「ハンセン病問題」を学ぶために

研究は読書から

ハンセン病関連図書・その2

 ずいぶんとのめり込んでおります。なんでこんなにのめり込んでいるのか,その自分のこだわっている問題意識にだんだん気づいてきました。それは次のようなことです(2008年3月)。

①日本から「ハンセン病をなくしたい」という善意が,どうしてハンセン病患者を苦しめるようになってしまったのか?
②少なくとも戦後,あたらしい「日本国憲法」の下でもう少し個人の人権に配慮した政策がとられなかったのはどうしてなのか?
③ついこの前まで,その差別政策に気づかなかったということは,今後も,違う形で同じようなことが起きる可能性が日本にはあるのではないか。日本の社会にはそういう「しくみ」が厳然としてあるのではないか? もしあるとすれば,それはどこから来ているのか?

 これらのことについて,なかなか一気に納得できる本が見あたりません。でも,少しずつですがその外輪が見えてきました。前回紹介した『「隔離」という病』がそうです。それから今回紹介する『「いのち」の近代史』も参考になりました。そのほか,まだしっかり読んでいませんが,いろいろと参考になる本はあるようです。
 で,今回も,まだまだ単なる本の紹介にとどまります。
 いつかは,上の問題意識についてまとめることがあるかもしれませんし,ないかもしれません。こんなのをまとめるってことは,一朝一夕でできるものではない。

●大谷 英之 (写真)『ここに人間あり―写真で見るハンセン病の39年』(毎日新聞社,20007,143p,3000円)
 県立図書館から借りました。ここに人間あり
 野生の赤ちゃん猿大五郞との生活を綴った写真で有名な写真家の大谷英之さん。
 1967年春,新宿の飲み屋でたまたま隣り合わせた人が元ハンセン病の患者だったという。それからというもの「ファインダーに移る向こう側に閉じこめられていた人間の叫びは,シャッターを切る指先にはあまりにも重いテーマだった」にもかかわらず,「積み残している自分の責務に駆り立てられ」てまとめたハンセン病の39年の写真証言集です。
 私は先にハンセン病に関する「文章」を読んでいたので,実際の療養所の中の様子や世間と隔てられた壁の様子など,あるいは(元)患者さんたちの様子など,興味深くみることができました。
 その写真の中に,右のようなものがありました(写真は省略:盲目将棋)
 これは何をしているのだと思いますか?
 そこにいた同僚に聞いたところ「将棋か囲碁をしているのだろう」と言っていました。子どもたちに聞いたところ,それにくわえて「睨めっこをしている」とかも言っていました。
 私はこの写真を見た時に「ああ,これは盲目将棋だな」と思いました。ここで向かい合っている二人は,たぶん二人とも盲目なのです。言葉で将棋の駒を動かして,お互いの頭の中に将棋盤があるのだと思いました。
 なぜそう思ったのか-それは,あの詩人・桜井哲夫さんの本に『盲目の王将物語』という作品があるのを知っていたからです。

●桜井哲夫著『盲目の王将物語』(土曜美術出版販売,1996,269p,1700円)
 そこでその本を手に入れて読んでみました。
 本書は,桜井哲夫さんの自伝的小説ともなっています。
 「盲目の王将物語」は,本書のうち30数ページあまり。
 ハンセン病患者だった桜井さんは,ふつうの盲目将棋のように,点字のある駒を手で触ったり,出っぱり線のある盤を手で触ったりはできません。指先の感覚がないからです(ハンセン病は末梢神経が冒される病気です)。ハンセン病で指先に感覚を失った人たちは「舌読」といって「舌で点字を読む」のです(上記の写真集の表紙は舌読の様子です)。
 桜井さんが将棋を始めたのは,失明してからだそうです。
 ですから,ルールなどもよく分かりません。友達の所に行き,べちゃべちゃになるまで将棋の駒や将棋盤をなめさせてもらいながら,将棋を覚えていったそうです。そして,ついに王将戦に勝つまでの力をつけるのです。
 目が見える人は,普通,今,注目している駒の周辺だけに頭が動きます。他の場所の自分の駒や相手の駒にはなかなか頭が回りません。でも,目の見えない,駒や盤にふれることさえもできない人たちは,常に頭の中に,将棋の駒たちの全体像があるわけです。そうしないと,いろんな駒を言葉で動かすことができません。だからこそ,ふつうの人たちよりも早く全体を見通せるようになるのかもしれません。なんという能力でしょうか!
 さて,本書には,表題作の他,「久遠の花」「樹氷」「汚された十字架」の4本が収められています。
 特に「久遠の花」には,桜井さんがたどってきた人生そのものが赤裸々に語られていて引き込まれてしまいました。あるとき,プロミンという薬で体調のよくなった桜井さんに子どもができてしまいます。当然,おろさなくてはならないのですが,すでに3ヶ月を過ぎていて…。そして6ヶ月を過ぎた時…。この部分の話は信じられません。こんなことが平気で行われていたなんて…。

