今月の本棚・2008年版

12月号

●福田誠治著『競争やめたら世界一-フィンランドの教育の成功』(朝日新聞社,2006,250p,1200円)
 フィンランドの教育は何をめざして進んできたのか。そして今,それがどのように実現しているのかがくわしく書かれています。
 PISAで世界一になったと大騒ぎされるフィンランドの生徒とはいえ「学習意欲逓減の法則」(板倉聖宣言)には逆らえず,嫌々勉強しているようです(別に本書にこういうことは書いてない。中一夫著『学力低下の真相』(板倉研究室,2005)にくわしい)。だから,諸手を挙げて「フィンランドの教育を取り入れよう!」と叫ぶつもりは毛頭ありません。ただ,フィンランドの教育には,日本が失ってしまった平等性が保証されており,ほんとうのリベンジも保証されています。生涯学習という視点もしっかりあるのも立派だなと思います。
 フィンランドの教育は「現場において平等と個別のニーズとの微妙なバランスをとっている」といいます。その点について,日本の国立教育政策研究所(昔の国研)は「フィンランドは得点も高く,分散も小さいことから,すべての生徒に数学的リテラシーがすべての学校で高い水準にある」という一つの理想像に最も近い結果を示していると言える」と高い評価を下しているそうです。
 日本が積極的にやろうとしている習熟度別授業なども廃止されているようです。そういう面では,学ぶことがおおい国であることは確かです。すくなくともサーッチャー改革のイギリスよりは,ぜったいにマネすべき点があると思います。

●実川真由・実川元子著『受けてみたフィンランドの教育』(文藝春秋,2007,284p,1600円)
 上の本と同様,先月のサークルでH氏に教えてもらったものです。これは,知らない世界をのぞき見るようでたいへんおもしろかったです。
 真由さんが,高校生の時にフィンランドに1年間留学をします。それはフィンランドの教育を調べようとか受けてみようと思ったわけではなく,単に,フィンランドに行ってみたかったから…。姉も高校時代に留学経験があるらしく,ま,小さいときからそういうつもりでいたというわけです。
 母親の元子さんは,翻訳家で物書きということもあり,その面では飛んでいるというか普通の家庭の母親とはちがいます。
 そんなんでたまたま行ったフィンランドの高校生活をとても楽しく書いてくれています。
 日本の教育界の常識では考えられないことがたくさんあります。一体どっちがほんとうに子どもたちに合っているのかなあって思いながら,結論もでないまま読了しました。

●阿部菜穂子著『イギリス「教育改革」の教訓』(岩波ブックレット,2007,63p,480円)
 中さんの「イギリスの教育改革」のお話に刺激されて,購入しました。
 本書の内容は,あのときの講座でだいたい聞いていたのでよく分かったのですが,一つはじめて知ったことがありました。
 すぐに結論を言わないでちょっと考えてみましょう。
 さて,サッチャーが行った「88教育改革」の流れを,次のブレア労働党政権(1997年5月成立)はどうしたと思いますか?

 予想 ア すぐに後退の方向に行った
    イ 今まで通りの教育政策を続けた
    ウ これまでより,さらにサッチャー的な教育政策を推し進めた
 さて,どう思いますか。

 ブレア首相は,「政権の最重要課題は,エデュケーション・エデュケーション・エデュケーション」と述べたと言います。ということは,教育の中に新自由主義を持ち込んだとされるサッチャーの教育政策を破棄し,すぐにでも国民本位の新しい政策に変更したのでしょうか? それとも,サッチャーの政策を推し進めることこそ「教育を最重要課題」とするにふさわしいと考えたのでしょうか。
 本書によると,ブレア首相は,
▼教育費を年々,大幅に増額した。教育技能省によると,教育予算は2007年度には政権発足時の1996年度教育予算より300億ポンド以上増えており649億ポンドとなり,ほぼ倍増した。(p.8)
といいます。で,その内容は,
▼義務教育に関しては,ブレア政権は,ナショナルテストとその結果の公表を中心とするサッチャー改革の柱をすべて維持して「学力向上」策を継続した。ブレア政権下では,学力向上政策は保守党政府よりもいっそう強化され,国家管理が強まったと言える。(p.9)
とも書かれています。
 こうしてイギリスの例をみてくると,「学力低下のため」という合い言葉で「教育改革」を押しするめることは,保守・革新の境目をなくするほどなのです。換言すれば,それほどまでに「学力低下論」というのは危険な思想だということだとも言えるのです。
 イギリスの教育界は,日本とは全然違って,組合だけでなく校長会も堂々と国の教育政策を批判します。
▼続いて壇上に立ったある小学校長は,ピノキオの操り人形を見せて「これが現在の校長の姿。(政府の)操作の糸でがんじがらめ」と皮肉たっぷりに言った。(p.46)
 これこそ,今,日本でも求めようとしている「リテラシー」の一部だと言えますが,日本の管理職を見ていると,そんなリテラシーのかけらもない集団であることに愕然とします。
 だからこそ,私たち平の教員が,いろんな学習をして子どもたちを守ってあげないといけないんだと思います。

●川合章編『社会科教育の理論』(青木書店,1979,236p,1200円)
 なにを読んでるのって?
 これ,うちのかみさんが大学時代に使っていたテキストらしいです。
 社会科のこういう本は,ほとんど読んだことがありません。何で今更。
 3学期に,社会科の公開授業をすることになりました。今までにも社会科の歴史の授業などはやったことがあるのですが,地理なんて何のために教えるのかよく分かっていません。社会科というと「ひたすら覚えるだけ」という経験しかない理科系の人間にとって,社会科の授業は,ちょっとした説明と作業をさせると1時間がどうにか終わるという発想しかありません。
 そんな気持ちでやってきたと暴露しても,次の手は何も生まれないのです。そこで何か理論本を読んでみようって思い立って,古い古い本を手に取ったわけ。今まで捨てないで本棚に並べておいた私は偉いなあ。かみさんもあきれ感心していました。
 章立てを書いておきます。
 序章 教育基本法30年と社会科の30年
 第1部 社会科教育の歴史的検討
  1 社会思想と社会科的教育論
  2 戦後初期の社会科
  3 社会科教育研究の発展-日本生活教育連盟を中心に-
 第2部 社会科教育の基本問題
  4 現代学校と社会科教育
  5 科学的社会認識と教育研究運動
  6 地域現実と教育実践
  7 楽しくわかる社会科
 第3部 科学的社会認識と社会科教育の方法
  8 科学的社会認識とその形成
  9 社会科教育の方法
 終章 社会科の課題と展望
 これを見ても分かるように,たいへん哲学的な内容から,具体的な教育実践の分析まで,多岐にわたって書かれています。ホッブス・ロック・スミス・スペンサーといった哲学者・社会学者の名前が出てきて,やってられませんが,ふしぎとそんなに難解ではなかった…みたい。
・地域の問題を日本社会の内蔵している基本問題として位置づけ,いわば一般化する作業(65p)
・社会科がたんにそれ自体の問題ではなく,学校のあり方,社会のあり方とかかわるからこそ,さまざまの社会的な過程が社会科教育の自由な発展を阻害することにもなるわけである。わたくしたちが社会科を研究し,社会科を実践しようとするときには,好むと好まざるとにかかわらず,右のことを事実としてうけとめてかかる必要があろう。(88p)
・どんなに子どもから離れて構成された知識を子どもに与えても,それが学習されるかぎり,それは子どもの認識を再構成したことになるわけである。(91p)
・社会認識は,部分の把握を科学的なものにしていくことをつみ重ねることによって,全体の把握の再構成にせまるという性質をもっている。レーニンが,認識は一般に「直線ではなく(あるいは直線的に進むものではなく),円の系列すなわち螺旋へ限りなく接近していく曲線である」としたのは,このような意味であろう。(同上)
・わたくしたちは,社会科教育をつうじて青少年に,社会を発展するもの,発展させうるものととらえさせたいと考える。(171p)
 まだまだいっぱいの刺激的な言葉がありました。学生時代に引いた鉛筆の線が残っているふしぎな社会科体験でした。
 これがどう授業に生きるのかは,不明。(^^ゞ

●姜尚中・小森陽一著『戦後日本は戦争をしてきた』(角川oneテーマ21,2007,251p,700円)
 哲学者の姜さんと,文学者の小森さんの対談集。お二人とも漱石に関する著作もあります。
ま,とても説得力のある論理を組み立ててお話をされています。頭がいいというのは,こういう人たちのことなんだろうなあって思います。
 他のネット上でも,たくさんの書評が読めますので,くわしくはそちらでどうぞ。

●山田真著『子育て-みんな好きなようにやればいい』(太郎次郎社,1990,270p,2100円)
 アマゾンのマーケットプレイスでたったの1円。送料が340円だから,341円の本。BOOKOFFより高いけど,欲しい本がすぐに手に入るネットはやめられない。
 小児科医の山田さんが自分の子育ても披露しながら,「そんなに肩肘張らないで好きに子育てしましょう」って呼びかけています。
 本書の中で言及されている本にも興味を持ちました。ただ,すぐに手に入れても読まないとは思いますが…。でもついつい購入してしまった…。

11月号

●波多野完治・銀林浩編『教科の論理と心理 算数・数学科編』(明治図書,1969,191p,1100円)
 先月少し触れたことですが,民間教育団体が元気だった頃まとめられた本を2冊手に入れました。『教科の論理と心理』というシリーズものです。算数・数学科(古本で2000円)と,理科(古本で1000円)でした。
 いくつか初めて知ったことを書いておきます。
▼日本の数学教育は,19世紀としてもっとも典型的であったドイツの影響を受けたことと,富国強兵の強い国家的要請とともにその性格が強められたことに特徴がある。たとえば,比例に量的背景を考えることを,「イギリス式技術主義」として拒否したとか,幾何において代数的演算の使用を拒否したとか,先進ドイツの教育秩序への傾倒(それは19世紀的教育秩序への傾倒でもあるのだが)が強い。(「数学教育の現代化」31p)
 「量」が数学教育からぬけたのにはドイツ主義があったというのです。そして,いわゆる黒表紙と呼ばれる教科書が発行されます。この黒表紙についても,
▼《量の追放》こそは,数え主義の教組藤沢利喜太郎の最大の主張であったといってよい。(「数学教育の理論」69p)
▼藤沢理論といわれる「量の追放」をかかげた黒表紙の教科書は,古典形式主義の日本における形態であった。(「数学教育の現代化」39p)
というふうに,藤沢利喜太郎という名前が出てきます。私はこの人のことをよく知りませんが,以前,藤澤利喜太郎編纂『算術 教科書・上巻』(明治30年)という本を紹介したときに,初めてこの人の名前を知りました。
 「日本の科学者・技術者100人」というHPを見ると,
藤沢利喜太郎(1861-1933)
新潟県新潟市生まれ。日本に西欧の数学を全面的に移入した数学者、日本の生命保険・年金理論の草分け。

と紹介されていました。詳細はど同HPを見てください。
 とにかく,「量を大切にしよう」というのが数教協のスローガンなのですが,それは,この利喜太郎を始めとする算数教育の反省から来ていることになります。
 この量を切り離してしまうというやり方について,本書は以下のように述べています。
▼数学史上からいえば,量と切り離して数を構成しうるようになったことは,確かに画期的なことであり,19世紀後半における数学の自立を意味している。-中略-しかし,数学として,一度量を剥奪するとことは自立のための必要なことであったのであるが,それをそのまま数学教育へ適用することは正しかったのであろうか?それが正しくないことは,元来量の法則を反映しているはずの,数の概念やその算法を子どもの経験から導き出しえないところにあらわれている。実際,数え方主義の教科書『黒表紙』は,たとえば分数のかけ算の規則を何ら合理的に説明しえず,頭から約束として与えざるをえなかったのである。また,量の剥奪は,数学と他の科学,あるいは学科,とくに物理学とのつながりを断ち切ってしまう。そして,このことは,今日社会科学への広汎な応用においても,また不都合を生じることなのである。(「数学教育の論理」70p)
 私は,一貫して「単位をつけた式」にこだわってきました。それは,物理学では当然だからです。物理を専攻した私にとっては,単位からいろんな関係を考えるのは当然なのです。たとえば,加速度の単位が「m/s2」であることが分かっていれば,加速度に「時間s」をかけることで「速さ」が出てくることは当たり前なのです。
 また,私にとっては単位は文字式でもあります。文字式のひとかたまりを缶詰にして単位にしているものもいっぱいあります。
 量を切り離した指導は,特に算数が苦手な子には,何が何だか分からなくなります。面積を計算しているのか体積を計算しているのか,わからなくなる子もいます。違う量を足し算してしまう子もいます。足し算やひきざんは,同じ単位でなければならないと指導した方がどれだけいいでしょうか?こういうことを1年生からやってくれれば,たぶん,高学年ではもっと落ちこぼしが少ないと思うのですが。
 本書の内容には,もっと水道方式について書いた部分と,数学について書いた部分があって,さすがに数学の部分は理解できないカ所もあります。
 教科書の指導法をもう一度見直して,指導していきたいし,全体計画をしっかり立てたいものですね。

●波多野完治・道家達将編『教科の論理と心理 理科編』(明治図書,1968,187p,1100円)
 本書については,気に入った部分を別紙にまとめて,県教研の理科分科会で配布をしました。今年,共同研究者になった私は,そんな人様にアドバイスもできません(言いたいこといってるだけならいいけど…)。そんなわけで,少しでも参加者の役に立てばと本書を引用した資料を作って持っていきました。
 本書なんて。まだ,古典とまではいきませんが,それでも40年前に出版された本です。10年ごとに改正される学習指導要領と,それに併せて振り回されてきた現場だからこそ,時には原点に戻った読書で自分の居場所を確認することが必要です。そして,あらたな情報や技術を取り入れながら,きちんとした指導をしていきたいと思うのです。
 上記の本同様,この本も大変熱い本でした。科学教育協議会,極地方式,仮説実験授業などが結成されたり,提唱されたりして,10年くらいの本ですので,その勢いが感じられてよかったです。
 引用文については別資料で紹介します。

●高橋金三郎著『極地方式による授業の研究』(評論社,1974,204p,1000円)
 本書も,30年以上も前に出版されたものです。
 極地方式については,以前から名前も知っていて,「教科書から離れないでいかに興味深くやるか」というような授業という認識くらいしか持っていませんでした。本書は,H小学校にいたときに理科センターの名残として残っていた本で,廃棄処分になったので持っていました。今回,やはり久しぶりに理科分科会に参加することになったので,読んでみました。
▼「何を教えるか」決定しないと「いかに教えるか」を決定できないという考えに私たちは反対である。内容と方法を切り離すことはできない。「何を」の決まるときは「いかに」の決まるときであり,「いかに」を決めるには「何を」が必要である。(6p)
 教科書にある内容をどのように教えるかではなくて,「いかに教えるか」その方法が確立された「内容」を教えなければならないのでしょう。そしてその内容も科学の基礎基本でなければ意味がありません。
 極地方式も授業プランの一つですが,仮説実験授業との違いは,たくさんあります。というか,ほとんど違います。
▼「誰にでもできる」ことをめざすと,どうしても画一的な授業方式が採用されてしまう。そうではなく,教師により子どもにより独自の授業方式を自由に展開する武器として「誰にでも使えるテキスト」を私たちは目標としたい。(8p)
 テキストというものが実際にどういうものなのか知りませんが,ネットで引っかかってくるものをみると,指導計画のようなものでした。やはり仮説実験授業とは全く違うのです。
 しかし,この後,仮説実験授業と極地方式のどちらが生き残ったかといえば,一目瞭然でしょう。極地方式の実践者と一度話をしてみたいなあと思います。

