珠洲たの通信・2011年4月号

2011年度

 大震災から2ヶ月が経ち,「テレビニュースに釘付け」の状態では無くなってきました。それでもなかなか収束しない原発事故と今後のエネルギー政策の方向性が気になっている毎日です。日頃は買わない週刊誌なども時々買っています。でもでも,韓国歴史ドラマも見るようになってきました。私の生活も少しずつ日常にもどってきています。
 さて,学校では新学期が始まって早一ヶ月。なんとなく自分の授業のリズム(新しい時間割リズム)もつかめてきた頃ではないかと思います。今年の私の担当授業の半分くらいが体育なので,「2,3,4限で体育・理科・体育」という日がなんと3日もあって,スムーズにこのリズムに乗って授業をするのが難しいんです。こういうリズムの日は,前日に理科の授業の準備をしておかないといけないなと思っています。
 4月には,今年新しく中学校の先生になったY君が来ました。Sさんの教え子にあたります。若々しくて,さわやかな青年でした。また今後ともよろしく。

■例会の参加者(5名)
 S.N(N町U小)  M.S(S市T小)  M.O(N町U小)  K.H(S市M中)  初:T.Y(N町N中)

今月の写真

資料の紹介

1 「お気楽だより」 B5  4ぺ         M.S
 違和感…震災の影響で東日本フェスティバルの代わりに開かれた「非常事態に対応するための緊急講演・研究会」。フェスティバルに参加する予定だったSさんは,この会に参加してきました。その会の感想と配布された資料,そして「津波」という映画を見せてくれました。
 特に岩波たのしい科学映画「津波」はとてもよくできた作品で,津波の仕組みがよく分かりました。複製DVDが発売されているようなので,私も手に入れようと思います。
 二つ目の話題は,「ストロボアニメーション」(上の写真)です。このオモチャの紹介は『たのしい授業・2011年4月号』にも載っていました。これはすぐれものです。ストロボ点滅の速さを変えることで,コマに置いた紙に書かれた絵が(コマと一緒に回転している)動いて見えるようになります。『たのしい授業』の萠出さんの記事によると,このストロボそのものもいろいろな実験ができるようなので,広がりのあるオモチャです。なんと,私も仮説社から手に入れてこの日持ってきていました。
 三つ目の話題は,今の担当学年についての感想です。昨年と同じ学年なのですが,それがいいのか悪いのか…。
 昨年の3年生が10ヶ月要したことが,すでにできている(^^;),比べると去年の子に申し訳ないくらいにできている。
 でも,それは本当にいいことなのか…というと…
 …では,ものすごく私は楽にできるはず。と思いきや,反対。贅沢な話ですが,つまんない。とにかく静かでつまんない。反応がないってこういうんだ。
だって…。教師も親も常に「無いものねだりの贅沢」なのですよね。
 最後は,今の学力調査についての雑感。学力調査の結果ばかりを気にする風潮はすぐになくなりそうにないけど,そんなことよりも大切な「やる気」を育てる方法を見つけていきたいものです。人間「やる気」さえあれば,あとでどれだけでも挽回できるんですからね。

2 「ブログ的気楽レポ」 A5  4ぺ     M.O
 新年度を迎えて,またまた級外…。本校では3年連続の教務というヤツ。「先生,6年生になったら担任してよ」とは現5年生の男子の言葉。私も担任したいんだけど,どうも学校の組織を優先するとこうなるらしい。それである程度は仕方がないなと思う反面,でもそろそろ組織のことを考えるより,自分がやりたいことをやって退職を迎えたいなとも思う。ここ数年,そんな板挟みの中で仕事をしています。
 今年の担当学年・教科とそれぞれについての思いをまとめてみました。
「新しい試みは…ない」で書いたことは,今でもまだ引きずっている感じだけど,少しずつ「原発震災ショック」から立ち直ってきたことは,この通信のまえがきにも書いたとおりです。
 5,6年の理科用に,私的カリキュラム一覧を作ってみました。4月の最初に,教科書の全単元を見ながら仮説実験授業をはめこんでみました。こういうものを作っておくと,1年間の見通しがたって大変便利ですし,自分が今年,どんな授業を大切にしたいのかが分かっていいです。これこそ自分のカリキュラムづくりなのです。
 今,巷では「奥能登スタンダード」という,教科書の赤本を写したものを金科玉条のごとく奉る雰囲気が広がっています(表向きには「これをベースに…」と言っていますが…)。このスタンダードにどうして「奥能登」という文字がつくのか,まだ読んでいないのでよく分かりません。知っている方は,簡単に教えて!!

