第39次 石川県教育研究集会理科分科会資料
珠洲市立宝立中学校 尾形正宏
このレポートは、石川県の教研に提出したものです。この会には、仮説関係の人がなんと5人も参加して、なかなかおもしろい会でした。
0.はじめに
ボクは、生物が苦手です。ついでに地学も。観察するのもめんどーだったし、覚えることがいっぱいあって大変だったなあという経験しかないからです。「ある法則をつかめば、今までと違った世界が自分の目の前に広がる」というようなことが、全くなかったからです。
その点、物理・化学は違います。基礎的な概念・法則がしっかりしていて、あまり記憶力に頼らなくても、どうにかなったからです。もっとも、以上のことは高校までの話でして、物理学科に進学したのを最後に、物理からも落ちこぼれてしまいましたが・・・。
1.生物の授業書
しかし、生物界にも<基礎的・基本的な概念・法則>があり、それを感動的に学ぶこと、教えることができるということを知りました。それは、<科学の基礎的・基本的な概念・法則を感動的に教える>ために研究された仮説実験授業というものです。仮説実験授業は、ボクが教師になって以来、一貫して取り組んでいるもので、生徒たちからも絶大なる支持を受けています。しかし、仮説実験授業のなかでも生物分野の<授業書>は少ししか出来上がっていません。今までよく利用されているのは、
・<足はなんぼん>
・<にている親子・にてない親子>
・<背骨のある動物たち>
・<花と実>
といった<授業書>で、主に小学校で授業にかけられています。とくに、ボクが小学校で<花と実>を授業したときには、「生物の世界にもちゃんとした法則があるんだ」ということに、ボク自身感動してしまいました。また、最近完成・発表されたものに、<生物と細胞>という<授業書>があります。「すべての生物は細胞でできている」ということが、すっきりと腑に落ちるので、子供達にも受ける<授業書>です(3年連続計6クラスで実施した)。
そして、今回報告するのが、<生物とその社会>という<授業書(案)>からボクが学んだことです。この<授業書(案)>は、まだ開発途中で実験授業中です。「多様な生物社会の法則性をつかむ」というのが、この<授業書(案)>の目的と言えると思います。
2.常識的な<生存競争>
「あなたは、生存競争という言葉から何を連想しますか」と聞かれたらどう答えるでしょうか。
テレビの一場面。小さな魚が大きな魚に食べられる場面が出て来て、アナウンサーは、こういいます-「海の中で今も繰り広げられている生存競争の世界!」。テレビ世代の子供達は、生存競争という言葉に対して、何らかの常識的な認識をしているはずです。それを聞いてみます(「科学の広場・8903」,ネットでは省略)。
【質問1】 あなたは「生存競争」ということばを聞いた事がありますか。「生存競争」ということばから、どんなことを思い浮かべますか。思い浮かんだことがあったら、出し合ってみましょう。
【子どもの反応】
◎弱肉強食
・弱肉強食の世界。生きるために他の動物を食糧にすること。
・生き残るために互いに競争しあうこと。生まれたとき、多くのけものに襲われるが、それをかわしながら生き残ること。
・自分より強い動物から逃げたり、自分より弱い動物を食べたりして 生き残っていくこと。
・強いものが勝って生き残ることだと思う。
◎エサの奪い合い
・同じ仲間同士、何かを奪い合うときの争い。
・生き残るために、相手と闘うみたいな感じがする。たとえば、一つのエサをめぐって、他の動物と争って勝った方がエサを食べるーみたいのかなあ。
・彼女の取り合い。
◎その他
・戦国時代ってかんじ。人生ゲームみたいなもんやろーと思う。
・「受験」という言葉!を思い付く。
このように、生徒たちは「生存競争=弱肉強食」というふうにとらえていると言っていいと思います。そして、ボクもまた、そのように思っていました。皆さんも同じではないでしょうか。「1対1で闘ったときに強いほうが生き延びていく。弱いのは、やられる運命にあるのだ」という思いがずっーとボクの中にあったのです。特に「競争」という言葉から、こういうイメージが思い浮かぶのでしょう。
