紹介 尾形正宏
はじめに
2024年能登半島地震の被害の備忘録として,また学校教育の教材用写真として,本ページをまとめてみようと思います。
仮に,
東京からのお客さんと「のと里山空港」(午前10時前着)で合流し,珠洲市宝立町の拙宅から出発する
という2日間の模擬tourを考えてみました。
1日目は珠洲市内,2日目は輪島市~志賀町(能登半島外浦)をめぐります。
2日目 輪島市~志賀町
2日目は,珠洲市宝立町の拙宅を出発し,能登町を通って輪島市へ向かいます。輪島市で昼食を食べた後,志賀原発のある志賀町へと向かいます。
基本,今日もなるべく海岸線を走りますが,途中通行止めがあり一定区間は海岸線を進むことはできませんので,迂回しながらのtourとなります。
珠洲市宝立町(拙宅発)~珠洲道路~能越道~輪島市内(白米千枚田~名舟地区~輪島朝市~輪島市街地(昼食休憩)~輪島市内(門前総持寺~鹿磯漁港~深見漁港~黒島漁港~琴ヶ浜)~志賀町(巌門~志賀原発)~のと里山海道~珠洲道路~自宅(泊)
輪島市内
珠洲市から珠洲道路を通り,柳田天坂西交差点を右折し,輪島市名舟(日本海側)へと向かいます。途中,里(さと)という地名の在所からは,きれいな里山の景色を見ることができます。
1 名舟(なふね)地区
山道から海に出たところが輪島市名舟という地区です。
名舟は,石川県指定無形文化財「御陣乗(ごじんじょう)太鼓」発祥の地です。
御陣乗太鼓は、名舟町に古くから伝わる太鼓で、天正5年(1577年)上杉謙信の能登攻略のとき、古老の一計で、奇妙な面を付け、陣太鼓を打ち鳴らし上杉軍に奇襲をかけ敗走させたのが始まりといわれています。御陣乗太鼓の伝承は地元に生まれたものにしか資格がありません。(名舟大祭>イベント>(公式)ほっと石川旅ネット,より。下の太鼓の写真も同サイトより)
海沿いにあった鳥居も,ステージも崩れてしまいました。
2 白米千枚田(しらよねせんまいだ)
名舟を出て,輪島市中心街(西)の方へ進みます。途中,隆起した海岸に仮設道路が作られています(下写真)。
その仮設道路を過ぎ,登ったところに能登の里山里海を象徴する名勝地・白米千枚田見えてきます。なお,白米千枚田の駐車場は,千枚田を越えたところ(輪島側)にあります。
令和6年能登半島地震で,千枚田は地割れや地滑りが起き,多くの田んぼが水漏れして稲作りができなくなりました。それでも,地元のメンバーやボランティアなどが「少しでも稲を作りたい」ということで,今年も少しだけ稲を植えることができました。
「観光名所になった白米の千枚田は地辷り地形の代表的産物であり,観察に適している。」(藤則男監修編集代表『理解しやすく・親しめる 石川の地形・地質案内』〈東京法令出版,1985〉,72ぺ)
と専門書にあるように,今の千枚田の景観は「地辷り地帯」だったからこその景色なのです。今回も,その地辷りが起きただけなので,地震に怒りをぶつけるのは場違いというものでしょう。
3 輪島朝市通り
来た道をUターンして,輪島朝市通りへと向かいます。
マリンタウン奥の駐車場に車を止めて,朝市通りを歩きます。
解体工事中は「立ち入り禁止」の看板がありましたが,2024/09/19の新聞によると,所有者の分からない1件を残して全て公費解体が終わったようです。
珠洲市に住んでいるわたしは,輪島朝市へは何度も行ったことがあります。友だちと,家族と,親戚と,そして学校の遠足で…。よく知っている場所(そこは常にたくさんの声が響いてくる場所だった)が,無残にも焼け跡になってしまって,音も無くなってしまって本当に悲しいです。
最後の写真は,輪島に古くから伝わる「段駄羅」という言葉遊びの言葉です。
ダラリ帯 京都西陣 郷土に地震 心配だ
と書かれています。5/7/5の中7が,二つの言葉となっていて,それぞれ,上5,下5に意味がつながっています。つまり,