私の読んだものとは違いますが…

●小川正子著『小島の春』(長崎書店,1938(昭和13),282p,1円50銭)
 県立図書館から借りました。
 長島愛生園の医官・小川正子が,ハンセン病者を隔離収容するという使命を持って土佐の山奥や瀬戸内の小島を説得に回ったときの記録を纏めたものです。
 この本は当時とても話題になったそうです。小川さんのハンセン病者に寄り添うその献身的な姿勢に日本中が涙したとか…。映画にも取り上げられて,よりいっそう話題になったようです(この映画も手に入れてみてみたい…後日,手に入りました。「その1」に紹介済み)。
 確かに読んでみると,小川さんは本当に患者さんのことを思っていることが分かります。隠れて生きていかなければならない人たちがいる。十分な医療も施されることなく,症状がひどくなるにまかせている患者さんたちもいる。そんな病者たちに向かって,「長島に来れば,十分な医療と安らぎがあります」「あなたが決心する方が,この家族にとっても村にとってもいいのです」と,語る小川さん。時には病者と共に涙もします。
 しかし,この小川さんのやったことは,結果的には,ハンセン病者のためにやっというよりも,国策遂行のために働いたという感じが強いのです。長島愛生園の園長である光田健輔の言うとおりに一生懸命動いたというだけです。本人が患者のためにと思ってやってきたことなのに,結果としてハンセン病者の世間からの隔離を固定化し,また世間の差別意識を高めてしまったのです。
 私たちは,自分の善意でものごとを判断してはいけないのです。その善意からやった結果,どうなったのか,そこに判断基準を持たないと,「よかれと思ったんだからいいじゃないか」という無責任なことになります。
▼何時を限りとも果てしない事なので,車はその儘走り出て次の又一つの山裾を廻って出鼻に出ようとする所で,今別れた峠がずっと上の方に仰がれる。その峠の道を矢の様に駆け下りて来るのは九つのあの男の児「あれ先生,追いかけて来ます」と父親が泣き出す。私も貰い泣きの涙乍らに振り返り振りかえる。(49p)
▼私は土佐の人に向かって叫び度い。此所にも手遅れの一組の癩者があるとー。この二人を中心に不知の裡に,長い年月のかげに隠れつつ広まっていく癩の伝染を想えと。山裾の家の親と子よ,救わねばならぬ,救わねばならない。(68p)
▼(映画「愛生ニュース」等を見せたあとで)見えるかしらんと気になって少し後ずさって,皆の中に混じって見ていると十二,三歳の子供が一人「いい所だなあ,俺も癩病になったら愛生園に行くぞ」とつぶやいて居るので,思わず笑い出してしまった。飛んでもない事を云って呉れる。然しこうした子供心にも病になったら寮院に行った方がよい,行くべきものとの考えを残した事はよい事であるかも知れない。(181p)

 自分でも,ほしくなったので,結局,古本屋から手に入れてしまった。
 最後の描写が圧巻です。
▼御回診が終えてお風呂も済んだ坂の上で,いつまでも夕焼けの空の色,しかも静かに移ってゆく雲の姿をあふいで,私は祖国浄化の完成をする日の夕映えを想って居た。その日の夕映えはどんなに美しい事だろう。今日の夕焼けなんかとても及びもしない様な綺麗さが想われるのだった。/梅雨の洗った空気の様に,幾百の幾千の病者が流す涙,血族が流す忍苦の流涙の幾十年。それがすっかりと払われて,はればれとした日の,その日の夕映えの色が想われてならなかった。/綺麗だろうなあ,きっと綺麗だろうなあと,私は両手をぐるぐるとお空に向けて廻しながら本館への坂を駆け下りているのだった。(270p)
 彼女の経って立つ位置は,癩が根絶した日本国。その姿です。この夕日を見るのは自分が連れてきた患者さんではない事に気づいているのでしょうか。いないのでしょうね。ここが彼女の限界です。

