)から氷見にかけての海岸線」ではないかと捉えているのだ。この歌が「珠洲の海を朝,船出して,陸地づたいに国府近くまで富山湾を南下した」と考えると,確かにこの「長浜」を珠洲内浦の海岸線と考えるのは無理がありそうだ。さて,真相はどこに。

外浦地区の塩田の特徴

粘土で固めた「塗浜」

 さて,最初に引用したパンフレットの文章に「江戸時代には加賀藩の重要産業として,内浦・外浦問わず能登一円に揚げ浜(外浦側は塗浜,内浦側は自然浜)が広がってきたのです」とあったように,同じ揚げ浜塩田でも,外浦と内浦とではその塩田の作り方が違っていたらしい。

 内浦は自然の浜が広かったので外浦より作りやすかったのだろう。
 左図は,外浦の塩田の作り方である。粘土で固めた地面の上にきれいな砂を持ってきたのだろう。これじゃ,まるで相撲の土俵である。

外浦の海岸地方にのこっている石垣でかためた田畑は ,むかしの塩田のあとです。外浦では,内浦とちがって海岸が,いそ浜になっているので,土をもりあげて塩田をつくるのに苦労しました。

『珠洲の歴史』「砂取節」75ぺ

 一般に,岩場が多く波も荒々しい男性的な外浦と,きれいな砂浜と静かな波の女性的な内浦という対比がある…今の時代,この表現もどうかと思うが伝統的な表現なのでご容赦願いたい…が,塩づくりにおいても,その違いが反映されていたと言える。そのため,同じ塩づくりをしていても,外浦には,外浦独特の事情があったのである。次項で紹介する「砂取節」は,外浦における塩田労働が生んだ民謡である。

 ただ,確認しておきたいのは,塩の生産性から見れば,内浦の自然浜より外浦の塗浜の方が高かったことである。「粘土で固めた基礎の上に砂を撒いてつくった。散布した海水の浸透が少なく,乾きも早かったため,生産性は高かった」「これに対して自然揚浜は,江戸時代には平浜と呼ばれ,浜の小石や貝などを取り除き,そのまま利用していて,生産性はやや劣った」(『能登の揚浜塩田』13ぺ)ということだ。 

砂取節

 珠洲市外浦地区(特に馬緤地区)に伝わる労働歌「砂取節(すなとりぶし)」は,労働者が舟に乗リ込み,塩田に適した砂を運ぶ時の歌である。
 その砂取りのようすも『珠洲の歴史』に書かれていたので,紹介しておこう。

1605年(慶長10年) 頃馬諜村の人々は、毎年2~3月頃になると、4枚ろの舟で赤神部落へ寒砂をとりにいきました。 冬は、塩田のまん中に、砂をよせ集めたすなつぶりをつくって砂が流されないようにしておくのですが、波風が荒く長い冬の間にだんだん砂が少なくなるのでそれを補充するためです。景色のよい大崎の島をぐるりとまわって重い砂をつんだ船をこぎながら、この歌がうたわれはじめたといわれています。

漢数字は西洋数字に改めたー『珠洲の歴史』75ぺ

 「重い砂をつんだ船」ということなので,作業は大変だったんだろうなとは思うが,「景色のよい大崎の島を」なんて書かれると,なんとなく楽しそうな雰囲気も感じられる。そこで別の本(大安尚寿他著『能登の揚浜塩田』2013年)からも引用してみよう。

砂取りに向かうときに,空船を操りながら唄った歌が砂取節で,浜方奉公人によって歌い継がれてきたという。帰りに少しでも風が出てくると,満杯の砂を急いですてなければならず,砂取り作業は絶えず危険が伴うものであった。

西山郷史「第三章揚浜式製塩の伝承と文化・御塩蔵」『能登の揚浜塩田』150ぺ

 こうなると,なんとなく仕事に緊張感が出てくる。
 それでは実際の砂取節を聞いてみよう。下の画像は「日本財団・海と日本PROJECT」が制作した番組(YouTube)である。

砂取節の歌詞(前掲『珠洲の歴史』76ぺ参照)
1 おらが殿まのともとり姿 波にゆられてゆらゆらと 
2 おらは雇人(やといど)だ しかたの風だ お日の入る場をまつばかり
3 おらは前世から塩浜育ち 娘もろうても かろうござる 
4 ことし照りやして釜焚きはろだ 浜仕せなけりゃ誰しょうじゃ
5 浜仕男をなじみにもてば 案じますわよ土用波
6 塩をとるときや百日浜辺 沖のはせ舟みてくらす

 実際の歌は,言葉のくり返しがあったりして,なかなか面白い。
 まあ,この歌詞だけを読んでもらってもなんのことやらよく分からないだろうと思うが,ご勘弁を。いちおう,3語だけ標準語に訳してみる。

