伊丹万作「演技指導論草案」を読む

研究は読書から

尾形正宏

その1(2011/02/18記) 

わたしは,2011年1月20日のブログで以下のように本書のことを紹介しました。

雑誌『教育』(国土社)を読んでいたら,二ヶ月連続で「山田洋次さんと田中孝彦さんの対談」のことが取り上げられていました。対談そのものは二月号で読めます。
この対談で,お二人は映画監督・伊丹万作の書いた「演技指導論草案」という文章について触れています。教育を考えるときにも参考になるものがあると田中氏はいいます。本としては岩波から佐藤忠男著『伊丹万作「演技指導論草案」精読』がでています。が,残念ながら今は品切れみたいです。
でも,青空文庫に「演技指導論草案」が掲載されていました。なかなかいい仕事をしてくれる人がいるもんです。

○法則とは自分が発見したら役に立つが,人から教わるとあまり役に立たぬものだ。
○自信と権威ある演技指導というものはすぐれた台本を手にしたときにだけ生れるものだ。作のくだらなさを演技指導ないし演出で補うなどということはあり得べきこととは思えない。くだらぬ台本を手にした場合,俳優に注文をつける自分の声はいちいち空虚な響きをもって自分の耳にはねかえってくる

どうです。仮説実験授業を思わせる表現じゃありませんか。

以下,青空文庫から転載した「演技指導論草案」の文章を紹介しながら,私の思いを綴っていきたいと思います。文頭に○があるのは,伊丹氏の表現そのままです(あとで原典にあたって確認しました。但し漢字や送り仮名などは現代風になっています)。

○演技指導という言葉はわずかにこの仕事の一面を表出したにすぎない。この仕事の真相は指導でもなく,監督でもなく,化育でもなく,叱正でもない。最も感じの似通った言葉をさがせば啓発であろうが,これではまだ少し冷たい。
 仕事中我々は意識して俳優に何かをつけ加えることもあるが,この仕事の本質的な部分はつけ加えることではなく,抽(ひ)き出すために費される手続きである。

教育上の指導という仕事の本質的な部分も,何かを子どもたちに付け加えることでなく,引き出すために費やされれる手続きであるといえるでしょう。新しい知識を教えるにしても,彼からの興味を惹きだし,予想をもたせてその新たな対象と関わることで,新しい認識が生まれてくるのだと思います。

○俳優から彼の内包せる能力を抽き出すためには必ず多少の努力を要するものであるが,抽き出そうとする能力があまりにも深部にかくされており,俳優自身もその存在を確信しないような場合には我々の仕事は著しく引き伸ばされ,仕事の形式は訓練という言葉に近づいてくる。

本人も気付いていない能力が俳優にでさえあるのですから,子どもたちにとって自分の能力は自身で気付くべくもありません。
最近,親たちも教師たちも気軽に「○○らしさ(○○には子どもたちの名前が入る)」といいますが,本来,その「○○らしさ」というものは,今後いろんな場所で,いろんな経験を通して他人から気付かされてくる中で,少しずつ形作られるものなのではないでしょうか。「オレはオレだから…」みたいな「開き直りの○○らしさ」ではなく,彼自身がもっているはずのいろんな隠れている能力を見つけさせてあげたいものです。そのために「あなたはあなたらしくあればいいのよ」ではなく,「あなたには貴方も気付いていないこんな素晴らしいところがあったでしょ」といえる指導をしてあげたいものですね。

○ある時間内の訓練が失敗に終ったとしてもあきらめてしまうのはまだ早い。その次に我々が試みなければならぬことは,さらに多くの時間と,そしてさらに熱烈な精神的努力をはらうことである。たとえばめんどりのごとき自信と執拗さをもって俳優を温め温めて,ついに彼が孵化するまで待つだけの精神的強靱さを持たなければならぬ。

我々教師は<めんどりのごとき自信と執拗さ>を持って子どもたちを指導しているでしょうか? 子どもと接しているでしょうか。「すぐに諦めないで孵化するまで待つ」という精神的強靱さを我々教師も持たなくてはなりませんな。