こう思うのは、何もボク達が馬鹿だからとか、生物学について知識がないからとかいうわけではありません。生物学者の柴谷篤弘氏は、自分の過去を振り返りながら、次のように書いています。
私が1955年以後山口県立医科大学の医学進学課程において、教養課程にある学生諸君に対して生物学を講義した時の経験にもとづいている。 ───(中略)───
この経験を通じて私は非常に顕著な経験をした。それは何かというと、ダーウィンの生存競争による自然淘汰の概念を、私が実はその時まで十分に理解していなかった、ということに、ハーディンの本を使って講義することを通してはじめて気がついたのであった。
(柴谷篤弘『今西進化論批判試論』朝日出版社 P46~47)
それまでは、生物学者でありながら、生物の生存競争というものを漠然と弱肉強食というような観点からしか考えていなかった。
生物学者が大学生に講義をする中で、<生存競争>についての概念が少ずつ(あるいは突然)変わったというのです。
生存競争というものを、個体レベル(1対1)でしか考えられないところに、常識的な考え方の限界があるのでしょう。それでは、科学上の<生存競争>とは、どういうことなんでしょうか。また、その概念が常識的な概念よりも有効になるのは、どういう場合なのでしょうか。
3.科学上の<生存競争>
(1)ダーウィンと生存競争
などと書いてみても、ボクはよく分かっていません。それでも、<生物とその社会>を通して知ったことを書いてみます。
科学上の<生存競争>といっても、どうもすっきりとしたものがないようなのです。最初に言い出したのがダーウィンであることは確かなようですが、翻訳の段階で混乱したとおもわれます。この辺りのことにつ いて、森主一氏の「動物の相互作用」を見てみます。引用は孫引きです (山本海行「生存競争研究紙No.3」より)。
│ さて、それでは食物連鎖関係の一般的な性格についてしらべてみよう。ELTONの提出したものを補足しながら、つぎにのべよう。
(森主一「動物の相互作用」『動物生態学』宮地伝三郎他 朝倉書店 1961)
a)この関係は一方的関係で、対等の立場にあるものの関係ではない。
実はこのことを明瞭に示したのはDARWIN(1859)である。DARWIN説が紹介されるときに生存努力(struggle for existence)がのべられるが、その内容は正確に伝えられていない。生物は非生物環境および生物環境に対して生存のために努力するが、この生物環境に2様あり、1つは競争者(competitor)に対するものでこれが競争(competition) であり、他の1つは敵(enemy) に対するものである(これに対しては特別のことばが用いられていない)。つまり競争者は同じものを要求するものであるが、敵は自分を食べにくるものである。ところが通俗の紹介では、いずれも生存競争と訳されるが、DARWINはこの2様の関係をけっして混同せず、用語も使いわけているのである。もっともDARWINはこの2様の関係のうち、どちらかというと同類関係――競争者との関係に重点をおいて論をすすめたということはある。要するに、同類関係ならば立場は対等に近いが、食物連鎖関係は一方的関係である。LYSENKOは、種内競争否定論において、種内に競争がもっともはげしいとするなら、オオカミとウサギの関係で、ウサギがオオカミからうける災厄の方が、ウサギが互いどうしからうける災厄よりも小さいとしなければならないことになる、といって反対した。しかしこの論は、食物連
鎖関係と同類関係の質の違いを混同したものといえる。
これによると、ダーウィンは、次の2つの関係を区別していたことになります。つまり、
・競争…エサとすみかの似た者同士がより子孫を多く残そうとする。
・敵…食う食われるの関係。弱肉強食。食物連鎖関係。