●藤野豊著『「いのち」の近代史』(かもがわ出版,2001,685p,7500円)
 副題には「民族浄化の名のもとに迫害されたハンセン病患者」とあります。文字通り,この約700ページの本は,ハンセン病を中心として日本国や国民が起こしてきた人権侵害について徹底的に究明している本です。章立てを紹介しましょう。
第1章 「一等国」へのばく進の途上で
第2章 民族浄化-皇室と社会運動家の接点
第3章 たたかう病者
第4章 断種の論理
第5章 植民地・占領地のハンセン病政策
第6章 継続された隔離政策-患者のとっての「戦後民主主義」
第7章 「らい予防法」下の苦闘
第8章 隔離90年の重さ
 本書は,多摩全生園で発行されている『多摩』誌に1992年1月から2000年6月まで,足かけ9年にわたって連載されたものを収録したものです。
 藤野さんは,ハンセン病の通史にはすでに『日本らい史』(1993年)があるので,
ここでは,通史ではなく,ハンセン病患者の人権を中心にして,日本近代史の中にあらわれたハンセン病問題について記していきたいと考えている
と書いています。ですから,通史としては不十分なのでしょうが,十分読み応えのある読み物となっています。時間は前後する部分はあるのですが,それはあまり気になりません。
 本書はあまりに高い本なので,県立図書館から借りて読みました。が,返却までに半分ほどしか読めなかった(しかも内容もよかった)ので,結局自分で購入しました。いやー,刺激的な本です。
 戦後民主主義とハンセン病の問題については,また後ほど詳しく検討することもあるでしょう。

●ハンセン病訴訟勝訴一周年記念シンポジウム実行委員会編『お帰りなさい! ハンセン病・北陸からの訴え』(桂書房,2003,173p,1500円)
 これも県立図書館からお借りした本です。
 タイトルにもあるように,ハンセン病国賠訴訟から1周年を記念して富山県で開かれたシンポジウムの様子(第1部)と,ハンセン病問題と関わっている北陸3県在住の方から寄せられた訴え(第2部「北陸からの訴え」)の2部構成で作られています。
 シンポジウムの記念講演とパネルディスカッションの司会は,富山国際大学人文社会学部教員の藤野豊先生。先に紹介したの『「いのち」の近代史』の著者です。講演の内容は,『いのち…』の内容を40ページほどで語ったダイジェスト版という感じですので読みやすかったです。
 パネルディスカッションには,元ハンセン病患者の2名(内1名は,在日韓国人),国賠訴訟の弁護士1名が参加しています。
 この中で元ハンセン病患者の金さん(長島愛生園)が語った「社会復帰」ということについての一節が私の心に残ったので転載します。
私は,外へ出て生活しようとは,今は,思っておりません。社会復帰は,いったいどういうことが社会復帰なのか,ということを考えることがあります。ただ住まいを外に移したからと言って即それが社会復帰だとは,最近,思わないんですね。私がもし社会復帰をするとすれば,二つの条件をかなえていなければならないと思います。二つのうちの一つは,自分がハンセン病であったことを隠さないということ。必要であれば,自分がハンセン病でありましたということを,やはり言うこということ,それが一つ。それからもう一つは,多くの人との連帯の中で生きるということ。出て単独で生きては,私は決して社会復帰じゃないと思います。いろんな人との連帯の中で生きていけること,この二つの条件を満たしたとき,それこそ社会復帰だというふうに思えるんですね。 (77p)
 だから金さんは,今の療養所にいる状態であっても,こうして外に出て話をし,いろんな人とつながりあっている状態である自分がいることを確認しています。その反対に,園から社会に出て,今はタクシーの運転手をしているけれど,自分は元ハンセン病患者であったことを隠して仕事をしている。もしばれたら仕事が続けられなくなるから,とても言えない,という実例も挙げられました。
 本当の社会復帰が出来るまでには,まだまだ日本の社会が成熟しなくてはならないと思いました。まだまだハンセン病問題は終わっていないと感じた証言でした。パネルディスカッションの最後に,弁護士の高見沢さんが次のように結んでおられます。
最初は植えつけられたにせよ,それを支えている国民ひとりひとりの意識というんですか,人権感覚というものが,岩盤のようにして残されているというふうに思うわけです。この差別・偏見を生んだ原因・真相を究明する,そのことが大切だということで,今,厚労省といろいろやり取りしています。(中略)そういったことを色々やっていく中で,世の中を変えていかなくてはいけない。そうでないとこういった事件というか,差別・偏見はまた違うところで,同じような形で起こってくると思うわけです。(89p)
 2003年11月の黒川温泉の宿泊拒否差別事件を引き出すまでもなく,日本の社会は差別・偏見が渦巻いているのです。「教育の力にまつ」ということを信じて実践するしかありませんね。
 差別・偏見を植えつけたというと,あの真宗大谷派でも,以前は「らい病者の強制隔離」に果たした責任は大変大きいようです。
 1934年の「愛生」という冊子にはあの暁烏敏が,「入所者の行くべき道」と題して,隔離されている園内の方たちに対して,次のように語っています。
皆さんは,ここに生くる道をお見出しになって精進されることを望みます。皆さんは自分がわるくて病気になったのではないのだが,国家のために,多くの同胞のために,ここに家を離れて病気を保養していをるのである。皆さんが静かにここにをらるることがそのまま沢山の人を助けることになり,国家のためになります。だから皆さんが病気を戦うてそれを超越してゆかれることは,兵隊さんが戦場に働いてをるのと変わらぬ報告尽忠のつとめを果たすことになるのであります。(「教団の謝罪声明と取り組みについて」112p)
 しかし,こういう差別的な意識を持っているお坊さんは過去の方ばかりとは限らないようです。1984年5月,長島愛生園で法話を行ったあるお坊さんが,またまたハンセン病についての無知からくる差別的な発言をしてしまいました。教団ではそのこともしっかり取り上げて,総括をしているようです(「宗教者の責任」)。
 このように真宗大谷派のお坊さんたちは,先人たちが犯した間違いをわび,二度と同じ間違いを起こさないように,学習をしているといいます。
 ハンセン病療養所にあった「重監房」の復元を呼びかけている新潟大学の宮坂道夫氏の次の言葉を紹介して本書の紹介を終わります。
歴史から教訓を得ることが大切だと,誰もがいいます。しかし,そのためには「具体的な媒体」が不可欠です。それは例えば体験者の「語り」であり,生々しい「現場」や「遺留品」です。広島の原爆ドームに行き,資料館に展示されている溶けたガラス瓶を目にする。アウシュビッツで,殺された人々の脂肪から作られた石鹸を目にする。そういう「具体的な媒体」「生きた媒体」を通して追体験をしない限り,人間は忘れ去る生き物であるようです。(宮坂「凍れる記憶・重監房復元運動のこと」105p)

