さいはての街だからこそ持ち上がった原子力発電所誘致問題。この問題は「能登は優しや土までも」と言われていた住民たちを混乱の渦に巻き込みました。そして珠洲市の住民たちは,およそ四半世紀にもわたって,誘致賛成・反対に分かれ,牽制しあってきました。地区内はもちろんのこと,親子,親戚関係でさえもズタズタになったこともありました。定例のお祭りもできない地区までありました。これらの歴史は,もう忘れてしまいたいことではありますが,やはり,忘れてはいけないことでもあります。
さいはての地で地域活性化を願った大人たちが,どのように行動し,どのようにいがみ合ったのか。この問題がどのように終焉していったのか。社会的な実験結果としての「原発誘致運動の歴史」を,学習教材用として残して置きたいと思います。わたしたちが目指す「持続可能な社会」に,原発は必要なのでしょうか。
石川県議会議員選挙
当時,娘たちがペイントで書いた絵
Web版『反連協の歩み』
珠洲原発計画浮上当初から,いち早く原発計画に反対してきた珠洲原発反対連絡協議会(通称:反連協)の「結成から解散まで(27年間)」の活動記録をまとめたもの。
このWeb版では,本記録誌から経過報告を掲載してあります。(本サイトを離れます)
珠洲原発計画浮上当初から,いち早く原発計画に反対してきた珠洲原発反対連絡協議会(通称:反連協)の「結成から解散まで(27年間)」の活動記録をまとめたもの。
このWeb版では,本記録誌から経過報告を掲載してあります。(本サイトを離れます)