ということです。ところが日本語ではどちらも<生存競争>と訳されてしまって、そのために概念のいろいろな混乱があったのかも知れません。先ほどの柴谷氏は「学生に講義している間に急に新しい考えが浮かんだ」として、次のように書いています。
生存競争を考える場合、食うか食われるかの関係で結ばれている生物を想定する必要はなく、長い時間の幅で見て、一定の空間で一定の資源をもとにして生物がくらしている場合に、子孫の残りぐあいにおいてどちらが率が良いか、ということによって生存競争の勝ち負けは決まる。
(柴谷篤弘『今西進化論批判試論』朝日出版社 P50)
──このように生存競争の考え方を、私は頭の中で切り換えたのである。これはダーウィンから習ったというより、ダーウィンの生存競争の概念を私なりに再発見したということになるのである。これは私としては非常に大きな体験であって、それ以来私は、今西錦司の棲みわけの理論を、ダーウィンの生存競争によって説明できる、という考えを定着させてきた。
そこで、科学上の<生存競争>の定義をダーウィンに戻って確認しておきたいと思います。それは、ダーウィンが本家本元だからという消極 的な理由ではなくて、生態学・進化論への橋渡しとしても大いに意味があると思われるからです。
(2)個体レベルと種レベルの法則
生物の世界は、1ピキずつを見ることと同時に、群として種として見ることも必要です。個体レベルにあてはまる法則が、そのまま種レベルにも適用できないこともあるからです。「弱肉強食だから、種も弱いほうが絶滅するか」というとそうではない。逆に、「個体レベルでは一見何の関係の無いものが、エサとすみかが同じだと一方の種を絶滅させてしまうことがある」という。
<生物とその社会>では、生存競争と弱肉強食を次のようにとらえています。
個体レベル | 種レベル |
食う食われる。弱肉強食。 | 滅びることがない(つりあい) |
エサとすみかは同じだが、お互いにいにケンカしたり殺しあったりしない。無関係。 | 片方が滅びる(生存競争) 又は 共存…すみわけ(1) |
個体レベルと種レベルとの法則の違いを浮きだたせることで、科学上の概念の有効性を納得させることができるでしょう。
4.有袋類と胎盤類の生存競争
<生物とその社会>では、どのようになっているかみてみましょう。
【質問1】で「生存競争と聞いて何を思いますか」と聞いた後、次のように問題が続きます。
【問題1】ディンゴによってオーストラリアの有袋類はどうなったか。
いままで有袋類しかしなかったところへ、肉食の胎盤類がやって来たら、どういう種が滅ぶか滅ばないかという問題です。常識的に考えると「肉食動物がやってきたんだから、エサになる草食動物が幾つか滅びるだろう」ということになります。「その草食動物を食べていた肉食の有袋類も滅んだかも」というのも多いです(「科学の広場・8904」)。
ところが、実際に滅んだのは肉食の有袋類フクロオオカミだったのです。こりゃーどうしてかということで次の問題へ。
【問題2】フクロオオカミとディンゴはどっちが強いか。
フクロオオカミが滅んだのはディンゴと闘って負けたからなのか。それとも別に理由があるのだろうか。
まず、1対1で闘ったらどうなるでしょう。これもごくごく常識的に考えれば「フクロオオカミは滅んでしまったんだから、ディンゴの方が強かった」ということになりますが。
これは、「肉食動物と肉食動物とは用もないのに闘ったりしない」というのが野生動物の世界なのです。ですから、ディンゴがやってきてからも、フクロオオカミとディンゴはそれぞれ勝手に狩りをして暮らしていたというわけです。
【問題3】それならどうしてフクロオオカミは滅びたのか。
1対1では、決着がつかない、それどころかかかわりあいもないとするならば、どうしてフクロオオカミだけが滅んでしまったのでしょうか。自由記述で書いてもらいました。
生徒の意見は、だいたい次のようです。
◎ディンゴにエサを取られた説
「フクロオオカミが食べようとしていた動物とかを、先にディンゴが食べてしまったので、フクロオオカミは食べるものがなくなったしまった」「取るものはどちらも同じだからディンゴはうまく取って、フクロオオカミは、うまく取れず、食べるものがなくなってディンゴが生き残った」