●木村哲也編『手を足をもいだ丸太にしてかえし』(巴書林,2007,256p,2100円)
 本書は,反戦川柳作家・鶴彬(つるあきら)の「川柳全集」です。
 鶴の「川柳全集」というと以前県立図書館から借りていた本の紹介をしたことがありますが,あれは手に入りにくいし,古本でも1万円近くもする高価なものです。「全集」でこんな安い本が出ているとは知りませんでした。
 鶴彬の情報を知りたくて「北國新聞」のウェブサイトで「新聞記事検索」をしていたところ,この本の記事が見つかり,出版社までメールして手に入れました。この巴書房というのは,なんかはんぶん同人誌っぽいなあと思うような本を作っているようです。たった1冊の注文でしたが,速いし,送料もいらないし,なんとも良心的な出版社でした。アマゾンで買えるかどうかは知りません。

●稲垣栄洋著『キャベツにだって花が咲く』(集英社新書,2008,214p,740円)
 授業書《タネと発芽》の学習にピッタリの本です。本屋さんで見つけました。写真などがあればよかったのですが,ほとんどが読みものです。
 これを読むと,野菜などの花が見たくなると思います。
 来年は,学校の花壇に「花や実を見るための野菜栽培」をしようかなあ。

●喜納昌吉著『すべての武器を楽器に』(冒険社,1997,221p,1600円)
 金沢の古本屋「加能屋」で購入。著者は,「ハイサイおじさん」「花」などのヒット曲で有名な歌手です。私は彼の大ファン。ついでに加能屋さんにもずいぶんとお世話になっています。

以下,今回は題名だけ。
●茂木健一郎著『欲望する脳』(集英社新書,2007,222p,700円)
●姜尚中著『悩む力』(集英社新書,2008,190p,680円)
●杉山登志郎『発達障害の子どもたち』(講談社現代新書,2007,238p,720円)

10月号

●板倉聖宣著『磁石につくもの新発見!』(ナトゥラ・ジャパン,1982,36p,1500円)
 ずいぶん昔の本を紹介します。
 実は本書と次に紹介する本は,ナトゥラ・ジャパンという出版社から発行されていた「サイエンス・スピリッツ・シリーズ」の1冊なのです。このシリーズが何冊発行されたのかは知りません。裏表紙を見ると,続刊予定に「太陽光と遊ぶ」「レンズのいろいろ」などと出てきますし,これからの予定にもたくさんのテーマが挙げられています。
 でもナトゥラ・ジャパンが営業休止になって季節社に販売を移したものらしいです。
 このシリーズは「本と実験器具」がセットになって販売されていたらしくて,家でもすぐに自分で実験できるようになっているようです。
 内容は,フェライト磁石でいろいろとやれる実験が出てきます。小学生が見つけた「磁石に付く赤土」や「鉛筆の削りかす」などの話から,磁石に付くクレヨンの発見などに話題が及びます。小さな力でも引きつける力を感じられる実験方法についても,それが大きな発見とつながっていることを指摘してくれています。

●板倉聖宣著『反磁性と常磁性の新実験』(ナトゥラ・ジャパン,1983,76p,2000円)
 シリーズの2冊目です。
 こちらの方は,偶然にみつけた「シャープペンシルの反磁性」について読者でも実験しやすいように書いてくれています。本書には,反磁性を発見したファラデーの手紙や論文の紹介もあり,踏み込んだ研究もできるようになっています。
 この手紙は,まだ「反磁性の論文」を発表する前に友人に宛てたものであり,自分が見つけたことを興奮して友人に語っているファラデーの姿がとても印象的です。
 本書の論文内容は,『授業科学研究・第5巻』『授業科学研究・第6巻』(仮説社,1980)に掲載されていたものを転載して単行本化したものだそうです。
 以前読んだときに,あまり感じなかったのに,今回一読して感じたことがありました。
 それは,「いろいろと実験を重ねながら,自分で発見したりすることの楽しさ」のことです。「サイエンス・シアター」の準備のときに,みんなで集まってワイワイやったことを思い出します。特に,音や静電気の実験では,いろいろとやりました。蓄音機を分解したりもしました。先月の「予想するから知りたくなる」というレポートも,自分で実験をして少しずつ分かってくる楽しさを書いたものです。こういう経験を子どものときからできるといいですね。

●板倉聖宣他著『科学の歴史』(小学館,114p,復刻版)
 以前の仮説の全国大会で手に入れました。ほっぽっておいたのですが,本棚から手にとって読んでみました。すると,なかなかいい本でした。
 本書は小学館の『学習科学図鑑シリーズ』の11巻目です。
 著者は,板倉さんを始めとして,菅井準一専修大教授・立川昭二北里大教授・鎌谷親善東洋大助教授(いずれも当時)です。
 図鑑といっても,パラパラとめくるというよりも,しっかりとした読みものになっています。子ども向けの簡単な科学史の本なのです。誰がどの部分の文章を書いたのかは署名がないのでわかりません。しかし,次のような文章を読めば,それは板倉さんが言いたかったことに違いないのです。
▼科学研究というのは,みんなの協力で,自然のなぞをひとつひとつ明らかにしていくものです。こっそり研究したいたのでは,秘密をまもれるかわりに他人の意見も聞けないので,研究がうまく進みません。それに,いきなり金をつくろうとしたって,自然の法則がよくわからなければ,めくらめっぽうになってしまいますから,科学的なやり方とはいえません。本当に金をはやくつくりたいのなら,たくさんの研究者が協力して,自然の法則をひとつひとつときあかしていったほうが,けっきょくは早いのです。「とじこめられた科学」21p
 本書を研究向けに復刻してくれたのは西川浩司さんで,それは1986年のことです。
 元本の発行は分かりませんが,同じシリーズの本『宇宙のすがた』が昭和44年(1969年)発行になっているところをみると,そのころ発売されたのだと思います。
 このシリーズ,もしかしたら,学校の図書館にぼろぼろになってあるのかも知れません。一度探してみて下さい。廃棄される前にゲットしましょう。

●板倉聖宣他著『授業科学による教育観の変革2』(ガリ本図書館,2006,167p,1000円)
 編集者は,犬塚さんと斎藤萌木さん。
 副題に「授業科学と矛盾論」とあって,なかなか哲学的なアプローチの本となっています。
 本書の前半は,板倉さんの以前の講演記録「授業科学と矛盾論」(1976年)を再録し,その文章について萌ちゃんが板倉さんに質問をし(2006年),萌ちゃんなりに理解したものをレポートにしてくれています。
 この講演でも言及されている『科学の形成と論理』(季節社,1972)は,私の本棚にももちろんありますが,物理学の知識が薄れてきた今の頭となってはなかなか読み切れない本なのですが,こうしてわかりやすく紹介されると「どれどれ,再度手にとって読んでみようかな」なんて思いますから不思議です。
 また,後半部分には,矛盾論を理解するための資料として「板倉矛盾論入門」(1982)も掲載されており,これはとても楽しい座談会の記録です。
 さらには,平林浩さんの「問題解決学習と仮説実験授業」という論文のコピーもあり,これは初めて読んだのですが,仮説実験授業が成立する教育界の流れと,理科教育での優位性が分かっておもしろかったです。もともとは『教科の論理と心理5(理科編)』(明治図書,1968)に入っていた論文です。この本は古本屋で手に入れましたので,後で他の論文も紹介します。
 このシリーズの「算数編」もほしいが,古本で6000円もする!!←あとで2000円のものをゲットした(^^)

●北川達夫・平田オリザ共著『ニッポンには対話がない』(三省堂,2008,207p,1500円)
 先月の例会で,Hさんに紹介してもらった本です。パラパラと見て面白そうだったのでアマゾンで購入しました。一気に読みました。なかなか面白かったです。
 二人の対談で話は進みます。お二人をご存じない人のために肩書きを紹介すると,北川達夫さんは「フィンランド教材作家・教育アドバイザー」,平田オリザさんは「劇作家・演出家・大阪大学コミュニケーションデザイン・センター教授」です。
 平田氏は,あとがきで次のように述べています。
▼これからの日本社会は,協調性(価値観を一つにまとめる能力)がいらないとは言わないけれど,それよりも社交性(異なる価値観はそのままに,知らない人同士がどうにかうまくやっていく能力)が必要だ。 (204p)
 本文中では次のように述べています。
▼不登校は,だいたい中学から高校でなる子が多い。そして,そのほとんどの子が,「いい子を演じるのに疲れた」と言います。(中略)わたしたち大人は,ふだんからいろいろな役目を演じています。(中略)ほんとうの自分の意見なんてありえない。わたしたちは,相手に合わせて,さまざまに意見やその言い方を変えていくし,それは決してまちがったことではない。相手によって,おおげさに言ったり,論理的に言ったり,少し省略してみたり,その使い分けの方が重要です。 (「『ほんとうの自分』なんてどこにもない」30p)
 いつか「ほんとうの自分を見つけて,その自分に合った職業を選ぶ…」なんてことをやっている人なんてほとんどいない。みな,与えられた環境や社会の中で,自分の位置をつくり,それらの人びと関係し,自分も変わり,相手も変わっていく。そして少しは,やりがいのある部分を見つけたり,新しい自分を発見したりするのでしょう。そのとき,自分だけが変わったつもりが,その集団自体も自分のやりやすいように変わっているのかも知れない。場の雰囲気を読むだけでなく,場の雰囲気をつくり出すようになったときに,そこがあなたの居場所となるのかも知れません。
 学校現場にもためになる言葉がたくさんありました。なかなかお薦めの本です。「お薦めの本」に入れておきます!

●梶田叡一著『新しい学習指導要領の理念と課題』(図書文化,2008,176p,2100円)
 梶田さんの本。著者は,兵庫教育大学長。その前は,京都ノートルダム大学長だった。今回の学習指導要領の改訂の際,中央教育審議会の副会長として会議等に参加してきた。だから,新しい学習指導要領については,その内部までよく知り尽くしており,どういう目的でどういうことが新しく提出されたのかが,よく分かるはずである。
 本書には,いたるところに「ゆとり教育」や「新しい学力観」の反省がちりばめられている。「新しい学力観」や「ゆとり教育」は,その目的はどうであったにせよ,結果的には公立の教師の指導力を矮小化し,子どもを放り投げてしまったのだと言います。
▼「新しい学力観」の名の下に,「関心・意欲・態度だけを重視すべきであって知識・理解・技能といった見える学力はどうでもいい」ということが言われたり,「子ども中心」という名目で「教え込みをしてはいけない」「指導を廃して支援に徹しよう」ということが言われたりしたわけです。こうしたことを当時の文部省の一部の教科調査官が言って歩き,それに付和雷同する教育学者がまた言って歩き,それをまた教育委員会の指導主事が学校現場に対してうるさくいい,「先進的な」学校や教師が各地でそうした実践を得々として発表する,ということがあったのです。(12p)
 これだけ,モンブショウのやってきたことを批判する文章も珍しいです。これが中央教育審議会副会長の台詞なのですから,たいしたものです。
 私は「新しい学力観」と言い出された時にも「今までと変わらない」といって,自分の指導案には,かたくなに「指導上の留意点」と書いてきました。私はもともと<支援>なんてしているつもりはありません。指導しています。だって学習「指導案」でしょ。「支援案」ではないんです。でも,いつの間にか「支援」にさせられてきたのです。
 私にとっては(あるいは大部分の教師にとっては)「支援ですむなんてウソだということ」は,ずっと前から分かっていたことなのに,ここまで追い詰められないと気づかないとは,文科省も情けないものです。「付和雷同」する指導主事なんて,まったく学問をしてないんでしょう。まさに上の言ったことの垂れ流し。自分の実践なんて何んにもナシなのでしょうか。だから,あまり指導主事の話をありたがる必要なんてないんです。こんなことも10年ほど前まではあたり前だったのに,最近,ありがたがる人が多いのはなぜ????
 かわいそうなのは,教育政策に翻弄された子どもたちです。
 新しい指導要領が,何を目指しているのかはここでは書きません(気になる人は指導要領を読めばいい)。そんなことを私は宣伝する気もないからです。
 ただ,これまた何度も梶田氏の文章に出てくるのですが「指導要領は最低基準だ」ということだけは確認しておきましょう。「最低基準」なのだから,もっともっと子どもたちに考えさせるような授業をしてもいいのです。
 教師が心がけたい3つのポイントとして,
①過去の実践を学び直すこと。その考えさせる授業の一つとして,仮説実験授業を紹介している。
②子どもに考え続けることをがんばらせること。
③多くの知識を身につけさせること。
を挙げています。
 最後に,国語教育の充実は「日本語で考える子どもたちが日本語をもっとしっかり知っておくべきであること」から来ることであり,大賛成です。だとすれば,早期の英語学習は必要なのか疑問になります。このあたりについては,梶田氏も「反対意見もあったが,とりあえず入れてみた」というような話で終わっています。
 あと,雑誌『教育』でも指摘されていますが,本書には,新学習指導要領が持っている「道徳教育の強化」や「愛国心指導の明確化」のような面についての言及はほとんどありません。これについては,あえて目をつぶっているのでしょうか? 今後の梶田氏の言動に注目したいと思います。
 仮説実験授業の良さを分かってくれているだけに,言動が気になります。

●安彦忠彦編『「活用力」を育てる授業の考え方と実践』(図書文化,2008,p159,1600円)
 今度の学習指導要領には「生きる力」をメインとすることには変わりないーと梶田氏は言います。しかし,巷には新学習指導要領を待たずに,「活用力」という言葉が氾濫し始めています。
 どうして教育界というのは,いつもいつもこうした浮ついた言葉が先行して現場を混乱させるのでしょうか? 「活用力とは何か」なんて話をうちの学校でもやったのですが,そんな議論をするヒマがあったら,昔の実践例の一つでも学んでいた方がいいのでは…と思っているのは私だけではないでしょう。今のように「活用力」と言われなかった頃には,活用力を無視していたのでしょうか。そんなわけでもないでしょう。
 ある本を読んでいたら「日本の子どもにPISA型テストを解くような訓練をすれば,PISA型テストの点数は簡単に上がるだろう。だからどうだというのだ」という意見が出ていました。私もそう思います。石川県の「基礎学力調査」や文科省の「調査」のため,事前に「過去問」を学習させる(練習する)ようになってきたようです。私のまわりにもそういう話を聞きます。だって,成績がわるいと教科担任のせいになるのですから無理もありません。それでいいのでしょうか? 
 しかし中には,「いやPISAのテストはそんな簡単に解けるものではない。本当の学力が必要なのだ」と言う人がいるのかも知れません。でも,パターンの学習をすればある程度解けるようになるのも明らかだと思います。小学校の市販テストを見ると,「科学的な考え方」をみる問題でさえ,充分記憶で解けます。
 まあ,とにかく「活用力」です。
 で,安彦忠彦さんが書いていると思って楽しみにして読んだのですが,残念ながら安彦さんの文章は,本の数ページ。あとは,寄せ集めでした。そのわずかなページから抜き出してみます。
▼したがって,この調査(註:文科省の「全国学力・学習状況調査」のこと)の「活用」領域で探る能力は,媒介的な「活用力」と最終的な「活用・応用能力」の2つであり,この両者をあまり明確に区分していないと言ってよい。/「知識」領域の成績の高かった学校は,概して「活用」領域の成績も高く出た,ということで,「知識」習得を強化した一部改正後の施策の正しさが,部分的にせよ証明されたとういうことである。筆者は,この証明が十分なものだとは思わないが,一つのデーターとして興味深い,価値あるものだと思っている。一部改正のときの責任者としては,「知識・技能」の習得を強調したという立場上,このデーターは尊重したい。(7p)
▼したがって,この「活用力」の育成をねらう「活用型」学習は,現在までの教育実践に対する改善策として出されたものであり,部分的修正に過ぎない。大きな狙いは,「活用型」の学習にではなく,それによって質の向上が期待される「探求型」学習の成立と,その成果たる「思考力等」を中身とした「活用・応用能力」の育成にある。この点について焦点を見落としてはならない。(9p)
 どうも一般に言われている「活用力」には2種類あるらしいです。
 「習熟→活用→探求」のときの「活用」と,探求のときに大いに活躍する「活用」です。そして,安彦氏は,この「探求のときの活用力が最終目的であることを忘れるなー」と言っています。それは,「総合的な学習が一定の成果を上げているのだ」ということを強調したいこととつながっているのかも知れません(同書に,別の著者の文章だが,「総合的な学習の勝利宣言」*1が出ている)。私は,総合が削減されたのは,「総合的な学習」の敗北宣言だと思っているのですが,「同じ現象を見てもこれだけとらえ方が違うんだなあ」と感心?した次第です。
 この2種類の「活用力」が中教審答申でもごちゃごちゃに使われているようです。このあたりのことは『教育』(08年10月号)の梅原論文で「活用を二つめの学力として目的にしているのか,それとも探求にいたる媒介項または手段にしているのかの違いである。」と指摘されており,まさに,学校現場でもその2つが一つの言葉として出てきています。
 一応各教科の「活用力の活用例」も出ているので,そこからポイントとなると思われる文を書き抜きます。いずれも小学校の実践からです(中とあるのは中学校)。