●藤野豊他著『知っていますか? ハンセン病と人権(一問一答)』(解放出版社,2005,127p,1000円)
 ハンセン病に関する「Q&A集」です。23の質問に答える形でハンセン病の諸問題について語られています。
 内容は,日本だけでなく,戦前,日本が韓国や台湾に作った施設のことや,世界のハンセン病(問題23)についても書かれています。巻末には,「もっとくわしく知りたい人のために」という本の紹介もあるので,「ハンセン病問題入門書」にはぴったりです。
 本書「問22」の項で紹介されていた『ハンセン病問題に関する検証会議・最終報告書』については,日弁連法務研究財団のサイトで読むことが出来ます(1500ページを超えます。要約版もあります)。明石書店から本になって出版されていますが,2冊で47000円だって…。こりゃ手に入れるのはあきらめよう。

●神谷美枝子著『生きがいについて』(みすず書房,2004,353p,1500円)
 本書は,1966年に同じみすず書房から刊行された『生きがいについて』に,新たに「日記」と「解説」を付け加えて『著作集1』(1980年)として出されたものです。それのさらに新版。
 神谷美枝子氏は,1957年から72年まで,長島愛生園に勤務していました。本書は,その間に書かれたということになります。
 「その1」で紹介した武田徹著『「隔離」という病』「第5章 生きがい論の陥穽(かんせい)」で紹介されて,その考え方の危険性を指摘されていたのが本書でした。
 武田氏は,神谷の論は「光田健輔や小川正子がかつて強制収容を正当化した時に用いた論法を精神医学的に支えるものだ」(『「隔離」という病』146p)と言っています。
 それでは,どんな表現が出てくるのか,本書を見てみましょう。
 本来,「生きがい」を失って自暴自棄になりがちなハンセン病による入園者たちが,時折,世間のひとたちより「生きがい」を持って生きているように見えることがあるのはなぜか? そんな疑問から「生きがいを失うもの」「あたらしい生きがいの発見」などについて著者の意見がまとめられています。
 全編を通じて,いろいろな作家や哲学者,先人たちの引用があり,初めて聞くような名前ばかりでした。
▼ほんとうに生きている,という感じをもつためには,生の流れはあまりになめらかであるよりはそこに多少の抵抗感が必要であった。したがって生きるのに努力を要する時間,生きるのが苦しい時間の方がかえって生存充実感を強めることが少なくない。ただしその際,時間は未来にむかって開かれていなくてはならない。(24p)
 ある程度生活に満足して生きているときには,たしかに生きがいなどというものを感じないかも知れません。ついつい「そのとおり」と同意していまいます。
▼愛生園のある青年は久しく心臓神経症に悩んでいたが,あるとき思い切って園内の気象観測所につとめてみた。この観測所は外部社会にも認められているほど優秀で,青年はここの仕事に参加するはりあいのためにみちがえるほど元気になり,神経症の症状もすっかり消えた。ところがその後,年金制度が実施され,その青年もある程度肢体不自由であったため年金をうけることになった。そうなると園内の作業についてはいけないことになり,せっかく生きがいをおぼえていた観測の仕事をやめなくてはならなくなった。暇の時間を持てあますようになると案の定,以前と同じような神経痛がいろいろな形をとってあらわれてきたのである。(24p)
 そういうこともあるでしょう。でもだからといって「年金制度」が悪いことにならない。しかし,この論理は大変まずいことにもつながります。現状をプラス思考で乗り越えようとするのです。
▼このようなことを彼に教えたのは苦しみと悲しみの体験であった。このようなことをわかってくれるひともまた深い苦悩を一度は通ったことのあるひとにほとんどかぎられていた。結局,人間の心のほんとうの幸福を知っているひとは,世にときめいているひとや,いわゆる幸福な人種ではない。かえって不幸なひと,悩んでいるひとのほうが,人間らしい,そぼくな心を持ち,人間の持ちうる,朽ちぬよろこびを知っていることが多いのだ-。(268p)