◎ディンゴは狩りがうまい説(エサを取られたという補足)
「ディンゴとフクロオオカミがエサを見付けたとき、フクロオオカミよりもディンゴの方が、足が速かったので、エサにありつけなかった」「ディンゴの方が、人間に飼われていた分だけ、頭が良くて要領が良かった」
◎人が殺しちゃった説
「人間に食べられた」「人を襲ったりしたので、人がほとんどのフクロオオカミを殺した」
◎病気説
「伝染病があった」 「フクロオオカミは生命力が弱かった」
◎そういうときだった説
「死ぬ運命にあった。時代の流れには逆らえない。時代に乗り遅れてしまった」
◎子供がいなくなった説
「Babyが生まれない」「ディンゴの方が赤ちゃんをたくさんうむか、はやく赤ちゃんができるか、どちらかだと思う」
そのほかに,◎仲間割れ説,◎勝手に滅んだ説など,いろいろと考えていたようです。
この問題で、個体レベル(1対1)ではなくて種レベルで考えるきっかけになれば良いのです。
「有袋類フクロオオカミは、ディンゴと比べて、子供の残し方で決定的に不利な条件だったために滅んでしまった」のです。エサとすみかが限られており、そこに似た者同士が住む場合には、ディンゴとフクロオオカミのようなことがおこる、これが<生存競争>ということです。
【問題4】カンガルーとディンゴはどっちが強いか。
この問題から、「肉食の胎盤類ディンゴがきてからも、草食の有袋類が全く滅んでいない(もちろん種レベルで)のはどうしてか」を考えていきます。
この授業を何も知らない生徒にこの問題(どっちが強いか)を出したとすると、おそらく「ディンゴの方が強いに決まっているよ」と答えると思います。「だって肉食だもの」というわけです。しかし、フクロオオカミの問題をやっており、カンガルーが滅んでいないことを知っている生徒の中には、常識的な考えができなくて悩む子も出て来ます。
カンガルーとディンゴの関係は「食う食われる」の一方的な関係で、これを<弱肉強食>というのだと確認します。
【問題5】カンガルーはどうして滅びないのか。
「弱肉強食なのにどうして滅びないのか」を考えてもらいます(選択肢あり)。ほとんどの子は「エサが違うから」と予想してくれます。
「弱肉強食なのに滅びない」というよりも「弱肉強食だから滅びない」という「つりあいの世界」があることを確認します。生徒たちは、ここでも、個体レベルと種レベルの法則の違いを納得するでしょう。
この後、いくつかの類題を出して、<生存競争>の概念を確かなものにしていきます。今年(1989年)の5月に発表された「七つ島大島でのカイウサギとオオミズナギドリのこと」も、「限られた島で、すみかが似ていた」ために起きている、生存競争といえるでしょう(資料2)。
そして<授業書>は、「すみわけ」の問題になります。これは省略しますが、その一端は「科学の広場・8905」を見て下さい(ネットでは省略)。
5.<生存競争>にこだわって
(1)<生存競争>が教えてくれるもの
生物界を支配している法則を知らないと、結果として、とんでもないことになることがある。「食う食われる」のつりあいは食物連鎖関係として、教科書にもよく取り入れられているので、まあまあ分かるのですが、「生存競争」や「すみわけ」の方は、そうはいきません。
たとえば、七つ島のことがそのいい例です(資料2)。この島にカイウサギを数匹放した人は、「オオミズナギドリを滅ぼしてしまおう」などと思っていた訳ではないでしょう。それより「ウサギがかわいいので、広いところに放してあげよう」という善意(動物愛護の精神)で行ったことだと思います。ところが、自分の行為がもたらしたのは、島の生態系の破壊というとんでもないことだったのです。善意でやったことが、結果としてそうならないことは日常生活でもよく見られることです。それは、いずれも「その関係を成り立たせている法則を知らないことによる」のが多いようです。科学的に考えることがとても大切になるのは、まさに、こういうときなのです。