珠洲弁→標準語

○おらが殿ま…私の夫  ○しかたの風…北東風  ○かろう→塩辛い

 ここまで書いてきて,確か,民謡好きだった親父が購入したレコードがあったのではないかと探してみた。あったあった,捨てずにあった。このレコードには,砂取節の歌詞はもちろん解説や踊りの写真までついている。興味のある方は,ここか,右のレコードジャケットをクリック!! (カバー裏面のクレジットには68.8と書かれている) ただし,まだ70年たっていないので,著作権上の問題が残っているので,今は「珠洲たの倉庫(会員専用)」に入れてある。

塩浜で行われた行事

デカ曳山を曳いた

 以下,内浦の塩田でデカ曳山が曳かれるようすを撮影した写真を紹介しておこう今となっては大変貴重な写真ばかりだ。

 上左の写真は,旧上戸保育所に展示されているデカ曳山の写真である。解説には「塩浜で曳くことで塩田を固めた」というようなことが書かれていた気がする(奥能登国際芸術祭2023の期間中,旧上戸保育所で弁当を販売している。地区の人が飾った写真やキリコの模型などもたくさんあった。一つの作品になるほどだ)。
 上右の写真も上戸のデカ曳山のようす。出典は『写真アルバム 能登半島の昭和』(いき出版,2014年)から。解説によると,昭和21年9月14日の写真らしい。「戦前の曳山は塩田である砂浜を引き,大きなものだったが,戦後は浜が狭くなったこともあり,道路を引くようになった」(270ぺ)と書かれている。

 右の写真は,親父が言っていた,わが宝立町鵜島の曳山の写真である。そう,あの太田頼資の「長浜八景」の1つ「鵜島晴風」の鵜島である。広い砂浜に3台の曳山が揃っていて,なかなか壮大な景色だ。写真は昭和30年ごろだろうか。
 これは自宅の中ノ間に飾ってある。

宝立町鵜飼の泉写真館に残っていたネガを現像した
鵜島曳山唄にも塩田

鵜島地区の曳山祭の際に,曳山の巡航に合わせて「きやらげ」という唄が歌われる。何曲もあるのだが,その中に,宗玄地区に曳山がついた時に歌う唄がある(「おとし」の部分だけ)。

ここは宗玄三枚浜か やまを揃えて おめにかけよ

古老によるとこの「三枚浜」というのは,「もと宗玄様所有浜。宗玄様の三下り塩浜で,幅七間(約13m)の浜が三枚あった」(中嶋吉正著『宝立探訪』71ぺ)という意味らしい。

合同運動会も行われた

 また,中嶋吉正著『宝立の今昔』という本には大変興味深いことも書かれている。

明治や大正時代,学校の運動会が製塩作業が終わった後十月か十一月に行われたという記録が各小学校に残っているのも興味深い。

『宝立の今昔』24ぺ
塩浜での宝立村四校合同運動会

 本文の横には大正時代に行われた「塩浜での宝立村四校合同運動会」の開催年月日と会場となった場所(塩浜)が書かれている。面白い!! 
 ちなみに,「四校」というのは,鵜飼・鵜島・柏原・馬渡だと思われる。

なお,大正15年度以降から,合同運動会の会場は「鵜飼小学校運動場」となっている。

年月日合同運動会の場所
大正7年11月2日鵜飼浜
大正8年10月14日南黒丸浜
大正9年10月5日鵜島浜
大正10年10月7日内波浜
大正11年10月5日内波浜
大正12年10月4日内波浜
大正13年10月2日内波浜
大正14年10月4日内波浜

宝立町に残されてる絵

 次の絵は,宝立町のある個人宅に保存されていた絵である。この絵には,まだ大きかった見附島と横の小島が描かれている。そして,見附島の手前には,塩浜で働いている人たちの姿も描かれている。
 この写真は,西山郷史さんの「能登のうみやまブシ」というブログで紹介されていた。そこには,次のような解説もある。

「能州珠洲郡鵜飼村見付嶋之真景之圖
明治廿五年秋十月上旬
江南人豊写(印)(印)」
とある。明治25年は1892年、123年前だ。

西山氏のブログ(2015.6.12)より

残念ながら個人宅の名前は分からないので,私自身はまだこの目で見ていない。
追伸:西山郷史氏は,2022年10月,ご逝去された。能登の民俗学研究にはなくてはならない方だった。ご冥福をお祈りする。


 以上「内浦(富山湾)側にも揚げ浜塩田はあったのか」ということから調べ始めたレポートだったが,いちおう,これくらいで決着ということにする。

揚げ浜式製塩が 角花家だけになったわけ(次頁)

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