国語
詳細な読解を中心とした指導法を改め,教材文全体を捉える読みができるよう,発問を工夫している。(88p)
グループでよりよい議論ができるよう,「一番よい意見はどれか」ではなく,「グループとしての意見をまとめる」という視点で話し合わせた。(89p)
「活用力」は,課題について自分の考えをもち,それをもとに意見交換しながら解決する過程において育成されるものと考える。(93p)

社会
私は,社会科における「活用力」を,課題解決のための情報収集能力と捉えている。「課題」→「探求」→「情報収集」→「討論」→「習得」という学習システムは,「活用力」を育てるのには大変適した流れである。
自分たちの説を正当化するには,きちんとした「裏付け」がなければならないことを教え,そのための調べる方法は示した。(以上97p)
討論をしながら調べたことを発表する授業形態は,従来の「発表会」というような退屈な授業形態とおおいに違うところである。発表の時間も順番もない。決められた形式もない。(99p)

理科
活用してよかったと思える場面を数多く設定することは,技能や能力を活用していこうとする動機付けとなり,「活用力」を育てていくこととなる。(107p)
教師の発問・指示を少しずつ減らし,身に付けた「条件を制御した実験を計画する能力」「定量的な実験を計画する能力」を活用できるようにしていきたい。
普段から,小単元の区切りなど3~4時間に1度の割合で,授業最後の5分程度で,それまでの内容に関わる用語を,自分の言葉で説明させている。(中,144p)

総合
教科から見れば,学習内容を習得する必要性をもたせてくれるのが総合であり,総合から見れば,子どもの探求を助けたり充実させたりするために教科の内容が必要になってくるということである。(117p) 

*1総合的な学習の勝利宣言
 総合的な学習の存在と実践の具体が,今時改訂における各教科等のあり方を規定したのであり,したがって時数の縮減は総合的な学習の後退を意味するどころか,総合的な学習の精神が今や教育課程の全領域に及んだ,ある種の勝利宣言とさえ言えよう。(中略)総合的な学習は今や学校教育全体において完全に市民権を獲得したのである。(本書,奈須,76p)

9月号

●中一夫著『地球のいま そして 未来』(ほのぼの出版<ガリ本>,2008,123p,1000円)
 副題に「<地球温暖化>について考える」とあるように,本書は,今世界中で騒がれている「地球温暖化問題」を冷静に見つめ直すための資料です。授業書形式になっているので大変読みやすくて,あっという間に読み終えました。
 中さんは「はじめに」で,本書をまとめた理由を述べています。
▼これから紹介する資料は,「二酸化炭素による地球温暖化」を,データにあたりながら,根本的に考えてみるものです。一般に言われている「地球温暖化の危機」というイメージと,この資料から明らかになる実態とは,大きなへだたりがあります。読者のみなさんは,まずは自分の抱いていたイメージとのあまりのちがいに驚かれることと思います。(5p)
 本書の40ページ近くが補注となっていて,参考にした資料や本の内容がより詳しく書かれていますので,ここから発展して自分で調べてみようという人にもいい本です。中学生ならばこのまま授業にかけることもできるでしょう。
 支部の教研集会(環境分科会)で紹介したところ,注文もありました。書店では扱っていません。

●二階堂泰全講演&談話集『何をするにも仮説実験1』(さんがく出版<ガリ本>,2008,124p,1000円)
 夏のサマーセミナーで講師としてお願いした二階堂さんの講演集です。
 ナマのお話が一番いいのはあたり前ですが,こうして本になっていると時々読み返せるので有難いです。
 二階堂さんが呼びかけている「社会を見るための3つの視点」というのを紹介しておきましょう。
 その1 数量的に見る=データを基にして考えよう
 その2 歴史的に見る=長いスパンでものを見る
 その3 本当のことは善玉悪玉論で考えたら分からない
 私たちはよほど注意をしていないと,世間の流れに流されたりマスコミからの情報を鵜呑みにしたりしてしまいます。ま,どうでもいいことならそれでも構いませんが,日本の大きな政治の流れや教育の流れがそれによって変えられるようになったりすると困ります。
 やはり,ふだんから,上の3つの視点を持って社会を見ていきたいものだと思います。

●牧衷著『学生運動と仮説実験授業の源流』(ガリ本,2004,208p,1000円)
 今年手に入れた牧さんの本の3冊目。じっくり牧節を堪能しております。「公という概念についてcommonかpublicか」なんて題名を聞いただけで,私は興奮してしまいます。だって,こんな風に考えたことなんてないんだから,どんな論が展開されるのかワクワクするんだもの。
 本書の全てをすんなり理解できるほど知識はないのだけれども,原点に返って考えることの大切さをいつも教えてくれるのが牧さんなのです。

●板倉聖宣著『科学と教育』(仮説社,2008,238p,2000円)
 やっと書店でも手に入る本になりました(それまでは仮説実験授業研究会員の本屋さん・キリン館から発売していました)。本書は,仮説実験授業を知った初期から私にとっての仮説実験授業解説本というか基礎本として大切にしていた本です。何度も読んだ気がします。
 本書は,板倉先生が1979年前期に東京大学教育学部で「科学と教育」と題して講義した記録です。もう30年も前になるのに,未だに色あせないこの先見性と普遍性。板倉式発想法,板倉科学論がふんだんに展開されています。私は,この本で,仮説実験授業と哲学,教育学,科学,組織などとの関係を学びました。
 少しだけ仮説実験授業という言葉を知っている方,ちょっと学問的に考えてみたい方に,本書をお薦めします。
 さて,本書を読んでいると,私がずっと探し求めていた板倉論文のありかがわかりました。探していたのは,「斎藤喜博仮説実験授業を見てどう思ったのか」という授業後の討論の感想です。
 それは,1966年2月5日,成城学園で上廻昭さんが行った仮説実験授業《滑車と仕事量》という授業参観研究会の記録でした。
 実は,当時の討論会の記録は,斎藤喜博氏(板倉氏は「例の校長さん」と呼んでいる。実名は挙げていない)が雑誌への公表に強く反対したことにより,月刊誌『教育』には授業記録だけしか載りませんでした。どんなやり取りがあったのか,その一字一句は分かりませんが,「名人芸」と「仮説実験授業」のちがいが分かっておもしろいでしょうね。
 このときの板倉さんの感想が,「授業科学と名人芸」というメモになって残っています。
 これは『授業科学研究・第2巻』(仮説社,1979)に載っています。

●齊藤孝著『なぜ日本人は学ばなくなったのか』(講談社現代新書,2008,221p,720円)
 著者は,序章「垂直志向から水平思考の世の中へ」で,以前の日本には,教師・医師・親・先人に対する尊敬・感謝の念があり,それは同時に「学ぶことへのリスペクト」となり「学びへのあこがれ」となっていたが,現在の日本では,そういう尊敬・感謝は喪失し,それが勉強嫌いや活字文化離れ,読書離れとなっているのではないかと指摘しています。そして,そういう現代の日本社会を「ノーリスペクト社会」と呼んでいます。
 しかし,知への欲求はますますなくなっているようです。それは,インターネットでちょっと検索すればいろんな情報が手にはいるので,それらの情報を発信している第3者を尊敬しようにも尊敬できないと言うこともあるでしょう。私のように,ある程度歳をとってしまっていれば,本の代わりにネットを利用しているという意識があって,その便利さそのものをリスペクトしながら利用しているのですが,なかなか世間ではそうはいかないようです。
 生まれながらにパソコンや携帯のスイッチを入れればたくさんの情報が手に入る社会に在る子どもたちは,どのように「知へのリスペクト」を得ればいいのでしょうか?
 私はその方法は一つしかないと思います。
 それは,我々大人が子どもたちに「感動を持って新しい知識や人類の文化遺産と出会わせる」という経験をたくさん積ませることです。知識の獲得を「感動を持って」得ることです。そういう過程を経ることで,その知識を発見した人へのリスペクトも生まれるだろうし,そういうことを守り育ててきた社会全般へのリスペクトも生まれるでしょう。何もないところで,「尊敬しなさい」はありえませんからね。
 そのためには,やはり仮説実験授業をコツコツやるのが一番ではないでしょうか。
 仮説を知った全ての子が進んで勉強するようになる…とは言えませんが,仮説を知った私(あるいは私の周辺の人たち)は,きわめて勤勉に学習するようになっていると思います。
 学ばなくなったと嘆いてばかりいないで,仮説実験授業で「知るよろこび」「考える喜び」をたくさん味わわせてあげましょう。

●武田邦彦著『偽善エコロジー』(幻冬舎新書,2008,230p,740円)
 最近の「すべて二酸化炭素が悪い」「一人一人が環境に気を付けよう」「わたしたちの会社は環境に配慮しています」というような論調が目立っています。どうもこれにうさんくささを感じているのは私だけではないでしょう。
 しかし,その一方で,地球環境に関する国際会議が開かれているし,どうも本気になって心配している人の方があっているような気もします。
 例えば…。
 「マイ・バック」はほんとうに環境に優しいのか? レジ袋がなくなって生ゴミなどを一時的に入れる袋が無くなり,ホームセンターで買っているという話も本書に出ていましたが,同じ事を云っているうちのメンバーもいました(環境部会で)。
「3Rにだまされるな」という章で,著者はこう述べます。
▼愛用品を多く使う生活は,自分の周りにあるものが馴染んでいますから,ゆったりとした気分で生活をすることができます。その結果,物をあまり買わなくなるので,ゴミも減るのです。ゴミを減らすことを目的として生活をしているのではなく,心を満足させた結果,物が減るので,ゴミが出ない生活になります。(224p)
 ここには,わたしたちが環境問題を考えるための原点があります。マスコミに流されないで冷静に判断しましょう。

●斎藤喜博著『齊藤喜博全集・第8巻』(国土社,1970,450p,1000円)
●斎藤喜博著『齊藤喜博全集・第9巻』(国土社,1970,406p1000円)
●斎藤喜博著『齊藤喜博全集・第11巻』(国土社,1970,638p1000円)

 これでほとんど斎藤喜博の主要な著書を読んだことになるのかな?
 この夏休み一気に1500ページほど読みました。
 第8巻には『一つの教師論』(1965年)『現代教育批判』(1966年)『私の意見』(いろんな本の解説文,本全集でまとめられた)。解説は,詩人で劇作家の木村次郎氏。
 第9巻には『教師の実践とは何か』(1968年)『私の授業観』(1969年)がおさめられている。解説は,高橋金三郎。
 第11巻には『小さい歴史』(1956年)『学校づくりの記』(1958年)『島小物語』(1964年)がおさめられている,解説は日高六郎氏。
 いずれの論文にも,たくさん赤線を引かせてもらいました。
 1960年代に入ってからの著作には,民間教育団体の実践者に対して,実名入りで激しく攻撃をしている文章がたくさん見られます。また,教室での授業研究をほっぽり出して,政治が大切だと組合運動にばかり走る教師も徹底的にやられます。
「授業の中にこそ,子どもたちの未来がある」と信じて実践を積み重ねる斎藤喜博。
 組合にも物を申し,委員会にも物を申す,そして同じ研究仲間にも厳しくあたる,その過激な姿勢がおもしろいです。
 私は組合運動にもしっかり没頭します(労働者が団結する権利を失ってはならない)が,原点は「授業」であり「目の前の子どもだ」と思っています。組合運動に熱心でも,授業がいい加減では,本末転倒どころではありませんからね。

7月号

●石田寛人著『プラハ 金沢 街角だより』(時鐘社新書,2008,186p,900円)
 時鐘社というのは,「時鐘」からも想像できるとおり,『北國新聞』社の出版部のこと。最近新書を出し始め,今は数冊でています。本書はその8冊目の本。
 著者の石田氏は小松市出身。1999年から3年間,駐チェコ大使を勤めた方で,現在は金沢学院大学長です。
 チェコと言えば野村さん。私たちが家族でチェコに行ったのが,野村さんがチェコの日本人学校にいたころです。それは1999年のこと。
 あの前後からテレビ番組などでも,「チェコ」と聞くと敏感に反応するように脳細胞ができているのですが,今回もそれに引っかかったわけです。
 チェコについてのエッセイが2/3,金沢についてが1/3です。チェコの部分には,所々に野村家族の話題も出てきます。
 外交官というのは,いろんな方面に興味関心がないといけないのだろうなあということがよく分かります。

●森達也著『視点をずらす思考術』(講談社現代新書,2008,193p,735円)
 はしがきで,著者は「ぼくはKY(空気読めない)なのだ」と告白します。
 しかし,この空気が読めないからこそ発言できることもあるのです。逆に,いつも場の空気を読むことで,自分を出せなくなっている人の如何に多いことか。子どもたちを見ていても,他とはずれることをきらい…いや嫌っているというよりも恐れているという方が確かかも知れません。それほどまでに,日本的な一億総懺悔というこの雰囲気。そういう雰囲気にどっぷりつかってしまうと「視点をずらす思考」とはほど遠い思考しかできなくなるでしょう。
 マスメディアが出す情報のみに寄りかかって思考すれば,みんな同じ考えで動くでしょう。その先には何が待っているのか?
▼モンゴルの遊牧民は,数百匹の羊たちの群れの中に必ず数匹のヤギを放す。周囲の動きに従う傾向が強すぎる羊は,変化に対応できないからだ。足元の草を食べつくしたらその場で立ちつくす。寒いときにも動かなくなる。ところがヤギは同調圧力に従わない。草がなくなればさっさと他の場所に移動する。寒ければ風を防ぐ場所を探す。ぞろぞろとその後に続く羊たちは,結果として飢えや寒さから身を守ることができる。(19p)
▼全員がヤギにはなれない。ヤギばかりの社会は崩壊する。羊のままでよい。でも羊は羊でも,もう少し懐疑や躊躇いや逡巡を持つ羊になるべきだ。いってみればヤギの要素を多少は持つ羊。ハイブリッドだ。(20p)
 今こそ,「おれはKYだよ」と堂々と言える人間が増えることが大切です。
 おっと著者のことを書きませんでした。今までも何度か紹介しましたが,オウムを扱ったドキュメント映画『A』『A2』の映画監督です。最近,彼の本がとてもよく出ています。それだけ,少数意見の方の代表者になってきているのでしょう。