ダラリ帯 京都西陣(きょうとにしじん)
と
郷土に地震(きょうどにじしん) 心配だ
の二つの言葉が組み合わさっているのです。「きょうとにししん」が共通しているわけです。
この言葉遊びについては,本サイトの「輪島に伝わる言葉あそび(段駄羅)」をご覧ください。サイト編集子(つまりわたし)が作ったものも紹介してあります。
それにしても,焼け跡に残っていたこの看板。よりによって「郷土に地震 心配だ」とは…。
震災前の朝市(2003/05/08)
4 門前町:総持寺祖院
輪島の中心街から南の方に戻り,門前の方へ西に向かって進みます。
従来,国道249号線を通って門前へ行けるのですが,地震で何カ所か通行止めになっています。特に中屋トンネルは崩落していましたが,2024年9月22日から,マイクロバスくらいまでなら交互通行で通れるようになりました。
しかし,中屋トンネルは,9月21日の集中豪雨でまたまた大きな被害に遭い,依然,開通していません(2024/11/27現在)。
ここが門前町という地名なのは,この地区に大本山総持寺祖院という曹洞宗の寺院があるからです。奥能登では一番大きな寺院と言ってもいいでしょう。
大本山總持寺祖院、正しくは諸嶽山總持寺と言い今から約7百年前元亨元年(1321年) 瑩山紹瑾禅師によって開創されました。/翌元亨2年夏禅師に帰依された後醍醐天皇は綸旨を下され、總持寺を勅願所として「曹洞賜紫出世第一の道場」と定められました。/その後寺運益々隆盛を極め全国にその末寺1万6千余を数えるに至りましたが、明治31年4月13日不幸にして災禍により七堂伽藍の大部分を焼失しました。/これを機に布教伝道の中心を神奈川県横浜市鶴見に移しました。 (総持寺祖院HPより)
総持寺は,2007年3月25日の能登半島地震(震度6強)でも大きな被害を受け,2020年4月6日にやっと震災復興落慶法要を行ったところでした。それが今回,再び大きな被害を受けることとなりました。
ここに紹介した写真は,秋も深まった12月上旬に訪れたときのものです。上の写真は,山門をくぐって山門を背にして,180度見渡したパノラマ写真です。七堂伽藍は,被害を受けたとはいえ,ちゃんと建っていました。
しかし左側の回廊はちゃんと建っていましたが,右の回廊は地震当日に倒壊したそうです(けが人も出たとか言っていました)。正面右に見えるのが大祖堂(法堂)です。
地震による被害が大きいので,今は拝観料を取っていません。ただ,香積台(こうしゃくだい,右側の建物)へ行くとお寺の解説パンフレットをいただけます。御朱印もいただけました。
わたしは,受付してくださったお坊さんと少しだけ地震当日や総持寺の創建のお話をお聞きしました。
七堂伽藍が無事なのは,以前の地震の際に耐震工事をしたからだそうです。やはり,耐震は大事ですね。
輪島市門前町(外浦海岸線)
1 鹿磯(かいそ)漁港
総持寺祖院を後にして国道249号線に沿って海岸へと向かいます。「鹿磯漁港」の看板に従って右折しましょう。ここからは県道265号線となります。集落を抜け,さらに長谷の潤トンネルをくぐってしばらくすると,左側に鹿磯漁港が見えてきます。
この鹿磯漁港の海底が今回の地震で一番隆起した(約4m)といわれており,マスコミにもよく取り上げられていた場所です。
わたしたちが訪れたときには,漁港(パノラマ写真の右手の建物)の屋根の下に漁師のお父さんがふたり座っておられました。
「能登の理科教員ですが,漁港の下に降りて写真などを撮ったりしてもいいですか」
と許可をもらい,ハシゴなどを使って海底だった場所まで降りてみました。
地上から見てもこの隆起は迫力がありましたが,元海底から見る迫力は一段と凄いものがありました。見学者用なのかどうか分かりませんが,ちゃんと海底に降りるハシゴまで着いていました。乗り降りするのにけっこう怖いです。