<授業書>での例をひとつあげましょう。
ジンバブエの人達は、草原に牛を飼っていました。そこには、同じ草食動物のバッファローも住んでいました。あるとき牛が病気にかかり、「バッファローからうつったのではないか」ということでバッファローを殺すことにしました。しかも「バッファローがいなくなれば、草も牛がひとりじめにできる」というわけです。ところが、牛は同じ草ばかり食べたために、エサがなくなってしまったのです。そして、牛の食べない草ばかりが増えてきてしまったのです。牛とバッファローは、エサにする草が違っていて、ちゃんとすみわけていたのです。ジンバブエの人達は、これに気がついてバッファローを増やし始めましたが、一度失われた生態系は、なかなか回復しませんでした。「いろいろな草食動物がいて、いろいろな草を食べていてこそずっと牛を飼い続けるができる」のです。
以上のようなことは、自然保護を考えるうえでも重要な示唆を含んでいます。道徳的に「生き物を大切にしよう」というだけでは、どうにもならないこともあるのです。<生存競争>という概念が定着するにつれ、ボク自身の世界も広がりました。
(2)生態学から経済学へ
授業書<生物とその社会>を中心になって作成している山本海行さんは、現在、高校の教師です。彼は、時々「生存競争研究紙」というのを発行して、授業書作成上発見したことや新しく知ったことなどを、その都度、送ってくれます。とても興味深い内容です。その中で、<競争>という言葉の語源を探っているところがありました(実際には共同研究者の宮地さんの調べたこと)。
実は、この<競争>という言葉は、もともと日本で使われていた言葉ではありません。英語のcompetition の訳語なんです。訳語を作ったのは、あの福沢諭吉です。
と紹介しています。これは、『福翁自伝』に出ているそうです。しかも福沢は、経済学の用語として<競争>という訳語を造り出したそうです。<競争>という言葉が日本に昔からあったんだろうなあ、と、何の根拠もなく思っていたボクは、非常に驚いてしまいました。
このプラン(生物とその社会)の第2部(現在の案では第3部)では<すみわけ>をあつかうわけですが、生徒さんの中には「マクドナルドとロッテリアの関係と同じ」(両方ともファーストフードのハンバーガーショップ)というような理由もでてきます。<生態的地位をめぐる競争>と<経済活動の競争>との類似性があるのも、競争という訳語のでき方からすると当たり前なのかもしれません。
(山本海行「生存競争研究紙No.4」)
というわけで、話は経済学にも広がります。<生物とその社会>を受けた高校生が、<商売とその社会>という授業書を作って来たという話もおもしろいです。
授業が楽しいと、こういう効果もあるんですね。研究自体を楽しんでいる人達だからこそ、楽しい授業を開発できるのでしょう。
〈引用・参考文献〉
・授業書案<生物とその社会>
・山本海行「生存競争研究紙」
・柴谷篤弘『今西進化論批判試論』(朝日出版社,1984.9)
・山本海行・宮地祐司『生物とその社会』名古屋仮説会館紀要巻2(名古屋仮説会館,1987)
・日高敏隆『動物にとって社会とはなにか』(講談社学術文庫169,講談社)
コメント
とてもおもしろかったです。他の授業書でもそうですが、科学的なことを学びながら、自然と社会のことにまでつなげて考えるようにできていて、素晴らしいと思いました。自分も授業書をやることで、そんな考え方ができるようになってきたことを感じました。
コメントありがとうございます。このレポで取り上げている「生存競争」という概念は,自分自身がよく分かっていなかったからこそ,授業も,自分の研究もたのしく続けられたものです。ちょうど,地元の新聞で舳倉島のことが話題となっていて,とてもタイムリーでした。新しい概念を知るって,こういうことなんだということを身をもって体験したことを思い出します。新しい概念との出会いは,心が躍ります。