●古山明男著『変えよう!日本の学校システム』(平凡社,2006,231p,1680円)
 まったく知らない著者。小松の貝田さんが「おもしろかったよ」と進めていたので読んでみることにしました。
 著者は,私塾の経営者。ただ私塾と言っても進学塾のようなものとはちょっとちがう。学校に疲れた子どもたちが通ってくるような「私塾」です。
 「私塾をやっている人間が,なんで法律や制度に詳しくなったのかというと,不登校問題のためだった」「制度一つで,生徒の置かれた立場がくるくる変わるのである」ことに気づいた古山氏は,日本の教育を支配している法律や制度を調べて,その欠点に唖然とするのです。
 そして本書を書いたきっかけは『教育基本法』改正案が出されたことだといいます。
▼教育問題はシステムの問題であるのに,お説教で解決しようとしているのがこの改正案である。それに,この改正案は,文部科学省が責任を取らずに口出しする体制の固定ではないか。危ないことをする,教育を良くする道は,ほかにちゃんとあるのに,と言いたくなってしまった。(「あとがき」222p)
 今よりも,学校設置を自由にして,現在の学校を結果的に相対化することができれば,不登校などの問題は相当変わってくるのではないか。しかも,官僚統制にもよらす競争にもよらない教育運営ができれば,子どもたちはもっともっと自分を生かしていけるのではないか。もちろん,そのためには教師たちがいきいきと教育活動ができるようにならなければならない。
 教育の中立性を損なう法律『地方教育行政の組織及び運営に関する法律』が昭和31年に成立します。組合も教育3法反対で大きな闘争を繰り広げましたが,政府自民党の強行でこれが成立。教育委員の選挙がなくなり,文部省の各地方教育委員会への指導が強くなります。
 今回の大分県の事件の報道を見ていても,「文科省はもっとしっかり教育委員会を指導しろ」「国から人材を派遣して教育委員会を牛耳れ」「教員採用も国がやれ!」などという話が出てきます(「朝ズバ」には二人の文部科学副大臣が出てきて,こういうことばかり言っていました)。<お上を不正を正すのに,それ以上のお上の権力をもってする>というこの発想にはあきれます。お上の不正をただすのは,国民のハズです。そのための仕組みを作る方が大切なのです。
 我が石川県では同様の話はないのでしょうか? すくなくとも,管理職登用に関してはいろいろな噂を聞きますよね。
 「不登校問題」は「学校なんて行かなくてもいいよ」と言ってしまえば,解決するんですよね。
 これだけ成長した社会になった今,「教育費は大学まで無料だけど,行くか行かないかは,あなたの自由」と言うようにしてしまえば,いろんな問題が瞬く間に解決していくかも知れません。同じ種類の羊ばっかりできることにもなりませんしね。

●寺岸和光著『「かかわりの力」で学級が変わる』(三学出版,2008,190p,2000円)
 寺岸和光著『「かかわりの力」で学級が変わる』をたった今,読み切りました。
 一言で言って,とてもいい本です。
 S小学校で寺岸さんを呼び,研究会をした時から,いろいろと話題にしてきたことが,すっきりとまとめられています。
「おわりに」で,今の教育現場での違和感を語っておられます。それは,
「45分の授業で目に見える成果を求めてしまう教育観」
「一人一人の子どもの未来に思いを馳せない目先の評価観」

です。
 これを打破するには,小手先の技術をいくら集めてもだめだし,そもそも,技術のみでどうにかしようという発想が,「教室の人間関係の問題を教育技術の拙さにすり替え」ていくのです。
 寺岸さんの指導方法を理解するためには,やはり彼の1年間の活動のすべてを見る必要があります。しかしそれでも,私たちは,寺岸学級のマネはできないのです。いや,寺岸さんそのものも,去年の寺岸学級のマネはできないのです(そう述べておられます)。
 そのあたりを,研究者の松下という二人の先生(金大・京大)がとても分かりやすく書いておられます。この章もとてもいいですよ。
 私は,「子どもたちの人間関係の固定化(だれかを気にしてしゃべれないなど)は,今までその子が背負ってきたものであり,1年でどうにかできるものではない」ということを基本において子どもたちと付き合ってきました。
 こう思うことで,「教師が無理にその子に対して何かをする,技術でどうにかする」
ということを排除するためです。
 でも,私だって「どの子にも<自分>というものを出してほしいー」と願っていることには変わりありません。だから,その子に寄り添ったり,たくさん話を聞いたり,一緒に遊んだり,日記を見たり,学級通信を書いたりしてきました。これは,すべて授業以外のことです。
 そして,ほんの少しだけれども,子どもたちが変化する姿も見てきました。ただ,それは,私が担任したからではなく,子どもがそういう成長の時間軸の中にいたのかも知れないと思おうとしていることも確かです。
 寺岸さんのように,授業中の活動に,ペア対話などを取り入れると,より関係が素直になってくるのかも知れません。が,大失敗することもあるような気がします。
「自分の身の程」ってのもありますからね。
 私の基本は「子どもにはあまり無理をかけたくない」です。で,無理をかけないで,子どもが自分を出していけるには,仮説しかないだろう。ただ,仮説の場合は,うまくいっても2年間かかります。この2年間というのは,古老の西川さんが言っていることです。しかも,毎日のように仮説をして…です。今の自分からはほど遠いです。
 私としては,仮説実験授業を軸として子どもたちと関わっていくのですが,子どもたちが「休み時間とは違う姿である」ことをどうにかしたいとは思います。
 この本を読んでいない人は,ぜひ,Hさんから手に入れて読んでください。
 この本についていろいろと話してみましょう。
 Hさんは,今,寺岸学級を参観しておられます。
 疑問に思ったことは,ドンドン質問できる立場にいます。

●牧衷著『牧衷集中講義・運動論と仮説実験授業』(ガリ本,2001,220p,?円)
 牧衷講演会で手に入れた本の2冊目。
 内容は「現状分析ち構造改良」「映画と仮説実験授業」「牧衷の哲学・知恵」というもので,2000年11月に軽井沢のホテルで話された講演が元となっています。
 牧さんの講演は,超一流(超過激・超難解・超簡略)なので,ここでは引用もしません。ただ,牧さんが講演で取り上げられた本を紹介しておきましょう。それだけでどんな講演か想像がつきますから。
S・ムーア著『三つの戦術-革命論の思想的背景』
レヴィン著『レーニン最後の闘争』
中島健蔵著『昭和という時代』
林子平述著『海国兵談』
E・H・カー『ポルシェヴィキ革命』『ロシア革命』
ガルブレイス著『経済学の歴史』
森嶋通夫著『思想としての近代経済学』
勝部元著『現代のファシズム』
谷川稔著『国民国家とナショナリズム』
                        他多数
 牧さんの講演記録を読むたびに,「もっとおれも世界史や経済学などの基礎知識がほしいなあ」と思うのです。今更勉強する内容でもないのだろうけれども,少しでも紹介された本を読んで下地を作りたいものです。文系・理系関係なく,やはり,大学時代のもっともっと学んでおけば良かったと後悔,先に立たず…ですね。

●板倉聖宣著『新科学入門・下 迷信と科学』(仮説社,2007,176p,1890円)
 本書は『科学新入門 科学の学び方・教え方』(太郎次郎社,1975年刊)の後半部分を新版として増補再刊したものです。前半部分は以前に紹介ずみ。私にとっては,太郎次郎社版を学生時代に読んでいますので,今回が2度目です。
 初めて読んだときに,「迷信が広がるのはそれを信じている彼らが無知だからだ」と思っていた私に衝撃的な事実を突きつけてくれました。それからというもの,<科学的に世の中を見る>ということの大切さを身にしみて感じきたように思います。
 今回,本書は「朝読書の時間」に読み終わりました。
▼迷信は庶民の生活のなかにとけこんでいるだけに,そのなかには見すてがたい生活の知恵がかくされているのです。(29p)
▼「まったく無知な人びとよりも,むしろ知識をもっている人びとのほうが迷信に囚われやすいことがある」という考えをもとにして,迷信問題を考えなおして,その種の事例に注意してきました。(31p)
▼それらの人びとは,まちがったことを平気で信じているというよりも,迷信による判断を生活のなかに役立てていることもあって,それをすてきれずにいるといったほうがよいでしょう。それが,今日,なお迷信の残っている最大の理由でしょう。(61p)
 板倉氏のこのような庶民を見る温かい目には,いつも感心させられます。<科学>の目から見て大上段に<迷信>をばっさばっさ切っていっても,科学的なものの見方・考え方は庶民には広まらないのでしょうね。一方で板倉氏は,次のように述べてもいます。
▼こういう明らかに有害な迷信(コックリさん,丙午など)を排除するためには,やはり,迷信を迷信として認識できるようになることがたいせつだと思うのです。迷信を迷信としてとらえたうえでも,生活に利用できるものはいくらでも活用できるのですから。(69p)
 人を傷つけたりする迷信はやはり困ります。科学の論理をしっかり身につけたうえで,「自分はいま迷信を使って判断している」と自覚して朝の「今日のラッキーアイテム」を見る。そういう主体的な態度を養えるような教育をしていきたいものです。

●佐久協著『高校生が感動した「論語」』(祥伝社新書,2006,300p,840円)
 以前,『桃尻語訳「枕草子」』なんて本が出たことがありましたが,本書もその兄弟のようなもの。「論語」を現代の若者にも分かるような説明で訳してあります。
 著者は慶応義塾高校の教師で,生徒のアンケートで最も人気のある授業をする先生として親しまれてきたそうです。もう退職なさっているとか。
 昔から「論語読みの論語知らず」というような言葉もあって,「論語」というのは分かっても分からなくても読むことが基礎・基本のというような時代もあったんだと思います。だから,一度はしっかり読んでみたい本です。
 本書は「論語」の文章を分類別に並べて現代的解説を加えているので,とても分かりやすいです。「ここのところは一般的にはこうだが,私はこう訳した」という断り書きも時々あるので,その点も親切です。もちろん,白文や読み下し文(っていうんだったっけ)もついていますので,そちらの方を学びたい人にも大丈夫です。
 △子曰、君子欲訥於言、而敏於行、
 △子曰く,君子は言に訥にして,行い敏ならんことを欲す。
 ▲指導者たる者に必要なのは,さわやかな弁舌よりも敏速な行動力だよ。

6月号

●木村小舟著『昆虫翁 名和靖』(国土社,276p,1981,図書館)
 今,久しぶりに仮説実験授業《花と実(たね)》をしています。西川さんが撮ったきれいな写真と実物を準備しながらの地道な授業。でも,子どもたちは植物の不思議な世界に少しずつ引き込まれているようです。
 《花と実》にはいくつかの「お話」があります。その中でも,「カボチャの実と「虫の先生」」という話は好きです。教科書で授業するときにも,この話だけは取り出して子どもたちと読むこともよくあります。今回の授業では,子どもが日記に「靖の小さい頃はどんな子だったのだろう」「伝記を読んでみたい」と書いていたので,私もそういえばそうだなあと思って,県立図書館から取り寄せてみました。県立図書館の蔵書検索で引っかかったのは2冊。
 本書は,板倉聖宣氏が編集をした「少年少女科学名著全集」の1冊です。このシリーズは今では絶版ですので,図書館くらいでしか手に入りません。私も数冊しかもっていない。新採の時に買っておけばよかった…。
 さて,本書は,名和靖の弟子でもあり,少年雑誌の編集者でもあった木村小舟さんがまとめたものです。それを数カ所カットして再録してあります。
 割と裕福な家庭に生まれた靖は,おじいちゃんと一緒に鳥打ちに出かけたりして,自然の中で大いに遊びまくります。
▼このように,小さい時から,早くも動植物のおもしろさを感じた靖は,村の小学校を終わってまもなく,しばらくは家にいて,祖父の手から,四書の読みかたを教わったり,または習字のけいこをしたり,時には山の鳥打ち,川のアユ狩りのおともをしながら,好きな動植物に親しみを重ねていましたが,やがて自ら志を立て,岐阜県農事講習所に入り,実地に農学を教わることになりました。(p19)
 残念ながら,小さい頃の様子は,あまり描かれていません。これは自伝ではないので仕方ないでしょう。ただ,恵まれた環境で大いに動植物とふれあっていたこと,学習面でも充分勉強していたことは確かなようです。
 靖は,岐阜県立農学校と名前を変えたこの学校で中井誠太郎と呼ぶ校長先生にたいへん大きな影響を受けます。そして昆虫研究家としての道を歩むことになります。
▼けれども靖は,思うところあって,その生涯を通じ,一歩も岐阜市を出ることなく,また昆虫学者としては専門のむずかしい学問を研究するよりも,むしろ世間一般の人びとの親友として,農作物の害虫駆除を第一とし,これによって国民の幸福をはかると言うことが,自分にあたえられた天職であると信じ,その道に一身をささげて,あくまで研究したのです。(p101)
 このように,岐阜に生まれた靖は,あくまでも岐阜の人たちのためになる研究をしようという態度で臨みます。その方法は,当時はまだ珍しかった幻灯機をもって,村々を講演して回るということでした。
▼その目的は,高尚で,むずかしい学説を発表するのではなく,どこまでも,婦人や子どもたちを相手に,身のまわりの例をひいて,おもしろおかしく,談笑のあいだに,広く昆虫の害益を説いて聞かせ,その駆除,予防,保護の手段を教え,農家の人びとが,一家をあげて,作物の増収をはかるということでした。(p106)
▼ただ一人靖ばかりは,この人びととはちがい,最初から希望どおりに,どこまでも,地方民衆の相手となって,もっぱら害虫駆除,益虫保護ということに,その目標を置き,この基礎を定めるために,昆虫研究所を創立して,いよいよその発達をはかり,時勢の要望にそおうとしたのです。靖は,学者というよりも,昆虫学の入門を教える先生として,もっぱら力をつくしたのでした。(p116)
 そんな靖は,ギフチョウの発見で有名なようです。その道の人は知っているのでしょうが,私はしりませんでした。ギフチョウに「ギフ」と名づけたのも,自分の故郷を大切にする靖らしい態度の表れなのでしょうか。
 名和昆虫研究所は,その創立とともに,あらたに『昆虫世界』と題する雑誌を刊行しはじめます。これも一般の人を相手として,昆虫学の初歩を教えることを第一のつとめとしたからです。靖は,自著で外国崇拝の誤りとして次のように述べています。
▼世間の学者は,自分の知識をほこりにするためにか,もっとも有益な研究の結果を,多くの日本人には読めないような外国文,たとえば,英文とか,ドイツ文とか,またはラテン文などに記して,れいれいしく発表しています。これは,外国人に見せて,日本人をほこるためでしょうが,大部分の日本人には,まったく理解することができません。こういうのは,日本人を無視したやりかたで,ほんとうに,学問に忠実であるかどうか,ずいぶん問題だろうと思われます。(p135)
 ガリレオ・ガリレイが自分の著書を自国語で書いたり,板倉さんが,仮説実験授業をまずは日本でやったりするのと軌を一にする態度が,ここにはあります。本当の学問は,「一番身近な世間の人にわかってもらうことだ」,それが啓蒙であり,社会に貢献することであり,社会を変えることなのだ…という姿勢は,すっきりしていて気持ちのいいものです。
 これは現代でも同様。外国へ行き,片言の当地言葉で挨拶をする程度ならいいけれども,スピーチ全部を英語でしている日本の役人や大臣たちを見ていると,「日本を理解してもらおうとしている」というよりも,「英語のできる自分を理解してくれ」と言っているようでたいへん気持ちが悪いです。外国から来る人たちは,しっかり自国語でスピーチをしているではありませんか。
 さて,カボチャの話はどこにあるのかというと本書p138~p143に「カボチャの人工媒助」として載っています。地面の下に巣をつくっていたというあのハチの名前はマルハナバチでした。
 本書の最後には,増補として高須哲夫さんの「現在の『名和昆虫研究所』の活動」が収められています。その最後の部分を書き写しておきます。
▼近年,自然を守ろうという動きがさかんですが,その前に,自然の中で遊ぶことのおもしろさ,自然の不思議さを学び,守るべき自然というのは,いったいどういうものか,ということを考えてみてはいかがでしょうか。なぜ自然を守らなければならないのか,ということを,それぞれの人がその人なりに実感としてわかることができてこそ初めて,自然を守る動きも,より確かなものになるのだと思います。(p259)
 この文章を読んで,私は,5月の金大連携ゼミ(生物,水生昆虫観察)で川幡教授が言われていたことを思い出しました。
 水の汚れの指標生物がどうのとか言う前に,川底を見るだけで生物の多様性が感じられるということこそ優先してほしいんです。
 そのとおりですね。

