尾形正宏
2012.07.22 記
ちょっと長い前書き…奥能登学教研で
先頃ある学校を会場にして行われた奥能登学教研での理科の授業。この授業については,わたしはブログで次のように書きました。そしたら,そのブログに反応がありました。以下,あわせて紹介してみます。
ある研究会会場で
今日,奥能登で,ある研究会がいくつかの小学校で開かれました。私は,自分から進んでい行きたいわけではない研究会だったし,体調もあまりよくなかったのですが,渋々出かけました。
会場である小学校に入ると,玄関の机の上には受付用の紙が置いてあるだけ。名前を記入して張り紙を見ると…私が参観する授業は…ランチルームだって。それってどこ?
すると,廊下の向こうの方から,
「こんにちは!」
と5人ほどの女子が元気な挨拶をしてくれました。
「こんにちは,元気だね。ところでランチルームってどこ?」
「私たちが案内しましょう。」
といって,なんと私の腕を取って5人で連れて行ってくれました。
あまりにもなれなれしい様子にびっくり。都会的と言えば都会的なのかなあ。それまで,参加意欲のなかった私は,「子どもたちに罪はない。しっかり授業を見てあげよう」と思ったのでした。
気持ちよかったなあ。やっぱりあいさつは大切です!!
研究会自体については,言いたいことがたくさんあったのですが,整理会では一言も話さずに帰って来ました。だって,根本からひっくり返した議論を吹きかけるのは,あまりよくないので。私も「大人」だね。
「言語活動の充実」ってタイトルは,今後も続くのでしょうかね。
アレハ理科ノ授業デハナク,試験問題対策ダヨ。
これに対して,池ポチャさんの発言 ハハハハハ,言語活動を重視した理科の授業? それって書くことを重視していませんでした? いしかわ学びの12過剰(^^;)の発表会じゃありません? うちもなんです。 そして私の中学年は算数を研究するので,5・6年の理科の授業にはほとんどかかわっていません(^^;) 理科の授業のかやの外に置かれました(^^;) 去年,公開発表会で仮説実験授業を強行したからだろうなぁ(^^;)
わたしの返事 池ポチャさま あー,そちらの学校でも同様の研究ですか。しかも池ポチャさんは蚊帳の外…なんて。 本当に活用力をつけるのなら本格的な科学の授業をやるしかないのですがね。 参加者の多くも(管理職も含めて),今回の授業に対してとても否定的でした(私とはちょっと視点が違ったけど…)。 授業者の授業と言うより,一指導主事の授業だったようです。なんせ,前日に指導案を大幅に書き換えたのですから…。それがありありと分かる整理会だったので,参加者の大部分の方はある意味「納得した(^O^)」と思います。
そしてこすもすさんからは 12過剰とは,おもしろい! さて,いづこも同じだったんですね。 そんな授業を要求され, 学期末にさせられる方にも同情いたします。
さらにわたし なるほど12過剰ですか。 座布団2枚ですね。 ほんとに,金科玉条のごとくにこの言葉が出てくる石川の教育界にはついて行けません。 で,ついて行けないんだから,そのままそこに置いて行ってくれるといいのですが,時々立ち止まって「早く来い」と言われるので困るんです。
このレポートは,その授業のあらましとそのあとの授業整理会でわたしが感じたことをお伝えします。本来の言語活動を充実させるためには「仮説実験授業をやるのが一番」というのがわたしの結論です。
公開授業と授業整理会で感じたこと
指導案と実際の授業
単元名 魚のたんじょう
本時の学習(指導計画*1の10時間目)
・ねらい
水の中には,小さな生き物がいて,それらはメダカなどの魚の食べ物になっていると考えることができる。
・評価規準
観察をもとに,水中の小さな生き物たちは,魚などの食べ物になっていると考え,表現している。(科学的な思考・表現)
実際の授業展開
○池の水を顕微鏡で観察すると何が見えましたか?
ミジンコ,アオミドロ
○メダカはその小さな生き物をどうしていましたか?
