宝立町の文化財

わが町,宝立

吼木山法住寺

法住寺仁王門

創建
 正式には,吼木山(ほえぎざん)法住寺といいます。弘法大師・空海を開基*1とする真言宗高野山派の寺であり,開基年代は,大同元年に留錫(りゅうしゃく)*2,弘仁初年(810年)開創といわれています。
由来
 弘法大師・空海が唐(今の中国)へ留学生として,恵果阿闍梨(けいかあじゃり)のもとで,密教の修業をし,あまたの弟子の中から3国伝来の伝承者として認められ,金胎両部(こんたいりょうぶ)の潅頂(かんじょう)をうけ,密教伝来の三杵(さんしょ)を授けられました。
 入唐の目的を果たした空海が日本に帰ろうとして,海岸に着いたとき,空海を嫉(そね)む唐の僧たちが追いかけてきて,その三杵を奪い返そうとしました。そのとき,空海は東方を望んで「日域の地,密教有縁のところに湯来て,我を待つべし」と言って三杵を投げたところ,それぞれに,五鈷杵は法住寺の桜の樹に,三鈷杵は高野山の松の樹に,独鈷杵は佐渡の小比叡山の柳の樹にかかりました。
 当山の桜にかかった五鈷杵は光かがやき,日夜朗々と法華経を唱えていたので,当地の村人たちが大変不思議がっておりましたところ,空海が五鈷杵を求めて諸国を遍歴し,佐渡から船で能登に来るときに,今の見附島を目標にされて着岸され,そこで村人たちから不思議な桜の話を聞き,山中に分け入り当山に到ってここに一宇*3を創建されました。これが法住寺のいわれです。吼木山と号するのも,このことからきています。
金剛力士像
 山門の金剛力士像は,1996年の解体修理の際,体内の墨書銘から,1453(享徳2)年に院勝と院超によって造像されたことが認められました。院勝と院超はともに京仏師と思われますが,おそらく造像後運んで来たものではなく,当地において制作されたと推察されてます。
 室町期の院派仏師については余りよくわかっていないそうですが,その作風は裳の造形や衣紋の表現などにあらわれています。院派仏師の作風は慶派仏師のそれに対し,『穏やか』『保守的』等といわれます。しかし,法住寺の仁王像はこれに加えて力強さも併せ持っており,その時代の仁王像としては,よくまとまっているといえます。

[注] 
*1 開基(かいき) [その事業を始めること(始めた人)の意]その寺を新しく作ること(作った人)。[新明解国語辞典第3版]
*2 留錫(りゅうしゃく) 「行脚(あんぎゃ)の僧が行くさきざきの寺にとまる」意の古語的表現。[新明解国語辞典第3版]
*3 一宇(いちう) (「宇」は家の意)一棟の家。[広辞苑第2版]

白山神社

白山(はくさん)神社
 社伝によれば,法住寺の鎮守として9世紀前半の承和年中に創建されたと言われています。
 現存の本殿は建物の形式,技法等から見て,室町末期を降らないものとみられています。神輿車庫の厨子台座に「永正7年」(1510年)と墨で書かれているが,これに近い頃と思われます。
 中世の珠洲郡の大部分は,九条家領の荘園・若山庄(わかやまのしょう)であり,若山庄の実質的な支配権は,領家である日野家の手中にありました。その日野家の祈祷所となっていたのが,法住寺とその鎮守の白山神社です。白山神社の存在は,弘安7年(1284年)の地頭の寄進状などにより,すでに鎌倉後期と確認できます。

木造獅子頭
 額の高さ22㎝,鼻の高さ19㎝で,その差はなく,幅の広い歯が上下10本ずつあります。現状は,両耳をはじめ,全ての毛髪がなくなっており,虫食いもひどい。
上あごの内側の下の方に,朱漆で,銘文が書かれている。
 法住寺*****
 為*******
 願主西願作鬼太夫
 色執秀珎
 応安五年壬子歳五月 日

応安五年とは,西暦1372年にあたります。

王舞面(おうぶめん)とは王の舞に使われる鼻高面のことであり,その面をかむり鉾を持って男子が一人で舞うのが王の舞といわれるものです。ほとんどの場合,獅子舞や田楽とともに演じられ,平安時代末期から鎌倉時代にかけて社寺の祭礼で行われました。
この面は,最近まで,祭礼の先導を勤める天狗面として使われていました。王舞面かどうか確実なことはわかりませんが,面を所有するのが上記の白山神社であり,そこで様々な法会・儀式・祭礼が行われたことは確実で,王舞面として使われた可能性も否定できません。それが,法住寺が衰退する過程で,いつしか天狗面として使われるようになったのではないかという憶測も出来ます。

八幡神社の石塔

 この石塔は宝立町南黒丸の八幡(はちまん)神社の境内にある。現在は三重塔になっているが,初層と2・3層の様式が異なるので,元は2基以上あった石塔を組み合わせて1基にしたことがわかる。また,本来,最上部にあるはずの相輪(そうりん)も失われ,代わりに5輪塔の空風輪と思われる石材が乗せてあり,3層の軸部も失われ2層と3層の屋根が重なっている。
高さは3層上端まで188.7㎝あり,幅122㎝の切石で組んだ基壇*1の上に高さ11㎝,幅90.1㎝の基礎をすえ,基礎には反花(かえりばな)が刻まれている。
 なお,初層軸部に「永和二年 六月吉日」の銘が刻まれている。「永和二年」は南北朝時代(1336~1392)*2の北朝の年号で,西暦1376年である。

[注]
*1 基壇(きだん) その上に建物を建てるために築いた壇。土を盛り、周囲を石積などで固めたもの。
*2 南北朝時代  わが国で、中世、朝廷の皇統が南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)とに分裂し対立した時代。[国語大辞典(新装版)小学館 1988]

絹本着色仏涅槃図

 安豊山金峰寺に保管されている。額装で,縦113.8㎝,横117.3㎝。
 釈迦は,80歳の春,インド・クシナガラ城外バツダイ河のほとりを説教遊化中病に倒れ,2月15日夜半,涅槃(ねはん)に入った。本来,涅槃は煩悩(ぼんのう)の火を噴き消すことを意味し,悟りを開いた35歳の成道(じょうどう)をもって涅槃と見なすべきであるが,肉体維持の問題を残しており,入滅をもって涅槃とする。この時釈尊は,沙羅双樹のもとで,頭北面西,右脇を下に,右手を手枕にして身を横たえた。諸王・大臣・梵釈・諸天・鳥獣・天竜・鬼畜などが多く見守り,一切有情の悲しみの中に涅槃に入る。その時の様子を描いたのが涅槃図で,天蓋のように覆っている沙羅双樹が白く描かれるのは,世尊の死を悼んで半ば枯葉したとの伝説による。双樹の間の波はバツダイ河の水をあらわし,満月は15日の夜であることをあらわす。
 本品は,仏像・人物の角張った容貌,バツダイ河や沙羅双樹などを強い筆致と濃い色彩で描いている点などに,宗・元の画風を総合した室町初期仏画の特色を示している。京都東福寺に所属した,著名な画家,明兆(みんちょう)の作であるとの伝承がある。もとは軸物であったが,現在は額装になっている。奥能登を代表する涅槃図である。

以上,『珠洲市の文化財』(珠洲市教育委員会)より転載【写真も】

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