●赤座憲久著『まいあがれ!春の女神 昆虫博士・名和靖ものがたり』(PHP,126p,1994,図書館)
 本書は,上の木村小舟氏の文章を子ども向けに易しくしたものです。内容もほとんど同じです。ところが,そのことはどこにも断り書きがありません。まるで著者が自分で調べて書いたようになっています。図書館の本はカバーがないので,もしかしたらそのカバーに引用・参考図書などが書かれていたのかも知れませんが,ちょっとこれはおかしい。いくら子ども向けの本とはいえ,ちゃんと出典を書いておいてほしいものです。

●香山リカ著『キレる大人はなぜ増えた』(朝日新書,2008,205p,700円)
 別に,私の周りに急にキレる大人が多くなったと言うわけではありません。でも,学校でも家庭でも,ちょっとしたことでキレる大人を見ること・聞くことはあります。
 その原因は,いろいろなところにあるのでしょう。その一つとして,最近の日本人は,昔のように,何かをうやむやに(なあなあに)すますよりも,しっかり自分の意見を言おうという雰囲気があるのではないかと言います。
▼そもそもは社会的弱者が権利を主張するための技術であった「アサーティブネス」は,それからエリートの自己アピール法,商談に負けない技術となり,さらには「お金がほしい」「いい男と結婚したい」といった私利私欲の主張とも一体化してしまったのである。/このように日本社会に急激に広がる「もう泣き寝入りしない」という雰囲気は,一方では理不尽な要求,文句も許されるものと思い込んでいるいわゆるモンスターペアレントと呼ばれる親たちなどによって,またもう一方では「自己主張こそ国際社会で生き残る条件」と錯覚しているエリートやエリート志願の人たちなどによって,というふたつの方向から同時に形成されてきたのである。(65p)
 自分の意見をしっかり持つことが大切であり,自己主張することも大切だという所まではよかったのですが,どうも最近はおかしな方向に進んでいます。
▼自分をきちんと愛し,自分の意見をしっかり言う人たちは,大人としての分別もあり他者への配慮も十分にできる人たちである,という仮定のもとに,それを主張してきたのだ。/しかし,いざ「自己主張」や「自己愛」が実現されてみると,それは人々が思い描いていたものとはまったく異なり,「キレる大人たち」があふれる悪夢のような社会であったのだ。(190p)
 こういう間違った方向をただすために,リカさんは「キレないための5箇条」をあげている。例えば,こうです。
1 自分にカメラが向けられているつもりで,自分はいまどんな姿でキレているか,外部の視線で客観的に見直してみる。
3 いま目の前で起きている問題と,それとは無関係の職場や家庭などのストレスを混同したり,話を一般化したりしない。
 あとは,買って読んでください。

●奥野宣之著『情報は1冊のノートにまとめなさい』(Nanaブックス,2008,229p,1300円)
 一気に読んでしまいました。そしてちょっとだけ影響を受けています。
 この系統の本は,もう読まないでおこうと思っていました。
 だって,情報整理や手帳整理法なんて,いつもそのときどきで左右されてきたから…。どうも,自分に一貫性がないことがわかって,この方面ではいつも欲求不満状態です。
 情報手帳は,主に野口さんの超整理手帳を利用しています。この手帳を使ってずいぶんたちますが,とても使い勝手がいいので,気に入っているのです。が,この手帳は,毎年,スケジュール表を購入しなくてはなりません。注文し忘れると,とっても面倒なんです。何度か注文し忘れたことがあります。
 それで,もっといい方法はないかと思っていたのです。
 本書は,A6版くらいの小さな手帳(100円)を使うだけで,すべての情報を管理しようという発想です。ただ,言っていることはわかるのですが,その膨大な手帳のデーターベースを作るのがどうもできそうにありません。これさえできればいいのでしょうが,なかなか面倒でためてしまいそうです。それでも,検索の方はあきらめて,ちょっとだけやってみてはいるのです。
 あっちも使ってみて,こっちも使ってみて,なかなかパターンが決まらない私です。どうすりゃいいんだろうか。
 超整理手帳とこの100円ノート法を組み合わせたような使用法を考えるのが一番いいかな。整理はA4がしやすそうだしね。考えてみます。
 ま,こうして色々やってみているけど,最終的にはやる気の問題かな。

●姜尚中著『姜尚中の政治学入門 』(集英社新書,2006,190p,700円)
 著者の姜尚中氏は,私が好きな著者の一人です。クールで,頭が切れるあの風貌も好きです。その姜さんが,これから政治を考えるためのキーワードを教えてくれます。
 私は,この本を,6月上旬の牧衷講演会を前後しながら読んでいたのですが,牧さんが指摘していた,東北アジア構想についても言及されていて,社会を見る眼がある人は,同じような所を見ているんだなあって思いました。
 「現代日本を読むキーワード」として「アメリカ,暴力,主権,憲法,戦後民主主義,歴史認識,東北アジア」を挙げています。
 おもしろかったよ~。

●牧衷著『歴史研究と現状分析』(ガリ本,1998,195p,?円)
 とにかく刺激的で,あっという間に時間がたってしまった牧さんの講演会。
 こうして本を読み直すことで,より講演の内容が入ってきます。本書は,10年以上前に編集された本であり,収められている講演は,さらに古いものです。だから,この講演で触れられている予想が,実際はどうだったのかが,よくわかります。
 現在の教育界をみると,10年以上前に牧さんが言っていたようには変化しませんでした。でも,今回の講演で「それは,保守派の最後のあがきだ」と言っておられいましたが…。大きな流れは,確実に進んでいるんですがね。

5月号

●苅谷剛彦・増田ユリヤ著『欲ばり過ぎるニッポンの教育』(講談社現代新書,2006,254P,740円)
 新学習指導要領が発表された。そこでは,小学校3年生からの「外国語(英語)活動」の必修化と年間授業数増が示されている。子どもたちは,小学校の時から,すべて6時間という生活になるのだろうか? 当然,会議をする時間も減るので,放課後も詰まってくるのだろう。
 一方,県教委の研修では「人間関係づくり」とかで,来年度からはどの学校でも全クラスで「構成的グループエンカウンター」を取り入れた授業をするように要求されている。そのための校内研修も開けと言う。英語は英語で,年に数回の研修もある。
 学校管理運営計画もずいぶん厚くなってしまった。毎週の週案,毎時間の少人数学習の記録など,日常生活の中にもたくさんの書類書きが待っている。全く,息つく暇もないとはこのことだ。
 さらに,学校生活でも欲ばり過ぎるのではないかと思えることもある。これは自分たちで取り入れているのだが,結果的にどっちつかずに見えるのだ。
 たとえば,朝読書,朝の会の歌,自問清掃,たてわり班活動,委員会活動,クラブ活動,体力づくり,水泳,鼓笛,器械運動,少人数学習,補充,集会活動,「個」に応じた?総合的な学習の取り組み…。いずれにせよ,校務分掌を担当した職員ががんばればがんばるほど,その学校は忙しくなるのだ。
 そんな現状を憂いている人ならば,本書の内容にいちいち頷くはずである。「英語活動」の導入について,苅谷氏は次のように述べる。
▼いろんな制約がある中で,リストにどんどん足したって,必ず何かはみ出してくる。
▼教えられる人がいないのに何時間か入れたら,はみ出したものはどうなるんでしょう。確実に出来ることを犠牲にして,できないかもしれないけど入れたいものを入れようとする。どっちが重いか,はかりに掛けたときに,僕は失うものの方が重いと思う。できるかできないかわからないものを,全国一律に入れろ,なんて話をしたら,これは失敗します。(47p)
 苅谷氏は,「欲ばり過ぎがもたらす教育格差」で次のように言う。
▼(私は,大学での教育実践を通して)自ら学び,考える力を身につけることはたやすいことではないし,それを教育の場で実践することも簡単ではないことを身にしみて知っているつもりである。算数や数学の計算方法や解法を教えてたりするのとは訳が違って,そのような力を学習者に身につけなせる方法が確立されているわけでもないし,ましてや,そもそもそれを教える教師自身が,優れた学習力をもっているとも限らない。いや,もっとさかのぼれば,教員を養成する大学教育の担当者の間でも,あるいは現職教員の授業方法の改善を促す「指導主事」と呼ばれる人びとの間でも,こうすればよい,という具体策があるわけではない。(234p)
 「自ら学び,考える力」は必要だという点では一致するが,そのためにどんな方策をとればいいのかは依然としてわからないという現状。それを「研究しろ」と人ごとのようにいう教育行政に振り回されるのは現場とそこに生きる子どもたちなのだ。
▼できないことでも,NOといえずに,無理してやってきた。しかも,誰にでも,どこででも,できるという前提で。そのあげくに,期待はずれの結果を生み出し続ければ,もっと根本的な改革が必要だという口実を与えてしまう。過大な役割をこなせるだけの条件整備を怠ってきたのに,そのことには触れずに,教育の失敗が印象づけられる。期待が過大であることに目をつぶって,あるいは,身の丈にあった期待がどれだけのものかを議論せずに,期待に応えられない教育の現状を批判し続けてきた。(248p)
 だから,私たちは,あれもこれもという「ポジティブリスト」を長くすることを要求せずに,確実に出来るところから,出来ることをやっていく…という現場主義にもどることが必要だ。
 わたしが,今,「自ら学び,考える力」を育成してくれるものとして提案できるのは「仮説実験授業」しかない。学ぶ意欲が増し,ついつい夢中になる授業=仮説実験授業をやることでしか,子どもたちが自ら学ぶようにはならないだろう。思わず考えたくなる授業,今までの知識を総動員して取り組みたくなる授業,そんな仮説実験授業をこれからも続けていくだろう。

●小原成巳著『未来の先生たちへ』(仮説社,2007,204p,1800円)
 仮説実験授業研究会の会員の小原さんが明星大学の教職課程の「理科教育」で講義をしたときの内容をまとめたもの。ほとんどは『たのしい授業』で紹介された文章の再録だが,「ガリ本」でしか読めなかったものも数編あるので,今回こうして1冊の本になるのを待っていたのだ。
 大学の講義っていうと,「全く興味のないもの」というイメージが強い。小原さんの所に来る学生も最初は同じである。ぺちゃくちゃしゃべっていたり,やる気がなかったりする子もいる。しかし,小原さんが講義を進めるごとに,講義の「視聴率」はあがってくる。そして,「私は本当に教員になりたくなってきた」というのである。いったいこれはどうしたことか。
 仮説実験授業から学んだ,教師論,授業論をもとに講義を進めることで,何が学生たちを引きつけるのか?
 それは,学生たちが今までもっていた「教育界の常識」と,「仮説実験授業を体験しながら納得していく内容」とが,あまりに違うことに目が開かれるからだ。
 最後の講義の時間に,思わず会場から起きる拍手。
▼授業中,みんながすすんで手を挙げる授業は他にないです。しかも,講義の最後に拍手が起こる授業なてのも他にはまったくないです!! これが先生の授業への私たちの評価のすべてを表していると思います。(195p)
▼今日,先生が「これが最後の講義ですね」と言ったとき,私は,中学の卒業式のさみしい気持ちを思い出しました。今まで2年間,この大学に通って講義をたくさん受けてきましたが,最後の講義だからといって,さびしい気持ちになった授業はありません。それだけこの授業に思い入れがあり,たのしかったのだと思います。(196p)
 学生たちが書いてくれた最後の感想文を読むと,その講義の内容の素晴らしさがわかるだろう。こんな授業を学生時代に受けられた学生は幸せだなあ。

●板倉聖宣著『変体仮名とその覚え方』(仮説社,2008,126p,1600円)
 板倉さんが1988年頃の『たのしい授業』で連載していたものの単行本化。
 だから「変体仮名」については,そのときに読んで既に知っているわけで,実際,今,改めて読んでみると,少しは「見たことがあるな」と思える文字もあることに気づく。
 1988年といえば,私の教師5年目くらいだから,教科書と仮説をやっていた頃だ。他の方面の本には手を伸ばしていない。でも,今じゃ本棚には変体仮名の書かれている古本が何冊もある。ずいぶんと読む(見る)本の範囲が広がったものだと思う。
 本書は「覚え方」とあるように,ドリル的な部分もついている。今回は,さささっと読み飛ばした部分だが,夏休みにでも,漢字練習帳に変体仮名練習をすることにしようか。

●『宮下久夫遺稿集・分かれば見つかる知ってる漢字』(太郎次郎社,2000,222p,2100円) 
 太郎次郎社から出ている『漢字カルタ』シリーズにはずいぶんとお世話になっている。ここ3年くらいは,学級活動の定番として,月に1回はやっている。今年も『部首がるた』で,遊びながら部首の意味を身につけさせようと実践中だ。
 さて,この『カルタ』をつくったのは宮下氏を中心としたグループであるらしい。彼らがまとめた『漢字がたのしくなる本』というシリーズもあり,これも以前,手に入れていた。
 今回,本書を読んだのは,副題に「白川静先生に学んで漢字学習システムをつくる」と書いてあったからだ。
 私はずっと前,「漢字の部首ではなくて,<音(おん)>を中心とした字典はないか」とさがしまくったことがあった。普通の『漢字字典』は部首別になっていて,漢字を「意味の仲間」として分けてある。しかし,同じ<音>を持つ漢字をいっしょに覚えさせれば,たくさんの文字が読めるようになることを感じて,早くから授業に導入したかったからだ。そんなとき,白川静氏の『字通』に出会った。これはいい。しかし厚い。その後,ハンディ版とも言える『常用字解』も手に入れていた。
 実は,私の中では,「漢字カルタ」と「白川静」とはつながっていたのだが,それは当たり前だったようだ。宮下氏らが白川静から学んだのだから。
 本書は『101漢字カルタ』『98部首ガルタ』『108形声文字カルタ』にそって,漢字を学ぶ方法が紹介されている。そこには『漢字がたのしくなる本』の一部も掲載されていた。『漢字がたのしくなる本』は,いつの間にか「テキスト編」と「ワーク編」に分かれていることも知り,早速ワーク編の「4」「5」を購入。一部を授業に取り入れてみたが,子どもたちは喜んで,漢字を分解したり合成したりしていた。
 今後,白川漢字学をもう少し学びながら,自分自身が漢字の世界の楽しさを体験したいと思っている。

●松岡正剛著『世界と日本のまちがい』(春秋社,2007,467p,1800円)
 『17歳のための世界と日本の見方』の著書として初めて知った松岡氏の,私にとって2冊目の本。前書を読んでから,時々TVに出て対談しているのも拝見したりしている。最近,ちょっと気にしている人。
 本書は,前書のつづきの講演記録という感じ。前書では「世界宗教の発生からバロックまであつかって,世界と日本の文化を編集的に見るという見方を説明」したのですが,本書はその続編として「近代と現代」をテーマとしてみようというのです。松岡氏曰く「編集工学」を駆使して書かれており,歴史の縦軸と横軸の組み合わせがとても心地よく響きます。
 ただ,もう一度,世界史的な部分で縦軸を知らないと,横軸の楽しさがわいてきません。基礎的な知識が必要です。どっかで世界史の通史でも目を通そうかなあ。でもそんな根気はすでになさそうだ。
 それにしても,正剛さんの読書量と記憶力には感服する。よくもまあ,これだけ多方面の事に興味を持って調べているものだ。映画から音楽,古典まで,なんでもあれだからなあ。今回,本書に紹介されていたヒッチコック監督の『レベッカ』も手に入れて見てみた。おもしろかった。「影がつきまとう怖さ」が旧約聖書のリベカからきているとはビックリ。

●ハンセン病・国家賠償請求訴訟を支援する会編『ハンセン病問題これまでとこれから』(日本評論社,2002,270p,1800円)
 ハンセン病関連図書。訴訟に関わったさまざまな立場の人たちが書いている。執筆者の内訳を見ると,原告7名,原告代理人弁護士3名,支援者13名,研究者5名の合計23名。
 ここでは,紙面も尽きたので,石埼学氏の次の言葉を引用するだけにしておこう。
▼保護する人(国家であったり,福祉施設の職員であったり,夫や親であったりする)に保護される人は服従しなければならないという権力者の思想は,一人では生きていけない人びとへの差別思想であり,彼・彼女らに対する数々の暴力の根源である。「かわいそうな」あるいは「不幸な」人びとを助けてあげるという類の福祉思想こそが,そうした人びとに,劣等者の烙印を押し,生きる力を奪い去り,彼・彼女らの不幸の原因となっている。(158p)