○演技とは俳優が「自己の」肉体を通じて,作中人物の創造に参与し,これを具体化し完成せしむることによって自己を表現せんとする手続きをいう。

<学ぶ>とは子どもたちが自己のすべてをかけて,文化の再創造に参与し,これを身につけることによって自己を表現せんとする手続きをいう。

○演技指導とは演出者が「俳優たちの」肉体を介して,作中人物の創造に参与し,これを具体化し完成せしむることによって自己を表現せんとする手続きをいう。

授業とは指導者が子どもたちを介して,文化の再創造に参与し,これを具体化し完成せしむることによって自己を表現せんとする手続きをいう。

○演技指導は行動である。理論ではない。

沢柳政太郎の『実際的教育論』を思い出します。大学教授が現場に役立たない理論を幾ら振りかざしても,現場の教育はなにも変わらないのです。

○読書の中から演技指導の本質を探り取ろうとするのは地図をにらんで戦争を知ろうとするようなものだ。いくらにらんでも地図は地図だ。戦争ではない。

わたしがこうして「演技指導論草案」を読んでいても,それはあくまで地図でしかありません。これを授業や学校現場にどう生かすかとは別なのです。

○演技指導の方法論に関して私にできるただ一つのことは,その具体的な手続きのうちに比較的法則めいたことを発見してこれを書きとめるということだけだ。

授業について比較的法則めいたことを発見して話し合う。そして確かなものを積み上げていく。これこそ仮説実験的な態度です。

○法則というものに対する信頼にはおのずから限界があるべきを忘れてはいけない。
「美のためには破ってはならない法則は存在せぬ。」(ベートーヴェン)

法則にも限界があります。安易に法則を拡大解釈すると誤謬に陥ります。

○法則とは自分が発見したら役に立つが,人から教わるとあまり役に立たぬものだ。

法則をそのまま教えても身につきませんし,役に立ちません。仮説実験授業は法則を子どもたちが見つけるように手立てをとってあります。だからこそ,自分で発見できた喜びで自分が好きになり,自信が持てるようになるのです。

○演技指導の本質の半分は「批評」である。

○演技指導について少し広義に記述しているといつかそれは演出論になる。

○演技指導について少し末梢的に記述しているといつかそれは演技論になる。

○自信と権威ある演技指導というものはすぐれた台本を手にしたときにだけ生れるものだ。作のくだらなさを演技指導ないし演出で補うなどということはあり得べきこととは思えない。
 くだらぬ台本を手にした場合,俳優に注文をつける自分の声はいちいち空虚な響きをもって自分の耳にはねかえってくる。

くだらない授業案でどれだけ一生懸命に授業をしても,結果は見えています。<どんな授業案を準備できるのか>が一番大切。その点,仮説実験授業の《授業書》は,最も信頼の置ける授業案として確固たる地位を持っていると思います。これを使わずして,本当にいい指導なんてできないでしょう。演出者の自己満足的演出で,子どもたちを惑わせてはいけませんな。

○演技の一節を,あるいは一カットの演技を顔に持って行くか,全身に持って行くか,あるいはうしろ姿にするか,それとも手の芝居にするかというような問題はすでに演技指導を離れて広く演出の分野に属するが,これらのコンティニュイティ的処理のいかんが演技の効果に影響する力は,ときに演技指導そのものよりも,はるかに根本的であり,その重量の前には区々たる演技指導の巧拙などはけし飛んでしまうことさえある。

これは先節とは反対のことを言っているようにも思えます。演出の問題であっても,それが大いに全体に影響を及ぼすことがあるというわけです。
これは授業でいうと運営法の部分に入るのではないでしょうか。
いくらいい指導案(授業書)があっても,指導者である教師が,居丈高な態度をとったり,発言を強要したり…と,授業運営法をあやまると,それは子どもたちの興味を引き出すどころやマイナスにもなりかねません。ヒューマニズムに則った授業運営法をしっかり学ぶ必要があるのです。