 それはそうだろう。でもだからといって「苦しみと悲しみの体験が重ければ重いほどいいとするのか」という疑問がどうしてもつきまといます。
 あのベストセラーである『ホームレス中学生』の中には,それまで当たり前だったことが如何に有難いことであったのか-ということを主人公が感じる部分がたくさん出てきます。友達の家で久しぶりにありつけた暖かいお味噌汁に「今後,これよりおいしい味噌汁には一生あわないだろう」というほどの感激ぶりです。でもだからといって,ウンコ公園での生活がよかったとは言えないのではないでしょうか。
 困難を克服する物語,困難に打ち勝って成功する物語は,確かに存在するでしょうが,ほとんどの人たちはその困難に打ちのめされている時間が長いことも確かです。
▼人間の存在意義は,その利用価値や有用性によるものではない。野に咲く花のように,ただ「無償に」存在しているひとも,大きな立場からみたら存在理由があるにちがいない。自分の眼に自分の存在の意味が感じられないひと,他人の眼にもみとめられないようなひとでも,私たちと同じ生をうけた同胞なのである。もし彼らの存在意義が問題になるなら,まず自分の,そして人類全体の存在意義が問われなくてはならない。そもそも宇宙のなかで,人類の生存とはそれほど重要なものであろうか。人類を万物の中心と考え,生物のなかでの「霊長」と考えることからしてすでにこっけいな思いあがりではなかろうか。(281p)
 どんなものにも生きる価値はあると考えることができれば,それはそれで「生きがい」につながることだと思います。ただ「だから,私はこのままでいい」とするのでは,ハンセン病国賠訴訟もなかったし,総理が元ハンセン病者たちに頭を下げることもなかったでしょう。
▼「○○ちゃんも私もみんな戦争のために…一生めちゃめちゃに壊されてしまった。けれどこの尊い多くの犠牲者によって平和が築かれて行くのだったら,この上なくうれしくてならないのだけれど…」/右は20年前,動員女学生として広島で被爆し,顔面裂傷,左眼失明した一女性の手記である。「めちゃめちゃに壊されてしまった」自分たちの生すらそれが平和への礎になるのならば,その代価としての意味がある。ぜひ意味あらしめたい! というのは多くの被爆者たちに共通な願いである。/人間はみな自分の生きていることに意味や価値を感じたい欲求があるのだ。(73p)
 こんな文章を読まされると,さすがに「ちょっと待ってよ」といいたくなります。確かに,そういう人はいます。しかしそれは「靖国に祀られて満足している遺族」の姿と重なってしまいます。こんなところで「生きている意義」や「死んでいった意義」を持ち込んで自分を納得させてはいけないのではないでしょうか。そうしないと,第2,第3の「被爆者」が出てくるし,「戦死者」もなくなりません。こういう「生きがい論」は,ここに来て,国家に利用されやすい発想であることが見えてきます。
 しかし,本書の解説で柳田邦男氏は,神谷氏の言説について,次のように述べています。
▼神谷さんは,国家のマクロな枠組みばかりを論じる政治運動や社会活動が支配的になっている状況に対するアンチ・テーゼとして,前述のように誤解を招きかねない厳しい表現で,被害者側の心の中にさえある,いつ加害者側になるかもしれない暗部を露出させたのだ。私はそう解釈している。(345p)
とまあ「誤解を招きかねない」表現をあえて使っているとして<善意>に解釈しています。
 だがしかし,それが善意であろうがなかろうが,結果としてどうなるのかが大切なのだと思います。
 武田氏は『「隔離」という病』
▼「生きがいを純粋に精神の問題だとしてしまうと,生きがいというものは心のもち方ひとつだ,ということになる。(梅棹忠夫著『わたしの生きがい論』)」
という梅棹氏の文章を紹介しています。
 現代風に言うと「プラス思考さえすれば,不満はなくなるし,生きがいももてる」ということでしょうか。
 本書も県立図書館からお借りしました。
 ついでに,梅棹忠夫氏の本も手に入れたので,来月,紹介します。