メダカが「小さな生き物」を食べているビデオを見る
《今日の課題》 今までの学習を踏まえて,教科書の問題を解いてみよう。
池の水をくんできた水槽の中で育てているメダカにはエサを時々あげるだけでよいのはなぜか,考えて説明しよう。
右の図は,教科書のさし絵ではありません。水槽には水草などがない状態だと考えてください。
○分かっていることを整理しよう
2つの水槽(A:1年ほど前に池の水を入れた水槽,B 最近,くみ置きの水道水を入れた水槽)の違いを子どもたちに発見させて,黒板に書いていく。
○2つの水槽の中の違いについて考え,班で説明をまとめよう。
授業では,どの班からも,決まった意見が,決まったとおりに出てくるだけだった。
授業の計画では,もう少し進むつもりだったようですが,時間がなくてここくらいで終わりました。
なお,この指導案には最後に「協議の柱」というのが出ていて,それは次のように書かれていました
【協議の柱】
「根拠」の取り出し方や,考えの「筋道」のたて方を通して多面的・多角的に思考・判断させる学習活動を取り入れた授業
*1指導計画…「奥能登スタンダード」と言われる教科書べったりプランのこと。1単元につき,1~2時間の学校裁量の時間があると言われているが,実際は,テスト問題で1時間かかるので,ま,自由度はそんなにない。しかも,これらの学校裁量を集めて別の単元を充実させるというパターンにはNOと言われている。最近は,学力調査問題をやらせるのが流行っている。
授業整理会で
さてさて,この授業は「言語活動の充実」を取り入れた授業の典型として行われたようです。というのも,指導案は当日会場で配られましたが,それは,なんと前日に書き換えさせられたものだったからです。どうも,担当指導主事が強力にこの指導案にさせたようでした。それは授業整理会での授業者の発言から感じ取ることができましたから確かです。
授業整理会では,「もっとこうした方が理科の授業らしい」というような提案がバシバシ出されました。しかし,それに対する指導主事の答えは明快でした。「この授業は言語活動の充実のための授業であり,今までの理科の授業とは違う。それまでにやってきた授業で得た知識を活用して解く問題を扱った授業だ」とのことでした。なるほど,これまでに得た知識をもとにして模範解答を出すための授業だったのですね。それならそうと早く言ってよ…。
わたしは整理会が進むうちに,「協議の柱」についてだれ一人話をしないことが気になっていました。「協議の柱」の「多面的・多角的に思考・判断させる学習活動」について,今回の授業がどうであったのかが,全く話されないのです。それで,先のブログのような発言となったわけです。
この課題を「多面的・多角的に思考・判断する」と…
この課題を見て,子どもたちもたぶん疑問に思っていることがあるはずだと思いました。それは,たとえば「1年前に汲んできた池の水なのに,どうしてエサはなくならないの?」ということです。さらには,「水道水を入れた水槽でもそのうち緑色になってくることがあるのはどうしてなの」という疑問もあるでしょう。少なくともわたしなら,そんなことを思います。
これに対して,「ミジンコは食い尽くすことはできないのだ…」で納得するのでしょうか?