4月号

 今月もまた「ハンセン病」関連図書から紹介します。新学期が始まってからは教材研究に時間を費やしています(だから,分析批評とか小数とかの昔読んだ本の復習をしています)。でも担任が決まっても4月7日まではハンセン病関連の本を読みまくっていました(^^ゞ その分,今になって授業準備に焦っているのだが…。

●宮坂道夫著『ハンセン病 重監房の記録』(集英社新書,2006,190p,660円)
 草津の栗生楽泉園にもうけられた「特別病室」。のちに「重監房」とよばれるこの施設に収監された93名の内14名が監禁中に死亡,8名が衰弱して外に出されまもなく死亡したというものすごい施設なのです。
 これが国会と問題となり,取り壊されてしまいました。
 しかし,ハンセン病問題が(表向きであれ)終結した今,負の遺産としての重監房の復元を考えていくべきでしょう。
 アウシュビッツがそうであったように,この重監房も「人間の善意が引き起こした悲しい施設を物語る歴史の証言」として残していかなければなりません。
 著者の宮坂氏は東京大学医学部におられます。重監房の復元のための運動にも参加しています。
 ニュースステーションに出ていた谺さんを見て以来,宮坂氏は医学の負の面としてのハンセン病から自分も学生達も学ばなければならないと決心します。
▼重監房をわざわざ復元することのいちばん大きな理由は,わたしたちの想像力の限界にあるのかもしれない。重監房の「殺意」は,あの異様な建物の構造にこそ表れている。これを可能な限り復元して,暗黒と冷気に閉ざされた独房に,私たちは入ってみる必要があるのではないか。そうでなければ,そこで数十日間,数百日間と監禁されることの恐怖は理解できないのではないか-。(166p)

●VHSビデオ・豊田四郎監督『小島の春』(東宝,88分,古本屋で4800円)
 ハンセン病者を全国の療養所へ向かい入れるべく,献身的に働いた女医・小川正子氏の自伝を映画化したもので,上映当時大変話題になったようです。私は本の方を先に読んで,もっともっと「映画を見たい」と思っていたのですが,やっと手に入れることができました。残念ながらDVDにはなっていません。今時こんなビデオテープのソフトを買うのも,問題意識があるからですねえ。
 古本屋のおっさん(かどうかわからないが)のメールによると,豊田監督は,生涯この作品を作ったことを後悔していたそうです。この話の裏は取っていませんが,たぶん本当でしょう。
 淡々と進む映画です。確かに小川さんの献身的な姿勢は軍国主義時代の日本にぴったりです。今となってみれば,がまんをして療養園に入っていく姿が,とても不憫に思えてきます。

●梅棹忠夫著『わたしの生きがい論』(講談社,1981,329p,1100円)
 もうずいぶん前の本です。何で今時生きがいを考えようと思ったのか…。自分の生きがいを考えようと思ったわけではありません。
 これも,私にとってはハンセン病つながりの本。「今月の本棚」のバックナンバーをお読みくだされば,私の問題意識は分かるでしょう。
 著者はご存じだと思うが,一応,経歴を書いておきましょう。
1920年生まれ,民俗学・文化人類学が専攻。学生時代には『知的生産の技術』という岩波新書がベストセラーになったことを知っている人もいるでしょう。本書執筆当時は,国立民族学博物館長でした。
 本書は,いくつかの講演記録をまとめたものです。
 私の問題意識の「生きがい」の部分を抜き出します。

▼生きがいを純粋に精神の問題としてしまうと,生きがいというものは心のもち方ひとつだ,ということになる。どんなひどい状況にあっても,生きがいというものは見つけることができるのかもしれない。逆にどんなに物質的にめぐまれた状態にあっても,生きがいというものは感じられないかもしれない。こういうところが,いわゆる「生きがい論」の危険なところなんです。客観的には惨憺たる状況にあっても,心のもち方ひとつで,生きがいを感じてしまう。それでよろしんでしょうか。そういうことだとすると,生きがい論というのは,ただの精神修養論になってしまう。(76p)
▼人生に目的は何か,これは昔からよくいわれる疑問ですけれども,人生の目的は何かという質問自身を,わたしは基本的には意味がないというふうにかんがえています。人生に目的なんかあるものですか。そんなものはあるわけがない。人生というのは「ある」のであって,目的も何もあったものじゃない。(78p)
▼従業員個人がその企業においてはたらくことに生きがいをみいだすならば,企業としては大成功です。そこで,生きがいの演出がはじまるわけです。そういうたちのものだということですね,生きがいというものは。/一人一人の人間に,それぞれのサイズに適した生きがいを,じょうずにもたせたら,だれでもそれで勇躍してはたらくんです。そういうたちのものなのです。鎌倉武士とおなじです。「お前ら全部死ね」。それは,そういう構造さえきちんとつくっておけば,できるんです。 (82p)

 なかなか考え深い文章です。私たちが生きがいを追い求めているあいだに,その生きがいが,強力な組織を成り立たせる一部として組み入れられているだけではないか。その組織が,実は見えない弱者を苦しめていることもあるかもしれない。その弱者にも為政者達は巧妙にその場所での「生きがいのもち方」を語るのだろうか。

▼何かわれわれ個々の人間の生きがいというような話では片づかないものが,どうもあるのではないか,ということです。目的を設定し,精神を緊張させ,努力し,その結果何かがえられる。しかし,同時に,そのことによる損失もまたある。場合によれば,そんな努力を放棄した方がいいというようなことも,またあるということです。(84p)

 春休み,この本を職員室で読んでいたら,「Oさん,なかなか珍しい本を読んでいるね」といってくる同僚もいました。そりゃそうですよね,今時,マジメに生きがい論なんて読まないもん。生きることの意味を見いだそうとしているように見えたのかなあ。ちょっと笑っちゃいます。そこで,「これは,生きがいなんていらないよという本だよ」と言っておきましたけど。

●フジモトマサル著『今日はなぞなぞの日』(平凡社,2004,159p,1200円)
 ちょっと難しいなぞなぞの本。というか,手の込んだ<だじゃれ>です。解答を聞くと思わず「そうか!」と思うのですが,次の問題の挑戦してもやっぱり「…」。 なぞなぞは,1日くらい悶々と考えればいいと著者。確かに,すぐにぺらぺらめくるとすぐに読めますが,自分なりの解答を得るまでがんばると1ヶ月以上は持ちます。
 昨年度,この中から数問選んで連載して学級通信に掲載しました。問題を読んですぐにワイワイと言い合っていたのが面白かったです(解答は次の日の通信に載せました)。

●トニー・ブザン著『ザ・マインドマップ』(ダイヤモンド社,310p,2005,2200円)
 先月のサークルでHさんから紹介のあった,「マインド・マップ」関連の図書を数冊読みました。2冊借りたのが
『マインドマップビジネス超発想術』(月刊アスキー,2007,103p,1000円)
『勉強が楽しくなるノート術』(ダイヤモンド社,2006,126p,1600円)

です。二つとも面白かったです。
 『発想術』の方は,ビジネス面での活用のしかたが書かれていました。体験版のソフトもついていて,いくつか使用してみました。
 個人的には「Map it!」が可愛かったなあ。機能は少ないけど…。
 『ノート術』の方は,主に学校で子どもたちがどうマップを使って理解を深めたり,記憶を助けたりしていくかという具体例がたくさんありました。指導方法がもう一つぴんと来ないのですが,なんか使えそうなきがしました。
 そこで,提唱者のトニーブザンさんの著書を手に入れたというわけです。
 ま,この本は,そう書けばいいのかといった程度で,自分で実際にやってみないことにはその有用性が分かりません。
 私は,今回,いくつか作ってみました。たしかに文章をだらだらと書くよりは楽しくできます。提案するときにも,もしかしたらこれはいい方法かもしれません。
 フィンランドでは,この「マインドマップ」を「カルタ」といっていろんな所で使っているようです。今,そういう関係の本を読んでいます。続きはまた来月。

3月号(ハンセン病関連図書・その2)

 ずいぶんとのめり込んでおります。なんでこんなにのめり込んでいるのか,その自分のこだわっている問題意識にだんだん気づいてきました。それは次のようなことです。

①日本から「ハンセン病をなくしたい」という善意が,どうしてハンセン病患者を苦しめるようになってしまったのか?
②少なくとも戦後,あたらしい「日本国憲法」の下でもう少し個人の人権に配慮した政策がとられなかったのはどうしてなのか?
③ついこの前まで,その差別政策に気づかなかったということは,今後も,違う形で同じようなことが起きる可能性が日本にはあるのではないか。日本の社会にはそういう「しくみ」が厳然としてあるのではないか? もしあるとすれば,それはどこから来ているのか?

 これらのことについて,なかなか一気に納得できる本が見あたりません。でも,少しずつですがその外輪が見えてきました。前回紹介した『「隔離」という病』がそうです。それから今回紹介する『「いのち」の近代史』も参考になりました。そのほか,まだしっかり読んでいませんが,いろいろと参考になる本はあるようです。
 で,今回も,まだまだ単なる本の紹介にとどまります。
 いつかは,上の問題意識についてまとめることがあるかもしれませんし,ないかもしれません。こんなのをまとめるってことは,一朝一夕でできるものではない。

●大谷 英之 (写真)『ここに人間あり―写真で見るハンセン病の39年』(毎日新聞社,20007,143p,3000円)
 県立図書館から借りました。ここに人間あり
 野生の赤ちゃん猿大五郞との生活を綴った写真で有名な写真家の大谷英之さん。
 1967年春,新宿の飲み屋でたまたま隣り合わせた人が元ハンセン病の患者だったという。それからというもの「ファインダーに移る向こう側に閉じこめられていた人間の叫びは,シャッターを切る指先にはあまりにも重いテーマだった」にもかかわらず,「積み残している自分の責務に駆り立てられ」てまとめたハンセン病の39年の写真証言集です。
 私は先にハンセン病に関する「文章」を読んでいたので,実際の療養所の中の様子や世間と隔てられた壁の様子など,あるいは(元)患者さんたちの様子など,興味深くみることができました。
 その写真の中に,右のようなものがありました(写真は省略:盲目将棋)
 これは何をしているのだと思いますか?
 そこにいた同僚に聞いたところ「将棋か囲碁をしているのだろう」と言っていました。子どもたちに聞いたところ,それにくわえて「睨めっこをしている」とかも言っていました。
 私はこの写真を見た時に「ああ,これは盲目将棋だな」と思いました。ここで向かい合っている二人は,たぶん二人とも盲目なのです。言葉で将棋の駒を動かして,お互いの頭の中に将棋盤があるのだと思いました。
 なぜそう思ったのか-それは,あの詩人・桜井哲夫さんの本に『盲目の王将物語』という作品があるのを知っていたからです。

●桜井哲夫著『盲目の王将物語』(土曜美術出版販売,1996,269p,1700円)
 そこでその本を手に入れて読んでみました。
 本書は,桜井哲夫さんの自伝的小説ともなっています。
 「盲目の王将物語」は,本書のうち30数ページあまり。
 ハンセン病患者だった桜井さんは,ふつうの盲目将棋のように,点字のある駒を手で触ったり,出っぱり線のある盤を手で触ったりはできません。指先の感覚がないからです(ハンセン病は末梢神経が冒される病気です)。ハンセン病で指先に感覚を失った人たちは「舌読」といって「舌で点字を読む」のです(上記の写真集の表紙は舌読の様子です)。
 桜井さんが将棋を始めたのは,失明してからだそうです。
 ですから,ルールなどもよく分かりません。友達の所に行き,べちゃべちゃになるまで将棋の駒や将棋盤をなめさせてもらいながら,将棋を覚えていったそうです。そして,ついに王将戦に勝つまでの力をつけるのです。
 目が見える人は,普通,今,注目している駒の周辺だけに頭が動きます。他の場所の自分の駒や相手の駒にはなかなか頭が回りません。でも,目の見えない,駒や盤にふれることさえもできない人たちは,常に頭の中に,将棋の駒たちの全体像があるわけです。そうしないと,いろんな駒を言葉で動かすことができません。だからこそ,ふつうの人たちよりも早く全体を見通せるようになるのかもしれません。なんという能力でしょうか!
 さて,本書には,表題作の他,「久遠の花」「樹氷」「汚された十字架」の4本が収められています。
 特に「久遠の花」には,桜井さんがたどってきた人生そのものが赤裸々に語られていて引き込まれてしまいました。あるとき,プロミンという薬で体調のよくなった桜井さんに子どもができてしまいます。当然,おろさなくてはならないのですが,すでに3ヶ月を過ぎていて…。そして6ヶ月を過ぎた時…。この部分の話は信じられません。こんなことが平気で行われていたなんて…。

●小川正子著『小島の春』(長崎書店,1938(昭和13),282p,1円50銭)
 県立図書館から借りました。
 長島愛生園の医官・小川正子が,ハンセン病者を隔離収容するという使命を持って土佐の山奥や瀬戸内の小島を説得に回ったときの記録を纏めたものです。
 この本は当時とても話題になったそうです。小川さんのハンセン病者に寄り添うその献身的な姿勢に日本中が涙したとか…。映画にも取り上げられて,よりいっそう話題になったようです(この映画も手に入れてみてみたい…後日,手に入りました)。
 確かに読んでみると,小川さんは本当に患者さんのことを思っていることが分かります。隠れて生きていかなければならない人たちがいる。十分な医療も施されることなく,症状がひどくなるにまかせている患者さんたちもいる。そんな病者たちに向かって,「長島に来れば,十分な医療と安らぎがあります」「あなたが決心する方が,この家族にとっても村にとってもいいのです」と,語る小川さん。時には病者と共に涙もします。
 しかし,この小川さんのやったことは,結果的には,ハンセン病者のためにやっというよりも,国策遂行のために働いたという感じが強いのです。長島愛生園の園長である光田健輔の言うとおりに一生懸命動いたというだけです。本人が患者のためにと思ってやってきたことなのに,結果としてハンセン病者の世間からの隔離を固定化し,また世間の差別意識を高めてしまったのです。
 私たちは,自分の善意でものごとを判断してはいけないのです。その善意からやった結果,どうなったのか,そこに判断基準を持たないと,「よかれと思ったんだからいいじゃないか」という無責任なことになります。
▼何時を限りとも果てしない事なので,車はその儘走り出て次の又一つの山裾を廻って出鼻に出ようとする所で,今別れた峠がずっと上の方に仰がれる。その峠の道を矢の様に駆け下りて来るのは九つのあの男の児「あれ先生,追いかけて来ます」と父親が泣き出す。私も貰い泣きの涙乍らに振り返り振りかえる。(49p)
▼私は土佐の人に向かって叫び度い。此所にも手遅れの一組の癩者があるとー。この二人を中心に不知の裡に,長い年月のかげに隠れつつ広まっていく癩の伝染を想えと。山裾の家の親と子よ,救わねばならぬ,救わねばならない。(68p)
▼(映画「愛生ニュース」等を見せたあとで)見えるかしらんと気になって少し後ずさって,皆の中に混じって見ていると十二,三歳の子供が一人「いい所だなあ,俺も癩病になったら愛生園に行くぞ」とつぶやいて居るので,思わず笑い出してしまった。飛んでもない事を云って呉れる。然しこうした子供心にも病になったら寮院に行った方がよい,行くべきものとの考えを残した事はよい事であるかも知れない。(181p)
 自分でも,ほしくなったので,結局,古本屋から手に入れてしまった。
 最後の描写が圧巻です。
▼御回診が終えてお風呂も済んだ坂の上で,いつまでも夕焼けの空の色,しかも静かに移ってゆく雲の姿をあふいで,私は祖国浄化の完成をする日の夕映えを想って居た。その日の夕映えはどんなに美しい事だろう。今日の夕焼けなんかとても及びもしない様な綺麗さが想われるのだった。/梅雨の洗った空気の様に,幾百の幾千の病者が流す涙,血族が流す忍苦の流涙の幾十年。それがすっかりと払われて,はればれとした日の,その日の夕映えの色が想われてならなかった。/綺麗だろうなあ,きっと綺麗だろうなあと,私は両手をぐるぐるとお空に向けて廻しながら本館への坂を駆け下りているのだった。(270p)
 彼女の経って立つ位置は,癩が根絶した日本国。その姿です。この夕日を見るのは自分が連れてきた患者さんではない事に気づいているのでしょうか。いないのでしょうね。ここが彼女の限界です。