○演技指導における俳優と演出者の関係は,ちょうど一つの駕籠(かご)をかつぐ先棒と後棒の関係に似ている。先棒の姿は後棒に見えるが,先棒自身には見えない。

○演出者と俳優と,二つの職業的立場を生み出した最大の理由は,人間の眼が自分を見るのに適していないためらしい。

自分で自分を見ることはできません。自分を見るためには鏡が必要です。しかしその鏡はいつもそばにあるわけではない。生きている自分を見せてくれるのは、他人の姿です。他人が自分を見る目をとおして,自分を相対的に見ることができるのです。子どもは教師から学びますが,教師もまた子どもという鏡をとおして,自分の姿を見つめ直すことができるはずです。それをしない教師は,曇った鏡しか持っていない美容室の中にいるようなものですね。

○俳優に対する演出者の強みには個人的なものと一般的なものと両様ある。個人的なものとはもっぱら演出者の個々の眼の鋭さに由来するが,一般的なものは,演出者がいつもカメラの眼を背負って立っているという職分上の位置からくる。

○カメラの眼の位置はすなわち観客の眼の位置である。

○演出者とは,一面観客の象徴である。

○どんなに個性の強烈な演出者と,どんなに従順な俳優とを結びつけても,俳優が生きているかぎり,彼が文字どおり演出者の傀儡(かいらい)になりきることはあり得ない。

○どんなに妥協的な演出者と,どんなに専横な俳優とを結びつけても,演出者が機械を占領しているかぎり,俳優はいつまでも彼を征服することができない。

○どの俳優にでもあてはまるような演技指導の形式はない。

これを教育論的に拡大解釈すると「指導案は一人一人違っていたほうがいい」「個別指導が一番いい」というような方法論になりますが,それでは先の「比較的法則めいたことを云々」という文章との整合性がつきません。ここでは,一つの指導法に固執してしまう指導者の姿を諫めていると考えるべきでしょう。

○演技指導をそれ以外のものから明瞭に切り離し得るのは観念の中においてのみである。/実際には種々なものと複雑にからみ合っていて,純粋な抽出は不可能である。

○演技指導はそれが始まるときに始まるのではない。通例配役の考慮とともにそれは始まる。

○百の演技指導も,一つの打ってつけな配役にはかなわない。

○最も能率的な演技指導は成功せる配役である。その逆もまた真である。
(したがって純粋な立場からいえば,配役は演出者の仕事であるが,実際には必ずしもそうは行かない場合が多い。)

これもまた教育の限界をいっているような文章です。「そんなことも知っていた方がいい」というわけでしょう。そんな立派な配役には滅多に出会えないからこそ,演技指導の内容や方法を研究するのですから。我々教員も「今年の子どもは出来が悪いから…」「クラスが荒れているから…」などと言っていないで,ちゃんと指導内容と指導法の研究を続ける必要があるのです。

○私の見るところでは,俳優は偉大なる指導者(それは伝説的であってもいい。)の前では多少ともしゃちこばってしまう傾向を持っている。したがって駈け出しの演出者こそ最も生き生きした演技を彼らから抽き出し得る機会に恵まれているというべきであろう。
(このことを方法論的にいうならば,演出者は威厳を整えるひまがあったら愛嬌を作ることに腐心せよということになる。)

これは示唆に富んだ言葉です。自信の持てない初任者に聞かせてあげたい言葉です。偉大なる指導者だからその子どものよさを引き出せるとは限らないのではないかというのです。駆け出しの初任者だからこそ,子どもたちはその人の前で本当の姿をさらけ出し,本気と本音でぶつかってくるのではないか。そこに新しい発見や出会いや学びがあるのではないか。だから若い人たちは,経験が少ないことを卑下することなく,子どもたちにぶつかっていってもらいたいものだ。逆に,25年以上も教師をつづけて少しなりとも威厳?がでてきた私は,「威厳を整える暇があったら愛嬌を作ることに腐心する」ことにしよう。