「Bの水槽にも,そのうち緑色のこけ?が生えるのは,どうしてなのか」-こういうことを考えるときにこそ「今まで使った知識を活用して,新しい問題に挑戦する」ことにつながります。そして,それについてイロイロ考えることが「多面的・多角的に思考・判断する」ということです。
なのに…今回は,
「Aの水槽の水は池の水なので,もともとメダカのエサである小さな生き物がいるから,エサをやる回数が少なくてもよい」
みたいな解答だけをよしとしているのですから,そこには「多面的・多角的な思考・判断」なんて入るすきまはないのです。
だから,もともと今回の授業と「多面的・多角的な思考・判断」というのは相容れないことなのです。
多面的・多角的に思考・判断するというのは,今までで習ったことだけではなく,自分の直感も総動員して,あらゆる方向から考える…ということです。すると,それはある「問題」に対して予想を立てるという段階と言えるでしょう。予想ですから,いろいろとばかげたことも考えてみればいいのだし,教科書通りで考えていてもいいのです。多面的・多角的に考えれば考えるほど,教科書の結論とは違った意見が出てきます。それだからこそ「じゃあ,調べてみようか」ということになるんです。
ところが今回の授業では,「池のメダカにエサはやらない」「池には小さな生き物がいる」「池の水を入れた水槽の餌やりは少ない」「それはメダカが小さな生き物を食べているからだ」ちゃんちゃん!-しかあり得ないのです。
わたしがブログで「アレハ理科ノ授業デハナク,試験問題対策ダヨ」と書いた理由はまさにここにあるのです。
生きた言語活動とは…予想をぶつける段階こそ大切に
B問題への試験対策が「言語活動の充実」とイコールであるならば,それはそれでいいじゃないですか。そう割り切って考えればいいんです。
でも,わたしは予想を立てる段階でこそ(ようするに多角的・多面的に考える段階でこそ),生きた言語活動が展開されると思っているのです。そのときにノートに自分の予想の理由を書くこともいいでしょう。友だちの気になる意見をノートに書き留めることもやっていいでしょう(こういったことは,仮説実験授業ではあまりやりませんが,普通の授業ではわたしもやっています)。それは否定しません。そうやっておいて,実験をする・観察をすることこそ,理科教育における言語活動を生かした授業ではないかと思うのです。 ま,指導主事の発言をいいように考えれば「今,わたしが話したような部分は前もってやっていて,その次の段階としての今回の授業がある」ということを言っているのだと思います。
でも,身の回りの理科の授業が,仮説実験授業のような言語活動を取り入れ切れていないことを考えると,試験問題対策をしてもなあ…と思うのです。
蛇足ですが,仮説実験授業では,その授業書の配列(問題配列)が大切になっていて,「子どもが思わず言語活動をしたくなる」問題がならんでいくのです。ある子は今まで習ったことを使って考え,ある子は直感で考えていく。そして仮説を作っていく段階になると,ほとんどの子たちの意見が収束していくことになります。そんな問題配列を大切にした授業づくりこそ,言語活動を充実させる授業につながっていくのです。
科学的な思考・表現
最後に,この授業の目的である「科学的な思考・表現」というものについて,一言書いておきます。
科学的な思考とはどんな思考のことを言うのでしょうか? 様々に考える,好き勝手に考えることを言うのでしょうか。
ヘリウムの入った風船が空に上がっていくのを見て,この現象を科学的思考を使って考えるとどうなるのでしょう。もし重さの学習がしっかりと終わっているのなら,答えはひとつしかありません。「ヘリウムの入った風船は,まわりの空気よりも密度が小さいから」です。これは試験の解答と同じです。ヘリウムには軽さがあるから…は間違った表現です。科学的な表現ではありません。
科学的な思考とは,ある原理・原則に従った思考と同じことです。質量保存の法則やエントロピー増大の法則をならったら,その法則に従って判断・表現することが科学的な思考なのです。
だから,この授業では,多面的・多角的な思考ではなく,科学的な思考を求めていたのでしょう。その二つを一つの授業で求めようとしていたので,わたしは混乱してしまったのでした。
その他,気になったこと
「小さな生き物」を「虫」ということについて
授業者から「〈小さな生き物〉のことを子どもたちはすぐに〈虫〉と言ってしまうので困る」…という意見が出されました(クラスの1/3)。どうしようか…と。でも,子どもたちにとって顕微鏡の世界で見える〈小さな虫〉というのは当たり前の表現であり,別にどうってことありませんよね。これを〈小さな生き物〉と言い換えたところで,新しい概念を習った気分にならないんだし。