●藤野豊著『「いのち」の近代史』(かもがわ出版,2001,685p,7500円)
 副題には「民族浄化の名のもとに迫害されたハンセン病患者」とあります。文字通り,この約700ページの本は,ハンセン病を中心として日本国や国民が起こしてきた人権侵害について徹底的に究明している本です。章立てを紹介しましょう。
第1章 「一等国」へのばく進の途上で
第2章 民族浄化-皇室と社会運動家の接点
第3章 たたかう病者
第4章 断種の論理
第5章 植民地・占領地のハンセン病政策
第6章 継続された隔離政策-患者のとっての「戦後民主主義」
第7章 「らい予防法」下の苦闘
第8章 隔離90年の重さ
 本書は,多摩全生園で発行されている『多摩』誌に1992年1月から2000年6月まで,足かけ9年にわたって連載されたものを収録したものです。
 藤野さんは,ハンセン病の通史にはすでに『日本らい史』(1993年)があるので,
ここでは,通史ではなく,ハンセン病患者の人権を中心にして,日本近代史の中にあらわれたハンセン病問題について記していきたいと考えている
と書いています。ですから,通史としては不十分なのでしょうが,十分読み応えのある読み物となっています。時間は前後する部分はあるのですが,それはあまり気になりません。
 本書はあまりに高い本なので,県立図書館から借りて読みました。が,返却までに半分ほどしか読めなかった(しかも内容もよかった)ので,結局自分で購入しました。いやー,刺激的な本です。
 戦後民主主義とハンセン病の問題については,また後ほど詳しく検討することもあるでしょう。

●ハンセン病訴訟勝訴一周年記念シンポジウム実行委員会編『お帰りなさい! ハンセン病・北陸からの訴え』(桂書房,2003,173p,1500円)
 これも県立図書館からお借りした本です。
 タイトルにもあるように,ハンセン病国賠訴訟から1周年を記念して富山県で開かれたシンポジウムの様子(第1部)と,ハンセン病問題と関わっている北陸3県在住の方から寄せられた訴え(第2部「北陸からの訴え」)の2部構成で作られています。
 シンポジウムの記念講演とパネルディスカッションの司会は,富山国際大学人文社会学部教員の藤野豊先生。先に紹介したの『「いのち」の近代史』の著者です。講演の内容は,『いのち…』の内容を40ページほどで語ったダイジェスト版という感じですので読みやすかったです。
 パネルディスカッションには,元ハンセン病患者の2名(内1名は,在日韓国人),国賠訴訟の弁護士1名が参加しています。
 この中で元ハンセン病患者の金さん(長島愛生園)が語った「社会復帰」ということについての一節が私の心に残ったので転載します。
私は,外へ出て生活しようとは,今は,思っておりません。社会復帰は,いったいどういうことが社会復帰なのか,ということを考えることがあります。ただ住まいを外に移したからと言って即それが社会復帰だとは,最近,思わないんですね。私がもし社会復帰をするとすれば,二つの条件をかなえていなければならないと思います。二つのうちの一つは,自分がハンセン病であったことを隠さないということ。必要であれば,自分がハンセン病でありましたということを,やはり言うこということ,それが一つ。それからもう一つは,多くの人との連帯の中で生きるということ。出て単独で生きては,私は決して社会復帰じゃないと思います。いろんな人との連帯の中で生きていけること,この二つの条件を満たしたとき,それこそ社会復帰だというふうに思えるんですね。 (77p)
 だから金さんは,今の療養所にいる状態であっても,こうして外に出て話をし,いろんな人とつながりあっている状態である自分がいることを確認しています。その反対に,園から社会に出て,今はタクシーの運転手をしているけれど,自分は元ハンセン病患者であったことを隠して仕事をしている。もしばれたら仕事が続けられなくなるから,とても言えない,という実例も挙げられました。
 本当の社会復帰が出来るまでには,まだまだ日本の社会が成熟しなくてはならないと思いました。まだまだハンセン病問題は終わっていないと感じた証言でした。パネルディスカッションの最後に,弁護士の高見沢さんが次のように結んでおられます。
最初は植えつけられたにせよ,それを支えている国民ひとりひとりの意識というんですか,人権感覚というものが,岩盤のようにして残されているというふうに思うわけです。この差別・偏見を生んだ原因・真相を究明する,そのことが大切だということで,今,厚労省といろいろやり取りしています。(中略)そういったことを色々やっていく中で,世の中を変えていかなくてはいけない。そうでないとこういった事件というか,差別・偏見はまた違うところで,同じような形で起こってくると思うわけです。(89p)
 2003年11月の黒川温泉の宿泊拒否差別事件を引き出すまでもなく,日本の社会は差別・偏見が渦巻いているのです。「教育の力にまつ」ということを信じて実践するしかありませんね。
 差別・偏見を植えつけたというと,あの真宗大谷派でも,以前は「らい病者の強制隔離」に果たした責任は大変大きいようです。1934年の「愛生」という冊子にはあの暁烏敏が,「入所者の行くべき道」と題して,隔離されている園内の方たちに対して,次のように語っています。
皆さんは,ここに生くる道をお見出しになって精進されることを望みます。皆さんは自分がわるくて病気になったのではないのだが,国家のために,多くの同胞のために,ここに家を離れて病気を保養していをるのである。皆さんが静かにここにをらるることがそのまま沢山の人を助けることになり,国家のためになります。だから皆さんが病気を戦うてそれを超越してゆかれることは,兵隊さんが戦場に働いてをるのと変わらぬ報告尽忠のつとめを果たすことになるのであります。(「教団の謝罪声明と取り組みについて」112p)
 しかし,こういう差別的な意識を持っているお坊さんは過去の方ばかりとは限らないようです。1984年5月,長島愛生園で法話を行ったあるお坊さんが,またまたハンセン病についての無知からくる差別的な発言をしてしまいました。教団ではそのこともしっかり取り上げて,総括をしているようです(「宗教者の責任」)。
 このように真宗大谷派のお坊さんたちは,先人たちが犯した間違いをわび,二度と同じ間違いを起こさないように,学習をしているといいます。
 ハンセン病療養所にあった「重監房」の復元を呼びかけている新潟大学の宮坂道夫氏の次の言葉を紹介して本書の紹介を終わります。
歴史から教訓を得ることが大切だと,誰もがいいます。しかし,そのためには「具体的な媒体」が不可欠です。それは例えば体験者の「語り」であり,生々しい「現場」や「遺留品」です。広島の原爆ドームに行き,資料館に展示されている溶けたガラス瓶を目にする。アウシュビッツで,殺された人々の脂肪から作られた石鹸を目にする。そういう「具体的な媒体」「生きた媒体」を通して追体験をしない限り,人間は忘れ去る生き物であるようです。(宮坂「凍れる記憶・重監房復元運動のこと」105p)

●藤野豊他著『知っていますか? ハンセン病と人権(一問一答)』(解放出版社,2005,127p,1000円)
 ハンセン病に関する「Q&A集」です。23の質問に答える形でハンセン病の諸問題について語られています。
 内容は,日本だけでなく,戦前,日本が韓国や台湾に作った施設のことや,世界のハンセン病(問題23)についても書かれています。巻末には,「もっとくわしく知りたい人のために」という本の紹介もあるので,「ハンセン病問題入門書」にはぴったりです。
 本書「問22」の項で紹介されていた『ハンセン病問題に関する検証会議・最終報告書』については,日弁連法務研究財団のサイトで読むことが出来ます(1500ページを超えます。要約版もあります)。明石書店から本になって出版されていますが,2冊で47000円だって…。こりゃ手に入れるのはあきらめよう。

●神谷美枝子著『生きがいについて』(みすず書房,2004,353p,1500円)
 本書は,1966年に同じみすず書房から刊行された『生きがいについて』に,新たに「日記」と「解説」を付け加えて『著作集1』(1980年)として出されたものです。それのさらに新版。
 神谷美枝子氏は,1957年から72年まで,長島愛生園に勤務していました。本書は,その間に書かれたということになります。
 前に紹介した武田徹著『「隔離」という病』「第5章 生きがい論の陥穽(かんせい)」で紹介されて,その考え方の危険性を指摘されていたのが本書でした。
 武田氏は,神谷の論は「光田健輔や小川正子がかつて強制収容を正当化した時に用いた論法を精神医学的に支えるものだ」(『「隔離」という病』146p)と言っています。
 それでは,どんな表現が出てくるのか,本書を見てみましょう。
 本来,「生きがい」を失って自暴自棄になりがちなハンセン病による入園者たちが,時折,世間のひとたちより「生きがい」を持って生きているように見えることがあるのはなぜか? そんな疑問から「生きがいを失うもの」「あたらしい生きがいの発見」などについて著者の意見がまとめられています。
 全編を通じて,いろいろな作家や哲学者,先人たちの引用があり,初めて聞くような名前ばかりでした。
▼ほんとうに生きている,という感じをもつためには,生の流れはあまりになめらかであるよりはそこに多少の抵抗感が必要であった。したがって生きるのに努力を要する時間,生きるのが苦しい時間の方がかえって生存充実感を強めることが少なくない。ただしその際,時間は未来にむかって開かれていなくてはならない。(24p)
 ある程度生活に満足して生きているときには,たしかに生きがいなどというものを感じないかも知れません。ついつい「そのとおり」と同意していまいます。
▼愛生園のある青年は久しく心臓神経症に悩んでいたが,あるとき思い切って園内の気象観測所につとめてみた。この観測所は外部社会にも認められているほど優秀で,青年はここの仕事に参加するはりあいのためにみちがえるほど元気になり,神経症の症状もすっかり消えた。ところがその後,年金制度が実施され,その青年もある程度肢体不自由であったため年金をうけることになった。そうなると園内の作業についてはいけないことになり,せっかく生きがいをおぼえていた観測の仕事をやめなくてはならなくなった。暇の時間を持てあますようになると案の定,以前と同じような神経痛がいろいろな形をとってあらわれてきたのである。(24p)
 そういうこともあるでしょう。でもだからといって「年金制度」が悪いことにならない。しかし,この論理は大変まずいことにもつながります。現状をプラス思考で乗り越えようとするのです。
▼このようなことを彼に教えたのは苦しみと悲しみの体験であった。このようなことをわかってくれるひともまた深い苦悩を一度は通ったことのあるひとにほとんどかぎられていた。結局,人間の心のほんとうの幸福を知っているひとは,世にときめいているひとや,いわゆる幸福な人種ではない。かえって不幸なひと,悩んでいるひとのほうが,人間らしい,そぼくな心を持ち,人間の持ちうる,朽ちぬよろこびを知っていることが多いのだ-。(268p)
 それはそうだろう。でもだからといって「苦しみと悲しみの体験が重ければ重いほどいいとするのか」という疑問がどうしてもつきまといます。
 あのベストセラーである『ホームレス中学生』の中には,それまで当たり前だったことが如何に有難いことであったのか-ということを主人公が感じる部分がたくさん出てきます。友達の家で久しぶりにありつけた暖かいお味噌汁に「今後,これよりおいしい味噌汁には一生あわないだろう」というほどの感激ぶりです。でもだからといって,ウンコ公園での生活がよかったとは言えないのではないでしょうか。
 困難を克服する物語,困難に打ち勝って成功する物語は,確かに存在するでしょうが,ほとんどの人たちはその困難に打ちのめされている時間が長いことも確かです。
▼人間の存在意義は,その利用価値や有用性によるものではない。野に咲く花のように,ただ「無償に」存在しているひとも,大きな立場からみたら存在理由があるにちがいない。自分の眼に自分の存在の意味が感じられないひと,他人の眼にもみとめられないようなひとでも,私たちと同じ生をうけた同胞なのである。もし彼らの存在意義が問題になるなら,まず自分の,そして人類全体の存在意義が問われなくてはならない。そもそも宇宙のなかで,人類の生存とはそれほど重要なものであろうか。人類を万物の中心と考え,生物のなかでの「霊長」と考えることからしてすでにこっけいな思いあがりではなかろうか。(281p)
 どんなものにも生きる価値はあると考えることができれば,それはそれで「生きがい」につながることだと思います。ただ「だから,私はこのままでいい」とするのでは,ハンセン病国賠訴訟もなかったし,総理が元ハンセン病者たちに頭を下げることもなかったでしょう。
 「○○ちゃんも私もみんな戦争のために…一生めちゃめちゃに壊されてしまった。けれどこの尊い多くの犠牲者によって平和が築かれて行くのだったら,この上なくうれしくてならないのだけれど…」
 右は20年前,動員女学生として広島で被爆し,顔面裂傷,左眼失明した一女性の手記である。「めちゃめちゃに壊されてしまった」自分たちの生すらそれが平和への礎になるのならば,その代価としての意味がある。ぜひ意味あらしめたい! というのは多くの被爆者たちに共通な願いである。
 人間はみな自分の生きていることに意味や価値を感じたい欲求があるのだ。(73p)

 こんな文章を読まされると,さすがに「ちょっと待ってよ」といいたくなります。確かに,そういう人はいます。しかしそれは「靖国に祀られて満足している遺族」の姿と重なってしまいます。こんなところで「生きている意義」や「死んでいった意義」を持ち込んで自分を納得させてはいけないのではないでしょうか。そうしないと,第2,第3の「被爆者」が出てくるし,「戦死者」もなくなりません。こういう「生きがい論」は,ここに来て,国家に利用されやすい発想であることが見えてきます。
 しかし,本書の解説で柳田邦男氏は,神谷氏の言説について,次のように述べています。
▼神谷さんは,国家のマクロな枠組みばかりを論じる政治運動や社会活動が支配的になっている状況に対するアンチ・テーゼとして,前述のように誤解を招きかねない厳しい表現で,被害者側の心の中にさえある,いつ加害者側になるかもしれない暗部を露出させたのだ。私はそう解釈している。(345p)
とまあ「誤解を招きかねない」表現をあえて使っているとして<善意>に解釈しています。
 だがしかし,それが善意であろうがなかろうが,結果としてどうなるのかが大切なのだと思います。
 武田氏は『「隔離」という病』
▼「生きがいを純粋に精神の問題だとしてしまうと,生きがいというものは心のもち方ひとつだ,ということになる。(梅棹忠夫著『わたしの生きがい論』)」
という梅棹文章を紹介しています。
 現代風に言うと「プラス思考さえすれば,不満はなくなるし,生きがいももてる」ということでしょうか。
 本書も県立図書館からお借りしました。
 ついでに,梅棹忠夫氏の本も手に入れたので,来月,紹介します。

●藤本フサコ著『忘れえぬ子どもたち-ハンセン病療養所のかたすみで』(不知火書房,1997,300p,2500円)
 昭和37年から46年まで,足かけ10年,熊本県菊池郡合志小学校中学校の分校である「恵楓園分校」に勤めた藤田さんの学校生活やその後の教え子とのお話がまとめられています。恵楓園というのは,国立ハンセン病療養所のひとつです。そこにいた子どもたちに教鞭をふるっていたのが,臨時採用の藤田先生だったというわけです。
 中山節夫氏が「序」で次のように述べています。
▼誰よりも子どもたちの幸せを願われた藤本先生と共に,病気による不幸以上に,幼くして差別と偏見に耐えてこられたこの人たちが,名実共に幸せであることを願わずにはいられない。「らい予防法」ゆえに,白衣を着せられ,長靴をはかされ,休み時間にも子どもたちとたわむれることを許されず,清浄区の職員室に帰らざるをえなかった藤本先生の無念さが,全編から迫ってくるのを感じる。(4p)
 中山氏の言葉に大いに同意します。
 そんな子どもたちとの出会いのなかで,赴任直後の6年男子の一言がずっと頭に残っているそうです。
自分たちのことは誰にもわからん。お医者さんでもわからん。
 世間から差別・偏見の眼で見られているということを施設の中にいても感じる子たちのこのうめき声。「この子は,こんな幼くして何でこういう言葉をはくの?」という疑問を解くことから藤本さんの園内での教員生活が始まるのです。
 これはアマゾンで購入。227円でした。