●梅棹忠夫著『わたしの生きがい論』(講談社,1981,329p,1100円)
 もうずいぶん前の本です。何で今時生きがいを考えようと思ったのか…。自分の生きがいを考えようと思ったわけではありません。
 これも,私にとってはハンセン病つながりの本。「今月の本棚」のバックナンバーをお読みくだされば,私の問題意識は分かるでしょう。
 著者はご存じだと思うが,一応,経歴を書いておきましょう。
1920年生まれ,民俗学・文化人類学が専攻。学生時代には『知的生産の技術』という岩波新書がベストセラーになったことを知っている人もいるでしょう。本書執筆当時は,国立民族学博物館長でした。
 本書は,いくつかの講演記録をまとめたものです。
 私の問題意識の「生きがい」の部分を抜き出します。
▼生きがいを純粋に精神の問題としてしまうと,生きがいというものは心のもち方ひとつだ,ということになる。どんなひどい状況にあっても,生きがいというものは見つけることができるのかもしれない。逆にどんなに物質的にめぐまれた状態にあっても,生きがいというものは感じられないかもしれない。こういうところが,いわゆる「生きがい論」の危険なところなんです。客観的には惨憺たる状況にあっても,心のもち方ひとつで,生きがいを感じてしまう。それでよろしんでしょうか。そういうことだとすると,生きがい論というのは,ただの精神修養論になってしまう。(76p)
▼人生に目的は何か,これは昔からよくいわれる疑問ですけれども,人生の目的は何かという質問自身を,わたしは基本的には意味がないというふうにかんがえています。人生に目的なんかあるものですか。そんなものはあるわけがない。人生というのは「ある」のであって,目的も何もあったものじゃない。(78p)
▼従業員個人がその企業においてはたらくことに生きがいをみいだすならば,企業としては大成功です。そこで,生きがいの演出がはじまるわけです。そういうたちのものだということですね,生きがいというものは。/一人一人の人間に,それぞれのサイズに適した生きがいを,じょうずにもたせたら,だれでもそれで勇躍してはたらくんです。そういうたちのものなのです。鎌倉武士とおなじです。「お前ら全部死ね」。それは,そういう構造さえきちんとつくっておけば,できるんです。 (82p)

 なかなか考え深い文章です。私たちが生きがいを追い求めているあいだに,その生きがいが,強力な組織を成り立たせる一部として組み入れられているだけではないか。その組織が,実は見えない弱者を苦しめていることもあるかもしれない。その弱者にも為政者達は巧妙にその場所での「生きがいのもち方」を語るのだろうか。
▼何かわれわれ個々の人間の生きがいというような話では片づかないものが,どうもあるのではないか,ということです。目的を設定し,精神を緊張させ,努力し,その結果何かがえられる。しかし,同時に,そのことによる損失もまたある。場合によれば,そんな努力を放棄した方がいいというようなことも,またあるということです。(84p)
 春休み,この本を職員室で読んでいたら,「Oさん,なかなか珍しい本を読んでいるね」といってくる同僚もいました。そりゃそうですよね,今時,マジメに生きがい論なんて読まないもん。生きることの意味を見いだそうとしているように見えたのかなあ。ちょっと笑っちゃいます。そこで,「これは,生きがいなんていらないよという本だよ」と言っておきましたけど。