○演技指導の実践の大部分を占めるものは,広い意味における「説明」である。しかし一般に百を理解している人が百を説明しきれる場合は稀有に属する。私の場合は四十パーセントがあやしい。これは自分の天性の劣弱なことにもよるが,もっと大きな原因は我々が古色蒼然たる言論蔑視の倫理に締めつけられてきたことにある。いわく「ことあげせず」。いわく「不言実行」。いわく「雄弁は銀沈黙は金」。いわく「巧言令色鮮(すく)ないかな仁」。いわく何。いわく何。そうしてついに今唖(おし)のごとき演出家ができあがって多くの俳優を苦しめているというわけである。将来の演技指導者たらんとするものはまず何をおいても「説明」の技術を身につけることを資格の第一条件と考えるべきであろう。

100を理解している人がその100の内容を余すところなく他人に対して説明できるものではないでしょう。まあそもそも人様に説明できないものを「理解している」といえるのかどうかも問題ですが,それについてはここではおいて置きます。
 私たち教師は「本当に人に説明できるだけの言葉を持っているのだろうか」と思うのです。ここでいう<教師にとっての言葉>とは,文字通りの<言葉>もあれば,「指導内容・指導法としての<言葉>」もあります。教師が,引き算を知っている、引き算ができるからといって,子どもたちにその引き算を楽しく分かりやすく教えることができるかどうかは,また別なのです。すぐれた野球選手=すぐれた監督ではないし,一流の科学者=一流の教師でもありません。だからこそ「実際(実践)に即した」教育を学ぶ必要があるのです。だからこそ,われわれのようなサークルが大切なのです。

○俳優の一人一人について,おのおの異った指導方法を考え出すことが演技指導を生きたものたらしめるための必須条件である。

○演出者の仕事の中で演技指導こそは最も決定的でかつ魅力的なものだ。カッティングやコンティニュイティを人任せにする演出者はあっても,演技指導を人任せにする演出者はない。

○演出者は平生から日本中のあらゆる俳優についてできるだけ多くのことを知っているほうがいい。しかしもしそれが困難だとすれば,せめて近い将来において仕事のうえで自分と交渉を持つことを予想される幾十人かの俳優についてだけでも知り得る範囲のことを知っているべきである。そのためには直接彼らと知り合って談笑のうちにその特質や性癖を見抜くことはもちろん必要であるが,一方ではまたできるだけ彼らの出演している舞台や映画を見てまわって,その演技や肉体的条件をよく記憶しておくことが必要である。
 しかしかくして得た予備知識がどんなに豊饒であろうとも,それがただちに俳優に対する評価を決定する力になるとはかぎらない。

○俳優に関するどんな厖大な予備知識も,演出者として半日彼と交渉することとくらべたらほとんど無意味に等しい場合がある。

○厳密な意味において俳優を批評し得る人は,その俳優と仕事をした演出者以外にはない。

○俳優のほとんど残らずは,彼が自身のいかなる演技中にも決して示さないようなすぐれたアクションや,魅力的な表情や,味の深いエロキューションを日常の生活の中に豊富に持っているものである。演出者はそれらをよく観察し,記憶していて,彼の演技の中へこれを移植しなければならぬ。

※エロキューション【elocution】話術。台詞(せりふ)回し。発声法。

日常生活における子どもたちのあの豊かな表情や感情表現,そして身体全体を使った訴え…等々が,授業になると全く別人のようになるクラスがあります。それはどうしてなのでしょうか? もちろん,授業は日常とは違う世界であり,ある一定のルールがあるのは否めません。が,しかし,子どもたちの豊かな表情までもが消えてしまうようでは,一体,何を教えているのか…。
授業者はそれらをよく観察し,記憶していて,彼の指導法の中へこれをいしょくしなければならぬ…のです。

