見附島の絵(明治頃)
ブログ「能登のうみやまブシ=西山郷史」より
ブログ「能登のうみやまブシ」を運営していた西山郷史(にしやまさとし)さんは,珠洲市飯田町に住んでいた元高校教師で,真宗大谷派西勝寺の住職でもあった。惜しくも数年前(2022年10月12日,享年75歳)に亡くなってしまったのだが,息子さんの配慮で,未だに西山さんのブログを読むことはできる(2024/11/30現在)。
そのブログの記事に「変わっていく見附島の姿」に関する記事があった。わたしと同様の問題意識で調べたもので,わたしも,これを読んで「今のうちにまとめておきたいな」と思ったのである。
西山さんのブログ記事もいつまであるか分からないので,見附島に関する部分の一部をここに引用しておく。明らかな西暦の間違いは直しておいた。
二島が一つ島に。月見島~見附島(見付島)
二島図(2015.6.12のブログ記事に,2020.1.24,文章を追加したようだ)
相当前から、見附島近くの旧家に、左の島(どちらも見附島なのだそうだ)が大きき描かれている屏風があると聞いていた。
(引用者追加:2015年)6月1日、そのお宅へ寄る用事が出来たので、見せてもらい撮影してきた。
横67.5㎝、縦38㎝。
屏風ではなく、普通の絵だったが、
なるほど、この時代のものはまずないだろう。

「能州珠洲郡鵜飼村見付嶋之真景之圖
明治廿五年秋十月上旬
江南人豊写(印)(印)」
とある。
明治25年は1892年、123(2020年からは、128)年前だ。
120年余で、こんなに小さくなった。
そのうち、もう一つ島があって、二島と言った時代があった,
それさえ忘れさられるときが来るのだろう。
この画は、極めて貴重なものである。
明治中期の塩田光景
そして、当時の塩田が描かれている。
これは、もう、をつけよう、もう極めて貴重な絵だ。
確かに貴重な絵だ。わたしもこの家に訪ねてみたいものだが,今回の能登半島地震でこの絵の持ち主の家もどうなったのか。生前に聞いておきたかった。
宝立町鵜飼には「二島旅館」という宿泊施設もあったが,震災後,旅館は解体されてしまった。もしかしたら,この絵と関係あるのかも知れない。

鵜飼Eさん宅の「見付湾」の絵地図(明治35~40年頃)
2023年の秋のこと。宝立公民館の事務所で「宝立町の塩田の歴史」の話題を出していたところ,鵜飼本町に住むEさん(ガソリンスタンド経営)が「自宅に見附島とその周辺が描かれている絵がある」と教えてくれた。「是非見たい」とお願いしたところ,すぐに持ってきてくれた。それが大変貴重な絵だった!
絵地図の大きさは,165㎝×155㎝もある。

見附島…まさに二島(ふたしま)

これはまさに「二島」である。古老から「昔,小島にも木が生えていた」と聞いたことはあったが,ここまで大きな島ならそれも頷ける。しかも,見附島の周りの土地もしっかり絵が描かれているので陸地に見えなくもないが,浅い海底のようすを描いたものかも知れない。もしかしたら,以前の見附島は陸地に立っていたのかもと思わせる絵図である。
谷崎(たんざき)につながっていた

絵図の左側は現在「谷崎」と呼ばれる岬だと思われる。
海に注ぐ2本の川が見える。
右側は鵜飼川,左側が般若川だろう。今と同じようにちゃんと太い道路も通っている。鵜飼から春日野にかけての道路だ。
ただ,谷崎を超える道は,現在のような海側ではなく,やや内陸部を通っていたらしい。
地質的なことをいえば,この谷崎と見附島は同時代の珪藻泥岩でできており,太古の昔はつながっていたらしい。
さもありなん…と思わせる絵である。
塩田跡か,船小屋か