●藤本フサコ著『忘れえぬ子どもたち-ハンセン病療養所のかたすみで』(不知火書房,1997,300p,2500円)
 昭和37年から46年まで,足かけ10年,熊本県菊池郡合志小学校中学校の分校である恵楓園分校に勤めた藤田さんの学校生活やその後の教え子とのお話がまとめられています。恵楓園というのは,国立ハンセン病療養所のひとつです。そこにいた子どもたちに教鞭をふるっていたのが,臨時採用の藤田先生だったというわけです。
 中山節夫氏が「序」で次のように述べています。
▼誰よりも子どもたちの幸せを願われた藤本先生と共に,病気による不幸以上に,幼くして差別と偏見に耐えてこられたこの人たちが,名実共に幸せであることを願わずにはいられない。「らい予防法」ゆえに,白衣を着せられ,長靴をはかされ,休み時間にも子どもたちとたわむれることを許されず,清浄区の職員室に帰らざるをえなかった藤本先生の無念さが,全編から迫ってくるのを感じる。(4p)
 中山氏の言葉に大いに同意します。
 そんな子どもたちとの出会いのなかで,赴任直後の6年男子の一言がずっと頭に残っているそうです。
自分たちのことは誰にもわからん。お医者さんでもわからん。
 世間から差別・偏見の眼で見られているということを施設の中にいても感じる子たちのこのうめき声。「この子は,こんな幼くして何でこういう言葉をはくの?」という疑問を解くことから藤本さんの園内での教員生活が始まるのです。
 これには同じ会社から新版が出ています。

●宮坂道夫著『ハンセン病 重監房の記録』(集英社新書,2006,190p,660円)
 草津の栗生楽泉園にもうけられた「特別病室」。のちに「重監房」とよばれるこの施設に収監された93名の内14名が監禁中に死亡,8名が衰弱して外に出されまもなく死亡したというものすごい施設なのです。
 これが国会と問題となり,取り壊されてしまいました。
 しかし,ハンセン病問題が(表向きであれ)終結した今,負の遺産としての重監房の復元を考えていくべきでしょう。
 アウシュビッツがそうであったように,この重監房も「人間の善意が引き起こした悲しい施設を物語る歴史の証言」として残していかなければなりません。
 著者の宮坂氏は東京大学医学部におられます。重監房の復元のための運動にも参加しています。
 ニュースステーションに出ていた谺さんを見て以来,宮坂氏は医学の負の面としてのハンセン病から自分も学生達も学ばなければならないと決心します。
▼重監房をわざわざ復元することのいちばん大きな理由は,わたしたちの想像力の限界にあるのかもしれない。重監房の「殺意」は,あの異様な建物の構造にこそ表れている。これを可能な限り復元して,暗黒と冷気に閉ざされた独房に,私たちは入ってみる必要があるのではないか。そうでなければ,そこで数十日間,数百日間と監禁されることの恐怖は理解できないのではないか-。(166p)

●VHSビデオ・豊田四郎監督『小島の春』(東宝,88分,古本屋で4800円)
 なんと,1940年キネマ旬報日本映画第1位の作品です。監督は,『夫婦善哉』『恍惚の人』などの作品で有名な豊田四郎氏。小川正子の同名手記を映画化した作品です。
 ハンセン病者を全国の療養所へ向かい入れるべく,献身的に働いた女医・小川正子氏の自伝を映画化したもので,上映当時大変話題になったようです。私は原作の方を先に読んで,もっともっと「映画を見たい」と思っていたのですが,やっと手に入れることができました。残念ながらDVDにはなっていません。今時こんなビデオテープのソフトを買うのも,問題意識があるからですねえ。
 古本屋のおっさん(かどうかわからないが)のメールによると,豊田監督は,生涯この作品を作ったことを後悔していたそうです。この話の裏は取っていませんが,たぶん本当でしょう。
 淡々と進む映画です。確かに小川さんの献身的な姿勢は軍国主義時代の日本にぴったりです。今となってみれば,がまんをして療養園に入っていく姿が,とても不憫に思えてきます。