3 「徳川将軍のことを調べてみました」A5 5ぺ     M.S
 今年の大河ドラマは「江」。私は見ていませんが,ま,それにちなんで徳川将軍を知るための大人向けのミニプランを作って来てくれました。
【質問】徳川将軍15名の名前を何人くらい言えますか?
 ん~,家康,秀忠,家光,?,綱吉,吉宗,慶喜…くらいなかあ,家綱ってのもいたなあ。家重,家茂も思い出したぞ。とまあ,こんな感じでした。
 このあと,将軍在位年数の長短,長命・短命の将軍のことなどを予想してみました。 そして
【問題3】徳川将軍の中で生母が将軍の正室である将軍は何人いるのでしょうか?
という問題は,今までまったく考えてもみなかった内容なので,最初は全く予想が立ちませんでした。でも,今,私が嵌っている韓国歴史ドラマでは正室に子がいなかったりしていますので,正室の子って意外と少ないのかも…って思ったりしました。
 で,「江」がなかなか出て来ませんが,それを書くとおもしろくないので…。
 このプランに「各将軍の在位年数や生没年齢を入れたグラフ」をまとめとして入れるともっと見やすくなりますね。時間があるときに作ってみましょう。
 ところで,このプランを見て,私が教師になりたての頃に手に入れた「徳川将軍」のプランを思い出しました。そのプランは確かどこかの6年生が作ったのだったと思います(一度だけ6年生に授業したことがあります)。故松崎さんから手に入れたような気がします。が,その資料が見つかりません。どっかにあるんだけどなあ。

4 『伊丹万作「演技指導論草案」を読む・その2』 B5 4ぺ    M.O
 2月に引き続き,伊丹万作の「演技指導論総論」を教師的に読んで独断と偏見の解説をつけてみました。
 伊丹さんの短い文と私の教師論的解説を一つ紹介しましょう。
○十分なる理解と,十分なる信頼と,そして十分なる可撓性と。俳優の中にこれだけのものを発見した瞬間に演技指導の仕事は天国のように楽しくなり,演出者は自分が天才のように思えてくる。
 たのしい授業が実現すると子どもたちがとてもかわいくなります。子どもたちへの信頼が高まります。自分の準備した授業に応えてくれる子どもたちに感謝したくもなります。そして,授業という仕事は天国のように楽しくなり,教師は「おれもまんざらではない」と自分を好きになれるのです。
 子どもたちが喜ぶ授業を準備できた教師である自分に自信が持てて,仕事も楽しくなる。そんな教師生活を保障してくれるのが仮説実験授業です。だから,みんなに勧めたいのです。
 次回のサークルでは第3弾を持ってきます。ご期待下さい。

 そのほか,魚つりのオモチャ?(S),花独楽・水分子キャンデー(O)[いずれも上の写真],卒業式式辞(紹介:S)などがありました。
 魚つりは牛乳パックのビックリヘビのような感じで,ゴムの力を利用したオモチャです。口を開けて飛びつくタイミングを見計らって,その口の中に釣り糸を入れるのです。これがけっこう難しくて,いつ来るかいつ来るかとドキドキします。
 また,花独楽はすぐに倒れるコマですが,それがとてもキレイに回ります。「倒れてもなおきれい」というのがとても哲学的で好きです。転んでもただでは起きない。どちらに転んでもシメタ…などに使えますね。なんでもマイナスで考えるクセのある人たちに見せるといいです。
 水分子のキャンデーは,子ども分を用意することはできませんでしたが,「モルQ」などの賞品にすればいいのではないかと思います。

卒業式の式辞に…今村明恒(1870-1948)の紹介

 仮説実験授業研究会の会員でもある東京のA校長の卒業式の式辞は,さすがと思える内容でした。今回の大震災を受け,津波の研究をしてきた今村明恒(いまむらあきつね,1870-1948)を例に挙げて卒業生に語りかけるあたりは,研究会員が校長になったときのあるべき姿を見ることができてうれしかったです。式辞の半分も使って,今村の仮説が支持されるようになっていく過程を伝えていました。
 今村は「地震による津波は,海の陸への移動である」と言っています。みなさんの心の中に,今村明恒という地震学者の名前が残ってくれたらうれしく思います。
と締めくくられています。
 どんな状況になっても,それを「学習する機会」と捉えて,自分で調べたり,授業をしたり,子どもたちに話をしたりすることが,自分の生活の基本となりスタンダードとなるとき,その自分の生活も刺激的になるし豊かになるのだと思います。

大森の震災予防調査會での八面六臂の活躍を支えていたのは、今村明恒(あきつね)です。大森と今村は東京帝国大学理科大学の3年違いの先輩・後輩の関係で、今村が入学した年、大森は闘病生活中の関谷に代わり、大学院生のまま地震学助手を委嘱されます。後に大森は東京帝国大学地震学教室の教授、今村は助教授となりますが、今村は本来の身分は陸軍教授で、帝国大学の方は23年間無給の助教授でした。大森には『地震学講話』、今村には『地震学』の著作があり、明治・大正期の我が国の地震学の骨格を示すものとなっています。

「大森房吉と今村明恒(その1)」東京大学地震研究所より

1870年、鹿児島県鹿児島市に薩摩藩士・今村明清の三男として生まれた。鹿児島高等中学造士館予科を経て第一高等中学校(現・東京大学教養学部)を卒業後、1891年に帝国大学理科大学(現・東京大学理学部)物理学科に進学、大学院では地震学講座に入り、そのまま講座助教授となる。1896年からは陸軍教授を兼任し、参謀本部陸地測量部で数学を教えた。明治三陸地震発生を期に、1899年に津波は海底の地殻変動を原因とする説を提唱した。現在では広く受け入れられている説であるが、発表当時はほとんど受け入れられなかった。1905年4月10日、文部大臣から理学博士の学位を授与される。

Wikipediaより

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