編集 尾形正宏
2024年1月1日の能登半島地震により,能登半島の観光名所でもあった見附島(通称:軍艦島)が大きく崩れ落ちてしまった。エントロピーの法則が自然の摂理とはいえ,小さい頃からその姿を見て育った者として,とても残念だ。
今回の地震をきっかけに「形あるものは崩れゆく」ことを再認識したわたしは,往事の見附島の姿を残しておこうと思い,身近なところから「見附島の写真」を集めてみた。
折しも,近所宅の土蔵から大変貴重な「写真アルバム」も見つかり,その中には「見附島の姿」を記録した写真もあった。
また,さらに…これは震災前になるが…極めて貴重な絵地図も見つかったので,それについても最後に紹介したい。
見附島の写真
『寶立村写寫真眞帖』(1925[大正14]年12月刊)より
宝立公民館が発行した『宝立の今昔写真集』(1993年3月刊)という写真集の約6分の5は,宝立村役場新築落成記念として1925(大正14)年に出版された『寶立村写寫真眞帖』の再録であり,宝立町の歴史を知る上で,とても貴重な資料となっている。
この寫眞帖には,大正時代末期の見附島(写真3枚)が掲載されている。
残念ながら「寫眞帖」には,誰が,いつ撮影した写真なのか書かれていない。ただ,本書が大正14年発行なので,それ以前の撮影であることは確かだ。
巻頭の「寫眞説明」には「見附島」についての解説がある。読みやすいように,文字や仮名遣いは今風に,また句読点も追加した。(本書p.7~p.8)
六.見附島
鵜飼の東南二町の海面にあり。大小二島あり。大は周囲およそ五町(550m),高さ二十五間(45m)なり。加志波良比古(カシハラヒコ)神降臨の時,海上より目標とせられたるが故に見附と称せりと。島上,モチノキ多く,内浦のカラスの畤(まつるべ,まつりのにわ)にしても,鵜また多く棲めり。
島上に小祠を安じ,見附神社という。無格社にして市杵島姫命(イチキシマヒメ)を祭る。はじめ見附弁財天社と称せしが明治四年三月の,今の社号に改む。四月十八日を祭日とし,村民,小舟を艤(ぎ)し,島の周囲に置き酒・歌舞を恣(ほしいまま)にして一日の慰安をなす。
畤(ジ・まつりのにわ)…神霊のとどまる所。天地の神や五帝をまつる祭場。(漢字ペディア)
艤(ぎ)する…船出の用意をする。(goo辞書)
近兄の土蔵から見つかった「写真アルバム」より(1928[昭和3]年~)
近兄(ちょっと先輩の近所に兄ちゃん)の住家も土蔵も「全壊判定」で公費解体することが決まっている。
そこで,近兄の兄妹夫婦と一緒に数回にわたり土蔵の片付けをしていたところ,戦前・戦中の教科書や戦争に関する資料といっしょに,家族や友人,風景を撮った写真が貼られたアルバムも見つかった。そこには,昭和前期の見附島の姿もあった。(戦争に関する資料については,項を改めて紹介したい)
【1928(昭和3)年】見付海岸から撮った写真。「小島」と呼んでいた左側の島も,昭和生まれのわたしが見てきた物より大きい。今(2024年現在)ではこの小島はない。
【1928(昭和3)年】「大波の? 鵜島より見付島」というメモがある。写真機にはZoomの機能などなかった時代なので,鵜島といっても,見附島寄りの浜から撮影したものだろう。
【1928(昭和3)年】「鵜島中ノ谷内ヨリ鵜島湾ヲ眺ム」というメモがある。鵜島の高台から撮影した写真らしい。
この「中ノ谷内」という地名がどのあたりのことを指しているのか,わたしは知らない。海岸段丘になっている高台には、今でも畑があるので,そのあたりのことかも知れない。
【1929(昭和4)年】 「工兵第九大隊ノ爆破」とのメモがある。見付海岸を舞台に,爆破訓練でもやったのだろうか。なんのためにやっているのだろう。一般人の姿も見えるので,戦争へのデモンストレーションなのだろう。上に写真には水しぶきが高く上がっている。別のページに見つけた下の写真も,おそらく同じ時のものだろう。人の数や水しぶきの様子が少し違う。爆発のデモンストレーションを何度かやったのだろう。
波打ち際にも沖合にも舟が見える。
【おそらく昭和戦前】
アルバムから外れてしまっていたので,いつ頃の写真なのかはっきりしない。この写真が挟まれていたアルバムには戦時中の写真がたくさんあったので,その頃の写真だと思われる。
見附島の姿(小島の場所)から判断すると,春日野の浜から撮影したと思われる。