仮設に住んでいるという漁師さんたちは,わたしたちが帰る前に「そろそろ帰らんと家族に心配されるから帰るわ」と言って,仮設住宅に帰って行きました。
地球規模の地殻変動を見せられて,ただただ圧倒されるわたしたちでした。
2 黒島漁港(黒島町)
さきほど来た道を戻り,そのまま国道249号線を南へと進みます。約2㎞ほどで,次の目的地・黒島地区に着きます。
この間,海岸線に目をやると,異様に広い砂浜が見えてきます。
「黒島」のバス停を少し過ぎたあたりの「道路と歩道の間」に,数台分の駐車場があります。
黒島漁港のある黒島地区はもと天領であり,現在は重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。黒瓦がきれいなこの住居群も,その多くは今回の地震で倒壊してしまいました。今後,これらの復旧をどのようにしていくのかが、大きな課題となっています。
一方,海の方に目をやると…
鹿磯漁港ほどではありませんが,ここの海底も3m近く隆起していると思われます。写真の女性の身長は160㎝くらいです。コンクリートの白い部分が海水に浸かっていた場所です。乾いた貝殻などがたくさんくっついていました。
船小屋から海まではとても遠くなってしまい,港から船を出すことは不可能になりました。
この場所でも,元海底に立ってみることができます。地球の力を感じられる場所です。
3 赤神
さらに国道249号に沿って南に向けて車を走らせます。
「道の駅・赤神」を通り過ぎ,赤神トンネルを抜けると,右手の海岸に,とても赤い岩石が目立ち始めます。この姿には,地質に興味がない人でも「なんでこんなに赤いの?」と気になると思います。
岩石が赤いといえば鉄分です。『理解しやすく・親しめる 石川の地形・地質案内』には、次のような説明が載っています。
「トンネル付近の岩石が赤褐色なのは,火山活動に伴なう水蒸気の噴出により,岩体中の鉄分が酸化したためである」(上掲書,94ぺ)
その岩石(玄武岩質集塊岩※)が40㎝ほど隆起して海面の下だった場所が白くなり,紅白のコントラストで「土地の隆起」をイメージづけてくれています。
※玄武岩質集塊岩は、玄武岩質マグマから噴出した火山弾を含む火山角礫岩の一種です。火山弾は、高温のマグマが破砕して空中を飛行して着陸したもので、周辺に急冷層を持ち、内部が多孔質になっています。(GoogleAIの解説より)
4 琴ヶ浜
国道249号を5分(約3㎞)ほど南下すると,右手に広い砂浜が見えてきます(途中,権現岩(通称:トトロ岩という奇岩もあります。下左写真)。「琴ヶ浜海水浴場」「琴ヶ浜泣き砂パーク」という看板が出てくるので,海岸の方へ右折します。ここには駐車場が完備されていますので,そこに車を止め,砂浜まで降りてみましょう。立ち入り禁止の看板もあるけど,自己責任で。
でも,まずは案内板を読んでくださいね。「鳴き砂」のことが詳しく書かれています。
鳴き砂については,『日曜の地学6』に以下のような説明が載っていました。
「この浜の砂をけるようにして踏みしめると,クックッとかすかな音を発し,鳴り砂の一種といわれています。音を発するのは,砂粒の種類や粒径と乾燥の度合いなどに関係があるようです。絈野義夫編著『日曜の地学6北陸の地質をめぐって』(築地書館,126ぺ)
上記のようにやってみても,なかなかうまく音は聞こえませんが,この砂を少し持って帰って水洗いし,理科室にある乳鉢に入れて,乳棒で上から押すと,キュッと大きな音がします。
また,浜の奥には輝石安山岩の見事な柱状節理も見ることができました。しかし,能登半島地震でこの安山岩の地層が大きく崩れていました。
そのため,砂がよく泣くという砂浜まで行くことはできなくなっていました。