youtubeで映画を見ることができます。これって,著作権は大丈夫なのでしょうか? 一応リンクしておきますが,だめなのなら,すぐに消去します。

●DVD・熊井哲監督『愛する』(日活,1997,114分,4900円)
 遠藤周作著『わたしが・棄てた・女』を原作に,日活が制作最再開第1回作品として世に送った社会はラブストーリー。恋人同士の2人には酒井美紀,渡部篤郎を起用。岸田今日子や小林佳樹や宍戸錠などの名優が彼らの盛り上げてくれます。
 上映当時はあまり話題にならなかったようです。それは,取り上げていた話題がハンセン病であること,現代の東京の風景の中に30年代の若者かと思うような若者が出てくることなど,見ている人に違和感を与えたのだそうです。確かに,こんな若者いないよなあって思ったりもするのです。
 でもビデオに書いてあるこの一文を読むと,それが脚本・監督の目的というか作成意志であっただろうことも想像できます
青春の時空を越えた少女の純粋なドラマが,戦後日本の闇を照らす。
 時空を超える感覚を出すためには,現代の映像の中に,連れ込み旅館が出てくるし,今じゃいないような若い二人の関係が出てくるのでしょう。ハンセン病問題が,過去のことのように思えて,実は現代にもつながるものであることを感じさせるためには,最もいい方法だったかも知れません。ほんと,映画を見ていると「俺って今,何時代の映画を見ているんだ?」という思いになりますから。
 ハンセン病問題は決して終わっていない。そういう映画でした。

●ハイビジョン特集『忘れないで 瀬戸内ハンセン病療養所の島』(NHK,110分)
 2月のある日,NHKのハイビジョン放送で表題のような番組が放映されました。新聞の番組欄でたまたま見つけた番組でした。NHKのサイトより番組の内容の説明を引用します。

 屋島と小豆島に挟まれるように瀬戸内海に浮かぶ離島、大島。ハンセン病元患者の療養所の島だ。すでに2000人あまりの人がこの地で亡くなり、現在150人が静かに暮らしている。島には療養所の職員の子どもが通う小学校がある。子どもを持つことを許されなかった元患者たちと生徒たちとの不思議な交流が静かに続けられてきた。何十年も外と接触を断って生きてきた複雑な胸中を、子どもたちだけに話すという人も多い。しかし、それも今年で最後になる。学校がこの3月で休校になり、子どもたち3人が島から離れるのだ。
 子どもたちと入所者、最後の一年をカメラは記録し続けた。昻生くん(小6)陽七海ちゃん(小6)らは、入所者のために何ができるか、精一杯考えた。元患者たちも何を話しておくべきか必死に探った。10代で島に隔離され、一度宿した子どもを失った大西笑子さん(70)は中絶体験を陽七海ちゃんに語った。山本隆久さん(72)は、島の土を使って一緒に“大島の器”を作り昻生くんに渡した。その間にも10人以上の仲間たちが納骨堂に入った。自分たちの人生は何だったのか、島は誰からも忘れ去られてしまう。自分たちの思いを子ども達に託す元患者たち・・・。
 別れの時にそれぞれの胸に去来するものは何か。島いっぱいを彩る桜に始まり、美しい四季の移ろいの中で繰り広げられた子どもたちと入所者との最後の一年の物語。

NHKサイト(http://www.nhk.or.jp/omoban/main0506.html#20070506019)

 小学生にとってあまりにも刺激的な療養者たちのたどってきた歴史。町の先生として,学校に川柳を教えに来る大西さん。その大西さんが語る自身の中絶の話。誰も手に取ってくれない陶芸作品を作り続ける山本さんの話。さらに3人子らは,療養所の納骨堂に入り,並べられた遺骨を見て,その空いた場所にはこれから誰が入るのかを考えるのです。
 こんな世界がある。世間から隔離され差別されてきた場所で,その当事者たちと交流し,去っていく子どもたち。あまりにも衝撃的な現実に,彼ら彼女らから何を学び,これからどんな人生を歩んでいくのでしょうか。
 番組を見終わって,とっても心が温かくなると共に,最後にはどうしても「なぜこんな人たちの存在を放ってきたのか」というむなしさが残りました。歴史は後戻りできません。同じようなことが2度と起きないように,私たちはしっかり教育していく必要があります。まずは,自分自身を…。

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