広い砂浜には,いくつにも区切った縦線が描かれている(黄色楕円の部分)。それぞれの長方形の内陸の方には小屋のようなものも建っている。この区切られた部分が,もしかしたら塩田だったのかも知れない。それがのちに船小屋となったのではないか。
珠洲市教育委員会・珠洲市郷土史教育研究会編『珠洲の歴史』(昭和39年)には,1777年(安永6年)頃の珠洲地区の御塩蔵の状況が載っていた。それを見ると,見付から春日野にかけての砂浜には,塩田用の御塩蔵が3ヶ所(4間×10間[7m×70m]が2ヶ所,4間×20間[7m×140m]が1ヶ所)あったようだ。
本絵地図からはその砂浜に33の小屋が建っているのが確認できる。
見付湾で漁をしていた
このあたりも想像の域を出ないのだが,この地図全体を見渡すと,見附島や小島以外にもいくつかの小さな岩石も見える。しかも島の周りは陸地(か,浅瀬)のようだ。もしかしたら,見附島と谷崎の間は小さな湾(仮に「見付湾」と呼ぼう)になっていたと思われる。見付湾に描かれている2本の網は地引き網のように見える。
実は,この絵地図にはまだ続きがあって,下の写真のように見附島の沖には数本の矢印が書かれた折りたたまれた(左写真)用紙があった。これはいったい何を意味するのだろうか。矢印の先に見える「四」「春」「米」「浜」という文字は,名字の頭文字だと思われるが…。
この絵地図といっしょに,分厚い「漁業関係の書類らしき冊子」(明治後期)も出てきたので,それらと関係があるのだと思うわれるが,わたしの知識ではここまでである。
その関係資料の中で,特に,この大きな見付海岸付近の絵地図と関連していると思われる資料には「定置漁業免許願」(明治37年)があった。これについては,別頁で紹介する。


付け足し:Googleマップで「いま」の見付村を見てみる




コメント
こんにちは。
いつも楽しく拝見させていただいております。
私は珠州出身者で、子供の頃からよく見附島にも遊びに行っておりました。
震災で傷ついた見附島を見た時はショックで言葉を失いました。
朱鷺がねぐらにもしていた松の木は枯れてしまいましたが、ところどころ生い茂る緑に、自然の逞しさを教えられました。
前置きが長くなりましたが、幼少期に見附公園のケージに孔雀がいた記憶があり、いろいろと調べましたが孔雀に関する資料や記録は見つけられませんでした。
つがいで2羽いたと記憶していますが、私の記憶違いでしょうか?
何かご存知でしたらご教授ください。
珠洲がふるさと 様
いつも本サイトの記事をご覧くださり,ありがとうございます。
少しでも地元の記事を発信したいなと思っています。
さて,見付公園にあったというクジャクのことですが,1961年生まれのガソリンスタンドのEさんにお聞きしたところ,「いたいた」と言ってらっしゃいました。ですから,珠洲がふるさとさんの記憶には間違いないと思います。
わたしは鵜島なので,よく覚えていません。
クジャクの小屋があった場所は,今の公園のトイレのあたりらしいです。
ご返信いただきありがとうございます。
自分でもあれこれ検索しながら調べましたが、どうしても孔雀がいた記録を見つけられられずにおり、もしかして私の記憶違いかな?とモヤモヤしていました。
膨らませた浮き輪を抱えてバスに乗り、釣具屋さんの前で降り、見附海岸の櫓まで泳ぎ、ヒトデを採ったり砂浜で貝殻を拾った記憶が蘇って来ます。
これからも、尾形さんの記録を楽しみにしております。
珠洲がふるさとさん
コメントありがとうございます。
珠洲で,どのような復興が実現するのか。
珠洲が抱える問題は,日本のあちこちで抱えている問題と同じです。
いわば,少子高齢化の最先端を行っているわけです。
珠洲での復興で,新しい田舎像を造ることができれば,都会に住む人たちにとっても,「また訪れたくなる場所」になるに違いありません。
諦めず,余り期待せずに,頑張りたいと思います。