実は,2024年の地震前までは,この琴ヶ浜でとても興味深い露頭を見ることができました。石灰質砂岩層に輝石安山岩が貫入している地形です。右の写真は,2007年能登半島地震(M6.9)後の2007年10月28日に撮影したものです。2007年の地震でも海岸は少し隆起し浜の入口近くの砂岩層も少し崩れましたが,安山岩が崩れることはありませんでした(→「2007年能登半島地震の記憶」)。
しかし,2024年の地震では安山岩が崩壊してその岩石たちが海岸まで達しており,この貫入部分がどうなっているのか,確かめることはできませんでした。
ドローン映像で見る「震災前の景色」(輪島市提供動画)
赤神から琴ヶ浜にかけてのドローン映像が公開されています(輪島市提供動画)。
この映像を見ると,2024年能登半島地震前の,輪島市門前町海岸線の岩石の様子がよく分かります。
地震前後の変化を比べてみてください。
志賀町
国道249号を進むとしばらく海岸から離れ,すぐに志賀町に入ります。そのまま国道を10㎞ほど進むとまた海岸線に出てきます。
世界一長いベンチや機具(はたご)岩などの看板も気になりますが,スルーして次の見学場所へと進みます。
牛下という交差点を右折して県道36号(志賀富来線)に入ります。こちらの県道が海岸線になります。国道に沿っていくと,内陸の方へ行ってしまうのでご注意を。
5 能登金剛(巌門洞窟)
巌門の周辺には無料駐車場がいくつかありますが,巌門洞窟そのものを見るだけなら,南側か中央の駐車場をご利用ください。中央入口から巌門洞窟までは230mくらいです。
巌門(がんもん)は,能登半島の外浦の観光地の一つです。わたしも子どもの頃や学生時代,大人になってからと,数回は行ったことがあります。
このあたりの海岸線は,
「凹凸に富んだ安山岩質集結岩や安山岩が,急な崖になって海にのぞでいます。そして,これらの岩石は日本海のはげしい波浪の浸食を受け,海食洞や海食台をつくり,海岸の景観をひきたてています。」(『日曜の地学6』124ぺ)。
巌門洞窟というのは,波の浸食でできた海食洞のことです。
今回の地震の被害は感じられませんでした。このあたりはあまり隆起しなかったのでしょう。岩石の崩落もなかったのでしょうかね。
6 志賀原子力発電所
奇岩の旅は終わりにして,志賀原子力発電所へと向かいます。三叉路が見えてきたら県道36号線(志賀)の方へ右折します。直進も県道36号線(金沢・羽咋)ですのでご注意を。
もちろん,志賀原子力発電所内に入ることはできません。ただ,能登半島のこんな場所に原発が建っているという確認のための見学です。
志賀原子力発電所には2機の原子炉がありますが,いずれも2011年以降,現在(2024年末)も停止中です。
2024年能登半島地震では,能登半島の外浦地区の海岸が大きく隆起しました(このtourでも訪れました)。また,能登地区全体で主要道路が寸断され,多くの家屋が倒壊し,避難所も十分確保できませんでした。このような状態では原子力災害対策指針※に示された原子力防災訓練の内容(「屋内退避」や「屋外避難」)は全く実行できません。日本の原発事故に対する避難計画は,まったくの「絵に描いた餅」でしかないことが明らかになりました。
地震当時,志賀原子力発電所は停止中でしたが,地震による被害もいくつかありました。
※原子力災害対策指針 東電福島第1原発事故後、重大な原発事故が起きた場合に備え、原子力規制委員会が策定した。重大な事故時は原発の5キロ圏内は避難し、5〜30キロ圏内は屋内退避することなど、住民避難や被ばく防護措置が定められている。(『東京新聞』(2024/1/17)より)
7 赤住(あかすみ)団結小屋