○演技指導の基本的な二つの型として,おもに演技をやってみせる方法と,おもに説明に依拠する方法とがある。前者は端的であり成功した場合は能率的であるが,ただしこれは指導者が完全な演技者に近い場合に限るようだ。ところが実際においてかかる実例は極めて乏しい。不完全な演技を示すことの結果は,往々にして何も示さないことよりもっと悪い場合がある。かくして極めて迂遠ながら第二の説明に頼る方法が取り上げられる。現在は日本の演出者の大部分はおそらくこの方法にもたれかかっていると想像されるが,さてここで用心しなければならぬことは,説明ということの可能性には限界があり,しかもその限界がかなり低いということと,我々の説明技術の貧困がその限界をさらに低下させているということである。

○私自身の演技指導はいったいどの型であろう。演技をやってみせることは私にはできない。説明の才能はほとんど落第点である。それにもかかわらず私はあくまでも自分の意志を相手の肉体のうえに顕現しなければならない。そこで私は無意識のうちに次のような方法にすがりついて行った。つまり私は第一にできるだけ動いて見せることを避け,説明をもってこれにかえよう。そして次には,さらに,できるだけ説明することを避け,「何か」をもってこれに代えよう。「何か」とは何であろう。この「何か」の説明くらい困難なことはない。あるときはそれは沈黙であり,あるときは微笑であり,あるときは椅子から立ち上って歩くことであり,あるときは瞑目することであり,あるときは――。これでは際限がないから,私はこれにへたな名前を与えよう。いわく,「暗示的演技指導」。

「暗示的演技指導」とは文字通り<暗示的な言葉>です。「できるだけ説明することを避け暗示的演技指導をもってこれに代えよう」というのです。
教師の立場でこれを読んでみると,「まだ分からないのか…と一生懸命説明するのではなく,ある問題を与えて,子どもにじっくり考えさせる中で,子どもたちが自ら気付くように促していく」という指導法にあたるのだと思います。それは,まさに仮説実験授業の授業書であり,各種の行事における仕掛けだと思います。特に高学年には,行事において指導的立場に立つ機会が多く,その時に,暗示的指導法が有効なことがあります。

○俳優をしかってはいけない。彼はいっしょうけんめいにやっているのだから。私は公式主義からこんなことをいうのではない。私は俳優を打ったこともある。私も人間であり相手も人間であるからには,ときとして倫理も道徳も役に立たない瞬間があり得る。しかし法則を問われた場合には私はいう。どんなことがあっても俳優をしかってはいけない,と。

○俳優にむかってうそをついてはならぬ。たとえそれがやむを得ない方便である場合においても。

○演技に際して俳優が役に成り切るべきであるように,演技指導に際して演出者は俳優になりきるべきである。このことは一見俳優に対する批評的立場と抵触するようだが,実際には抵触しない。万一抵触するにしても,そのためにこの法則を撤回するわけには行かない。

教師が,子どもの立場にたつことは難しいけど,つまらない講演やいやな講座に出るときの気持ちを思い出すだけで,授業のパターンは今までとちがったものにしようと考えることができるでしょう。

○俳優の演技を必要以上に酷評するな。
 それは必要以上に賞讃することよりもっと悪い。

子どもたちは未熟だから学校に来ているし,保護者がいるのですから。そんな前提もなくなれば,子どもの居場所がなくなるのも無理はないかも知れません。


 今回は,約3分の1を紹介しました。
 このあとわたしは『伊丹万作全集・全3巻』が出ていることを知って県立図書館から借りて読んでみました。「演技指導論草案」は第2巻に出ていました。
 この「演技指導論草案」は万作の死後発行された最期のエッセイ本に収録されました。その本も「日本の古本屋」で手に入れることができました。『静臥後記』という本です。用紙が黄ばんでしまっていて読みにくいですが,自分が影響を受けたものは,その原点の本を手に入れておきたいので…。
 なおここで紹介している青空文庫版は,現代語の仮名遣いに直してあります。

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