縮刷版『広報すず』・その1
3町6ヶ村(飯田・宝立・正院町,上戸・直・若山・蛸島・三崎・西海村)が合併し,珠洲市として発足したのは1954(昭和29)年7月のことである。この合併と同時に「広報すず」の発行も開始された。
その「広報すず」の縮刷版から,見附島が写っている写真を一部紹介する。
[市制施行後20年間の主なできごと]
・1962(昭和37)年8月 県内初の国民宿舎能登路荘オープン
・1964(昭和39)年9月 国鉄能登線全線開通
・1966(昭和41)年10月 能登半島ラケット道路完成
・1968(昭和43)年5月 能登半島国定公園指定
「広報珠洲」号外 1956年7月発行
番外編:自宅にあった白黒写真 1962年8月(編集子・2歳9ヶ月)
「広報すず」№119 1964年7月号
「広報すず」№131 1965年7月号
「広報すず」№155 1967年7月号
「広報すず」№184 1969年12月号
これは珍しい「朝丘雪路と見附島」の写真。
朝丘雪路[1935年-2018年]さんは,おそらくこのことがきっかけで何度も珠洲市に足を運んでくださっていたようだ。鉢ヶ崎の村長になったことも。
観光用写真パネル(昭和40年代)
能登半島地震のあと,倉庫の片付けをしていた能登町の本屋(文房具屋)さんの倉庫に眠っていた写真パネル。
大きさは約74㎝×51㎝。
お店のTさんによると,昭和40年代(1965年~75年)の奥能登観光ブームの際に,食堂や民宿などの掲示用に販売していたものらしい。他にも「禄剛崎灯台」のパネルも頂いた。
それにしてもきれいな姿だなあ。
縮刷版『広報すず』・その2
「広報すず」№216 1972年8月号
「広報すず」№246 1975年2月号
下の写真も「1975年2月号」の記事。この写真のタイトルには「大きく変わる鵜飼漁港 広大な埋立で再開発を」という文字が躍っている。「規模2万8000平米」「造成費1億8600万円」という小見出しも。
「不振にあえぐ沿岸漁業者にとり一つの大きな動機づけとして,中でも宝立漁民の願いをこめ,満二年の歳月をかけ,鵜飼漁港は大きくその姿を変えようとしています。」
番外編…「広報すず・№258」(1976年2月号)
観光地・見附島を抱える「宝立町見付地区」を紹介する「広報すず」の文章である。「部落見て歩記」は,当時の「広報すず」で不定期に連載されていた。
自宅のスナップ写真より
ここでは,主に自宅のハードディスクやスマホの中にあった「見附島が映り込んでいる写真」を紹介する。
見附島の近所(家から2㎞)に住んでいることもあり,毎年のように見付海岸で写真を撮っていたんだなと,我ながら感心してしまう。それほど,宝立町民にとっては,身近で,大切な景色なのである。
能登半島沖地震(1993年2月7日) M6.6 最大震度5
1993年の能登半島沖地震により見附島から落下した椿を,地元町おこしグループ「プライム128」が見付公園内に移植し,「千年椿」と名付けた。右の写真は,その椿と立て看板。
2007年能登半島地震(2007年3月25日) M6.9 最大震度6強(珠洲は5強)
2022年4月時点で,すでに小島の姿は見当たらない。
能登(珠洲)群発地震(2022年6月19日) M5.4 最大震度6弱
能登(珠洲)群発地震(2023年5月5日) M6.5 最大震度6強
2024年能登半島地震発生(2024年1月1日) M7.6 最大震度7
波浪による浸食,大風による木々の落下,そして地震による岩体の大崩落。
見附島は,ここに人間が住むようになってからも,自然によるさまざまな圧力で,その形を変えてきたであろう。ここ数十年,わたしたちは,たまたま,その急激な変化のただ中にいるだけだ。
見附島の岩石は珪藻土(珪藻泥岩)でできている。珠洲市の珪藻土埋蔵量はアジアでもトップだと言われているくらい多い。その珪藻土を活かした産業も,市内にはある。
今回,この見附島以外にも,その珪藻土の露頭が大きく崩落した場所がある。
地殻変動という地球の力の前には,なすすべもないが,これからも,この新しい見附島を大切にしていきたい。
好奇心を同じくブログ…清流と遊ぶin能登「見附島(別名を軍艦島): 古里爺が語る」
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