●ハイビジョン特集『忘れないで 瀬戸内ハンセン病療養所の島』(NHK,110分)
 2月のある日,NHKのハイビジョン放送で表題のような番組が放映されました。新聞の番組欄でたまたま見つけた番組でした。NHKのサイトより番組の内容の説明を引用します。

 屋島と小豆島に挟まれるように瀬戸内海に浮かぶ離島、大島。ハンセン病元患者の療養所の島だ。すでに2000人あまりの人がこの地で亡くなり、現在150人が静かに暮らしている。島には療養所の職員の子どもが通う小学校がある。子どもを持つことを許されなかった元患者たちと生徒たちとの不思議な交流が静かに続けられてきた。何十年も外と接触を断って生きてきた複雑な胸中を、子どもたちだけに話すという人も多い。しかし、それも今年で最後になる。学校がこの3月で休校になり、子どもたち3人が島から離れるのだ。
 子どもたちと入所者、最後の一年をカメラは記録し続けた。昻生くん(小6)陽七海ちゃん(小6)らは、入所者のために何ができるか、精一杯考えた。元患者たちも何を話しておくべきか必死に探った。10代で島に隔離され、一度宿した子どもを失った大西笑子さん(70)は中絶体験を陽七海ちゃんに語った。山本隆久さん(72)は、島の土を使って一緒に“大島の器”を作り昻生くんに渡した。その間にも10人以上の仲間たちが納骨堂に入った。自分たちの人生は何だったのか、島は誰からも忘れ去られてしまう。自分たちの思いを子ども達に託す元患者たち・・・。
 別れの時にそれぞれの胸に去来するものは何か。島いっぱいを彩る桜に始まり、美しい四季の移ろいの中で繰り広げられた子どもたちと入所者との最後の一年の物語。

NHKサイト(http://www.nhk.or.jp/omoban/main0506.html#20070506019)より

 小学生にとってあまりにも刺激的な療養者たちのたどってきた歴史。町の先生として,学校に川柳を教えに来る大西さん。その大西さんが語る自身の中絶の話。誰も手に取ってくれない陶芸作品を作り続ける山本さんの話。さらに3人子らは,療養所の納骨堂に入り,並べられた遺骨を見て,その空いた場所にはこれから誰が入るのかを考えるのです。
 こんな世界がある。世間から隔離され差別されてきた場所で,その当事者たちと交流し,去っていく子どもたち。あまりにも衝撃的な現実に,彼ら彼女らから何を学び,これからどんな人生を歩んでいくのでしょうか。
 番組を見終わって,とっても心が温かくなると共に,最後にはどうしても「なぜこんな人たちの存在を放ってきたのか」というむなしさが残りました。歴史は後戻りできません。同じようなことが2度と起きないように,私たちはしっかり教育していく必要があります。まずは,自分自身を…。

●DVD・熊井哲監督『愛する』(日活,1997,114分,4900円)
 遠藤周作『わたしが・棄てた・女』を原作に,日活が制作最下位第1回作品として世に送った社会はラブストーリー。恋人同士の2人には酒井美紀,渡部篤郎を起用。岸田今日子や小林佳樹や宍戸錠などの名優が彼らの盛り上げてくれます。
 上映当時はあまり話題にならなかったようです。それは,取り上げていた話題がハンセン病であること,現代の東京の風景の中に30年代の若者かと思うような若者が出てくることなど,見ている人に違和感を与えたのだそうです。確かに,こんな若者いないよなあって思ったりもするのです。
 でもビデオに書いてあるこの一文を読むと,それが脚本・監督の目的というか作成意志であっただろうことも想像できます
青春の時空を越えた少女の純粋なドラマが,戦後日本の闇を照らす。
 時空を超える感覚を出すためには,現代の映像の中に,連れ込み旅館が出てくるし,今じゃいないような若い二人の関係が出てくるのでしょう。ハンセン病問題が,過去のことのように思えて,実は現代にもつながるものであることを感じさせるためには,最もいい方法だったかも知れません。ほんと,映画を見ていると「俺って今,何時代の映画を見ているんだ?」という思いになりますから。
 ハンセン病問題は決して終わっていない。そういう映画でした。

2月号(ハンセン病関連図書・その1)→「ハンセン病問題を学ぶために」

1月号

○鈴木邦夫・斉藤貴男・森達也著『言論統制列島』(講談社,2005,238ぺ,1500円)
 副題には「誰もいわなかった右翼と左翼」とあります。
 著者は今までにも「今月の本棚」に何回か登場してきています。でもまあ,ご存じない人や忘れた人のために…鈴木邦夫氏は,自称・他称問わず「右翼」です。「一水会」の創設者。今は顧問。右翼から見て,日本社会にいろいろとものを申している人で,「右翼も左翼も何も言えなくなる社会が一番怖い」と言っています。
 また,斉藤貴男氏も森達也氏は,自称左翼ではなくて,「いつの間にか気がついたら,左翼と言われる立場になっていた。知らないあいだに,みんな右によっていたんだ」と言って笑います。だから他称左翼。斎藤氏の著書は,これまでにも『カルト資本主義』『機会不平等』『安心のファシズム』などで,紹介してきました。森氏は,オウム真理教を扱ったドキュメンタリー映画『A』『A2』や,『放送禁止歌』という本の紹介で取り上げました。
 とにかく,ふつうの社会生活では切り込めない部分に切り込んでいき,堂々と思ったことを発言してきた3名が,言論統制社会への流れに抗するべく鼎談したのをまとめたのが本書です。
 めちゃくちゃおもろいですよ。
 私が最近大変気になっていることに「お上が守ってくれる安心を最優先する」という国民・マスコミの状況があります。あの,ミノさんの番組なんて最低です。「親殺しがこれだけあった」「事故がこれだけあった」と騒ぎ立て,規制を厳しくしろ!とさけんでいて,知性的な部分が全く感じられません。あの小泉の態度とむちゃくちゃ重なって見えるんです。単純というか勉強していないというか…。
 そんな流れを利用するように,行政側も飲酒運転が増えると法律を厳しくする。強盗が増えると隠しカメラを増やす(防犯カメラともいいます)。そして,国家からがんじがらめにされている中の「安心」。そんな時代の危うさを,しっかり指摘してくれるのも彼らです。
▼もちろん事故はないに越したことはないし,防げるものは可能な限り防ぐことは当たり前。ただ,セキュリティへの希求は,副作用も絶対にあるわけです。だからこそリスク管理が必要になる。ところが危機管理意識が高揚すると,視野狭窄を招いて目の前の危機にしか対応しなくなってしまう。これは逆に危険なんです。(森,158ぺ)
 さらに,こんな説明もわかりやすいです。今の「平和」について。
▼今この国では,平和とはアメリカと日本の大企業が世界中で好き勝手に振る舞うことのできる状態を指している。それを少しでも阻害する要因,例えばアメリカの多国籍企業の国際戦略を収奪だとして抵抗してくるような勢力は“テロリスト”だからブッ殺す。“テロリスト”が集結する国への武力攻撃は,そこに無関係の子どもたちがいようといまいと,それは正義だとされる。(斉藤,213ぺ)
 社会を見る目をとぎすまさないと,この大きな右傾化の流れに押し流されてしまいます。一方で,こんな指摘もおもしろい。
▼それで,すべての差別はいけないからというので,天皇の名字も与えて,選挙権も与えて,全く自由になるとする。もし,今それをやっちゃうと,じゃあせっかくだから選挙に出てもらおうとか,あるいは天皇中心の政党か何か集団をつくろうとか,宗教団体をつくろうとかなります。天皇が党首になれば,公明党よりもっと大きな政党がつくれちゃう。それが怖い。(鈴木,90ぺ)
 自分の主義主張をもつというのと,実際に,もしそれが実現した時に,社会がどう動いていくかと,いうのは,全く違うかもしれないということです。「天皇制を今すぐ廃止しろ!」「天皇制こそ部落差別温存の根源だ!」と叫んでいたころの自分に反省します。

○網野義彦著『歴史を考えるヒント』(新潮選書,2001,190ぺ,1100円)
 だいぶ前に買ってあって,途中まで読んでいたんですが,もう一度はじめから読み直してみました。網野氏ことについては,説明するまでもないですね。
 網野氏が,どういう主張をしているのかをとりあえず知りたい人には,いい入門書です。帯には井上ひさし氏が「日本国を考えるための新しい長い旅はこの1冊から始めるしかない」と推薦文を寄せています。
 前に『「日本」とは何か』の時にも書きましたが,「日本」という国名がいつ頃できたのかという話もあります。
 今まであまり紹介しなかった話題というと,「商業用語について」と「日常用語の中から」という部分がおもしろかったです。
▼ある物を「落とす」という行為には,それによってその物に対する所有者の権利を切り離すという意味が含まれていたようです。(162ぺ)
なんて,おもしろそうでしょ。
 お薦めの本です。

○宮本常一著『忘れられた日本人』(岩波文庫,1984,334ぺ,700円)
 これも一応歴史関連書。
 宮本常一氏(1907-1981)の本を本格的に読んだのは初めてです。
 民俗学の権威であることはよく知っていたし,網野氏の本にもよく登場していたように思います。 民間の伝承を集めたものですが,解説者の網野善彦氏によると柳田国男や折口信夫とは,少し違うスタンスがあったようです。
 本書に収められた文章の大半は1958年10月に創刊された『民話』(未来社)に連載されたものです。
 ま,読み物としてはおもしろいですね。日本のこんな世界があったんだって感じです。今,もう1冊手に入れたので,来月紹介します。

○管賀江留郞著『戦前の少年犯罪』(築地書館,2007,294ぺ,2100円)
 新聞の書評欄で2度も見つけたので,ついに購入。あの明文堂で購入したはじめての本。ポイントカードつくったよ。
 問題意識は私と同じ。最近の子どもの犯罪を「さも今の子どもは残虐になった」とばかり強調するような社会・マスコミですが,そんなことはないと主張。戦前・戦中の新聞にあたり,一つ一つ少年犯罪を集めて紹介しています。これだけデーターベースがあれば,反論も楽でしょう。
 戦前,戦中の方が,生活も苦しく,身分も中途半端なので,とても考えなれない犯罪もあります。
 著者が見つけただけで,ココにあるくらいなので,拾いきれていないのをあわせるとどれくらいなのでしょうか。地方紙にしか載っていない事件もたくさんあるし,しかも,戦況が厳しくなるにつれて,犯罪記事なんてほとんど取り上げられなくなります。
 著者が主催する「少年犯罪データーベース(http://kangaeru.s59.xrea.com/)」というサイトもありますので,ご覧ください。よくもまあ,これだけまとめてくださいました,と頭が下がりますよ。それにしてもこの著者名,バカにしてますねえ。

○吉本佳生著『スタバではグランデを買え!』(ダイヤモンド社,2007,284ぺ,1600円)
 これまた,書評で見つけた本。「価格と生活の経済学」という副題です。
 次の答えを知りたければ買ってください。
・ペットボトルのお茶はコンビニとスーパーのどちらで買うべきか?
・テレビやデジカメの値段がだんだん安くなるのはなぜか?
・どうして映画のDVDは,だんだん値段が下がるのか?
・スターバックのコーヒーは,どのサイズを買うべきか?
・なぜ携帯電話の料金はやたらと複雑なのか?
・なぜ100円ショップはあんなに安いのか?
・子どもの医療費の無料化は,本当に子育て支援になるか?
 答えは書きません。そのスペースがないというよりも,はやりこれは,本を読んでもらった方がいいだろうから。ま,気になる人にはこっそりと教えてあげましょう。
 ほとんど値引きをしないコンビニで,あれだけ物が売れるのはなぜでしょうか。チラシを見てなるべく安い卵を買ってこようとするのに…です。
 名作DVD,本当に安くなりました。もっとはじめから安くしてよと言いたくなりますが,この販売のしくみとは…。

○石本伸晃著『世の中がわかる憲法ドリル』(平凡社新書,2007,289ぺ,840円)
 3学期には,公民の学習が始まります。そこでは6年生に憲法や法律のしくみを少し取り上げたいと思っています。そこで最近の身近な話題から憲法の条文が見えるような授業プランはできないかと思って手に入れたのが,本書。2回目にいった明文堂で購入。
 頭書の目的通りの本ではありませんでした。が,「憲法の出発点」「憲法を守らなければいけないのは誰か」に書かれている主張には,目から鱗の部分もあり,大いに頷きました。
▼誤解を恐れずに非常に大胆な言い方をすれば,人類の歴史の中で,事実としてあるのは「人権侵害」であって「人権」ではないのです。(251ぺ)
 どうです,なかなか刺激的でしょ。また,「時代にあった憲法を」という改憲の声に対しては,次のように一刀両断。
▼憲法は現実を確認するための法ではありません。(266ぺ)
 憲法とは「こうありたい」という国の姿を現す法です。もし現実がそうなっていなかったら,現実の方を変える必要があるのです。

○平田治著『子どもが輝く「魔法の掃除」』(三五館,2005,254ぺ,1400円)
 自問清掃についての取り組みについて書かれている本です。著者の平田氏は,長野県の小学校の先生で,自らの体験に基づいて書かれています。
 自問清掃については,能登町でも以前から取り組まれています。ドッカノ校長さんが始めたとか,教育長が言い出したとか,いろいろと噂は聞きますが,よく知りません。
 しかし,今,能登町の自問清掃が,形だけになっている気がしているのです。自問清掃で培われるはずの「自主性」「創造性」はどこにあるのだろうか???という疑問です。
 なんでもそうですが,長く続けていると,例年通りということだけが自己目的化して,いったい何をやっているのかわからなくなります。著者も
▼この本の私の奮闘記を読んでくださるとわかりますが,「やる気のない人は休んでよい」とだけ言って,その理由をわからせないでいると,私のようなとんでもない苦労をする羽目になります。(94ぺ)
と言っています。とにかく方だけまねしてもダメなのです。
 本書を読んでもなかなか疑問は解けません。「自問清掃は5つのステップを踏んでいくように構想されてい」るそうです。だから,こどもたちは,それぞれその5つのステップのどこかにいるわけですが,いったいどこにいるというのでしょうか? 長年やっていると,みんなすでに高度な段階にいていいはずなのですが…。
 もう少し,じっくりと考えてみます。

○板倉聖宣著『新科学入門(上)大きすぎて見えない地球,小さすぎて見えない原子』(仮説社,2005,203ぺ,1800円)
 以前,太郎次郎社から『科学新入門 科学の学び方・教え方』として発刊されていた物を,このたび,上下巻に分けて新版としたものです。
 以前の本を読んだのは,学生時代(1980年)でしたので,もうかれこれ30年近く前になります。私が読んだ仮説関係の本の中でも本書は早いほうだったかもしれません。とても興奮して読んだことを覚えています。
 今改めて読み直してみても,内容が古くない。授業書になっている話題もたくさんあります。
 当時は,授業をする身ではありませんでした。だから,書いてある内容を見ても,「そうそう,こどもたちはたぶんそんな反応をするだろうな」としか思えなかったのですが,今は違います。まさに,こどもたちはこの本に出ているとおりの反応をし,そして科学の授業を楽しんでくれています。
 こうして,30年前から仮説実験授業とつきあえた私はやっぱり幸せ者ですね。 

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