本当にちゃんとしたいのなら,「プランクトン」という言葉を教えちゃえばいいのです。プランクトンの定義はよく知りませんが,「小さな虫のことを言う。小さな緑色のヤツを言う。」という程度でいいじゃないですか。私たちだってそれくらいの気持ちで使っているんですから。実際,教えていなくても,授業では子どもたちからはプランクトンという言葉が出ているんですから,それを使えるようにしてあげれば,いちいち「水のなかに棲んでいる小さな生物が」なんて書かなくていいんですよね。こういう言葉一つにしても,なんというか,現場の教師が教科書に縛られている姿はかわいそうだし,もっと責任を持って自分の判断で教える教師になって欲しいなと思いました。
これは,例えば「デンプンに対するだ液のはたらき」にも言えることです。「だ液はデンプンを糖に変えるはたらきがある」と教えちゃえばいいんです。で,その糖というのは,デンプンがバラバラになったものであることを分子レベルで教えればいい。そうすれば,「消化というのは,巨大な分子を小さな分子にすることなんだ」という原理が分かるのです。
ま,これは《もしも原子が見えたなら》をやっているから言えることでして,そうじゃない人は,糖になるとどうして小腸の壁を通るのかは,説明できないでしょうがね(現象としては,腸の皮を使って見せることは可能です)。それくらいやらないと,「いろいろな現象と知識を記憶するだけ」の理科学習からは抜け出せませんけどね。
少しタメになったこと
じゃあ,この整理会はまったく面白くなかったのかというと,まあ,面白くありませんでした。ただ,こういう視点は大切だなと思ったことがあったので,書き留めておきます。
それは,説明させる時に<説明しっぱなし…という状態はどうか>という問題提起です。これはわたしも常々思っていたことです。班から代表が出てきて黒板の前で説明する。しかし,ほとんどの子は聞いていない。説明する人は,どうにかして自分の言葉をわかってもらおうという意識で説明しないといけないし,聞いている人もわかって上げようと思いながら聞くべきです。
指導主事は「班で話し合った発表原稿を読んだだけでは思考力を高めたことにはなりません」と言って,思考力を高めるための発表のしかたについて,次の点を述べていました。
・話す立場…聞いている子にわかるように話す
・聞く立場…聞いている子が,自分の意見と比べたりして発表をまとめる
じゃあ,このような授業にするにはどうすればいいのか。
それもやっぱり仮説実験授業にその解答があります。仮説実験授業では,子どもたちが思わず,
「あいつはなんであんな予想を立てたのか」
「俺の意見とどこが違うのか」
「オレの意見をしっかり伝えて,よそう変更をさせてやる」
というような気持ちになる「問題」が並んでいます。まさに,そして討論を闘わせて予想変更をし,実験を待つのです。討論がなかった場合は,「そんな意見交換に時間を使うまでもない問題だ」と子どもたちが判断しているんですから,その判断に従えばいいだけです。ここには「しっかり聞くように」という強制もないのです(最低限の集団のルールは必要ですがね)。
ところが,今回の授業では,全員が,同じような意見を述べているだけですので,分かりやすくしようかしまいがあまり関係ありません。同じような意見を6回も聞かされるのは大人でもいやになります。実際,聞いていてもしんどいだけでした。
指導主事先生から,言葉だけを頂いて,自分の授業に組み込もうとする人も多いでしょうが,子どもたちはますますあっちを向くだけ…にもなりかねません。
内容と方法がしっかり組み合わさってこそ,授業運営がうまくいくようになるのです。そんなことを教えてあげたいなあと思うのですが,あの場で言っても仕方がないので,黙りを決め込んでいたのでした。
教育課程研究協議会で聞いたこと-理科を取り戻そう
石川県小学校教育課程研究協議会というものがあり,指令を受けて金沢まで出かけて行きました。
その会の最後に,指導主事から,教科調査官の話の紹介があって,それがおもしろかったので紹介します。
調査官曰く(指導主事が代弁しています)…
・言語活動の充実が走りすぎている。理科を国語化してはいけない。つまり,具体の事象現象やデータを離れて,言語活動を充実しても何の意味もない。
・信憑性のないデータから,言語活動を充実して結論を導いても何の意味もない。
・そんなに予想に対する訳を書くことが大切なのか。
などです。
それぞれ授業の具体例を挙げて,話して頂いたのでよくわかりました。
先の指導要領改訂の時には,「支援支援で指導を放棄するな」ということが言われました。
現場は,言われたとおりに真面目に取り組めば取り組むほど極端な方向に動いてしまうのです。昨今の学力もそうですね。大丈夫かなあって思います。
ある程度自分のスタンスを持っていないと,10年ごとの教育の流行に流されて,自分を見失いかねません。
みなさん,ご注意を。
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