志賀原発(当初は「能登原発」と呼んでいた)反対運動の拠点として建てられた赤住漁港の近くにある「赤住団結小屋」は,志賀原発のすぐ傍に建っています。場所がわかりにくいので,下にGoogleマップをつけておきました。県道36号から入ったところにあります。特に駐車場というものはないので,適当に近くに止めてください。
志賀原発がどんな経緯で建設されたのか。どんな反対運動があったのか…。詳しく知りたい方は,その方面のサイトをごらんください。ここでは,それを語るスペースはありません。
上の写真は,反原発集会や平和行進に参加したときに撮影したものです。
最後の見学場所をあとにして自宅へと向かいます。帰り道は,のと里山海道を通って帰ります。
現在(2024年12月)全線開通しているとは言え,徳田大津からのと空港インターまでは,大きなカーブが20ヶ所くらいあります。
夕食は,宝立町でも,お隣の能登町松波でも食べられます。わたしたちは,松波の食堂で疲れを癒やしました。
能登(志賀)原発関連図書・サイト
川辺茂著『魚は人の手では作れない』(樹心社,1984年,212ぺ)
著者の川辺茂氏の略歴を本書の奥付から見てみましょう(1984年現在)。
1924年, 石川県に生まれる。 1940年, 石川県富来町小学校高等科を卒業。 船員, 軍隊生活を経て、1946年より生地富来町にて漁業に従事する。 1977年3月, 西海漁業協同組合の組合長理事に就任。1983年2月,同組合長退任。
その間, 富来町議二期, 石川海区漁業調整委員(現在も継続), 石川県漁業協同組合連合会理事, 石川県信用漁業協同組合連合会理事などを歴任。
1980年10月に 「能登原発を考える会」を創立、会長として現在に至る。
川辺氏は西海漁協の組合長として,最後まで能登(志賀)原発(1967年建設計画発表)に反対してきましたが,大きな政治的圧力の下,志半ばで組合長を辞めざるを得なくなりました。
そして,数年後,能登(志賀)原発は建設へと向かうのです(1号機の着工は,1988年)。
『よつばつうしん・2024年7月号(159号)』の記事
もうひとつは志賀町富来にある西海漁業協同組合の組合長だった川辺茂さんの生き方である。川辺さんは『魚は人間の手では作れない』(樹心社、1984)という著作のなかで、原発で苦しむ漁民の立場から原発問題や沿岸漁業の課題などを勉強し、漁協を通した協同運動の重要性と過疎地域の生き方を問いかけられた。その実践の現れとして「魚の産直」による漁業現場と都市消費者の関係性を深める提案をされていた。
単なる反対の反対ではない,川辺さんの漁業者としての取り組みについて高く評価されている文章です。
能登原発差し止め訴訟原告団編『原告団ニュース縮刷版№1~№54』(私家版,2000年)
能登原発差し止め訴訟原告団が編集発行してきた『能登原発とめよう原告団ニュース』の縮刷版です。
第1号が1989年1月20日発行,第54号が2000年3月1日発行となっています。
「原告団ニュース」を編集してきた多名賀哲也さんは『縮刷版』の「編集部から」(本書8ぺ)で,以下のように本著書の編集意図を述べています。
※なお,引用者の方で漢数字を算用数字に直してあります。
裁判日程と諸行動に急かされながら11年ーこの『ニュース』だけは途切らせてはならないと、毎度お馴染みの切り貼り作業を重ねている内に、54号を数えた。紙面が手書きからワープロ主体に変わったのも時の流れだろう。「幾山河越え去り行かば原発の果てなむ国ぞ今日も旅ゆく」の感がしないでもない。
発行部数は6200。 配付先は県内4800、 富山800、全国600。うち郵送が2000、職場や地域配付が4200である。当初はB4両面・隔月だったが19号以後はB4四面・年4回発行になった。速報性には欠けるが、少々硬くても能登原発の情報とデータを確実に県内・富山・全国の会員に届けるーという編集方針でやってきたつもりだ。
財政は決算報告を毎年必ず掲載しているので参照されたい。弁護団の殆どが金沢弁護士会所属という恵まれた条件にあるが、それでも書証作成などの実費をカバーするのが精一杯の実情だ。その中で頑張って頂いている弁護団とサポーターの山本氏に改めて感謝申し上げたい。
縮刷版の目次は、時系列(訴訟の歩み)と問題別(運動の現況)に分け、それぞれ掲載ページを付記した。『とめよう能登原発』(石川県評センター、90年秋刊)と合わせ見てもらえば、能登原発の危険性と反対運動30余年の核心を掴んで頂けると思う。
なお、欠番の23号は、試運転時の集会などにビラ配付したもので、散逸し残っていない。また88年12月1日提訴の模様を伝えるため、当時の新聞記事を掲載した。上記の記事は、JCO臨界事故との関係で久米三四郎先生の指摘もあり、「原発の運転とは臨界状態の持続」ということを改めて強調し、資料として保存しておくため特に掲載した。(多名賀)
多名賀哲也さんは,2024年9月,ご逝去されました。2024年9月16日,羽咋市で行われたお葬式には,家族葬にもかかわらずわたしも参列させてもらいました。謹んでご冥福をお祈りします。
志賀原発を廃炉に!訴訟 原告団ホームページ
設立趣旨の最後の言葉より
無念にも福島第一原発事故を経験してしまった私たちは、二度と同じ過ちを繰り返してはなりません。すべての子どもたちに、そしてこれから生まれてくる子どもたちに希望と未来を保障するため、すべての原発を今こそ廃炉にしましょう! 全国で唯一原発訴訟で勝訴した石川で、志賀原発を廃炉にしましょう! 富山の仲間たち、全国の仲間たちとともに。 2012年6月25日 志賀原発を廃炉に!訴訟原告団一同
終わりに
もともと,このページをまとめようと思ったのは,8月末の研究会メンバーとの交流があったからです。
東京在住の仮説実験授業研究会会員の中一夫さんが,「能登半島地震の被害や復旧・復興の様子を見たい」「珠洲原発予定地だった場所も行ってみたい」ということで,8月末,能登にいらっしゃることになりました。
珠洲たのサークルは,これまでも,中さんにたいへんお世話になってきました。いろんな講座の講師として,能登に来て頂いたし,和倉温泉「のと楽」で開催した仮説実験授業研究会夏の全国合宿研究会能登大会(2010年夏)の際にも,本当に助けてもらいました。
さらに今回の震災後にも,〈地元に住む我々が,震災以来,何を考えどのような生活を送っていたのかということ〉を全国に向けて話す機会を何度か作ってくださったり,研究会員に向けて義援金を募ってくださったりと,現地にいる我々にとって,とても力強い支援を頂いてきました。
そこで,「能登に来て自分の目で見てみたい」という中さんの希望を叶えるべく,能登現地巡りツアー計画を立てることにしました。珠洲市内では,まだ一般客の宿泊をやっている宿はほとんどないので,わたしの自宅に泊まって頂くことにしました。
8月24日(土)~25日(日)の両日,中さんと一緒に回りたいという地元のメンバー4名とともに,5人でツアーを行いました。
本ページでは,そのときのルートを参考にして2024年能登半島地震の被害の様子を,地学的な視点も入れながら,見てみたわけです。
まとめるきっかけを作ってくださった中一夫さんには,とても感謝しています。
本ページは「輪島市・志賀町編」です。「珠洲市内編」もありますので,ご覧ください。
コメント
尾形さん、この資料すごいです。よくまとめられましたね。「語り場」でも紹介させてもらえますか?
中さん,ありがとうございます。
勝手に本名まで使って書いちゃいました。著書も書いていらっしゃるので匿名の必要はないだろうと…(^^;) 済みませんでした。
「語り場」でもどこでも使ってやってください。
この「模擬ツアー」を読んで,「わたしも能登に行ってみたい」という人が増えることを期待して書いていますので。