伊丹万作「演技指導論草案」を読む

わたしの琴線の在処
その3(2011/06/18記)

それでは第3弾です。今回も思い浮かぶままコメントを書いてみました。

○一般に演出者がある俳優を好きになることはいけない。好きになった瞬間に批判の眼は曇ってしまう。
 しかしもしも意地悪きしゅうとのごとく冷い眼を持ちつづけることさえできるならば,演出者は安心して俳優に惚れこむべきである。

俳優を子ども,演出者を教師とすると,これへのコメントはなかなか難しいです。教師が子どもを好きになることはとてもいいことですから。どんなに悪さをする子でも,その子のキラリを見つけることで好きになっていきたい。仮説実験授業をやり,討論を聞いたり感想文を読んだりすると,子どものいいところが沢山見えてきて,子どもが好きになります。教師にとっての「冷たい目」とは,たとえば「イジメを許さない」ということでしょうか。人格の否定ではなく,その行為を諫めていきたいものです。それにしても「意地悪きしゅうと」なんてのを持ち出すところが戦前だねえ。

○演出者以外のものが,演技指導に関係のあることを直接俳優に言ってはいけない。
 たとえば録音部が直接俳優にむかってせりふの調子の大小を注文したり,カメラマンが直接俳優にむかってアクションの修正を要求したりしてはならぬ。それらは必ず一度演出者を通じて行なわれねばならぬ。

授業が<教師と生徒との知的な駆け引き>だとすれば,その授業中に…いくら管理職や教育研究者とはいえ…直接生徒を指導したり,生徒に助言したりすることは慎むべし…ということでしょう。その昔,授業を見に来た講師(や先輩教師)が,途中から担任に代わって指導するということもあったらしいですが,それなどは論外です。たとえ,指導法に明らかなまずさがあっても,直接子どもに言うのではなく,その指導者に言えばいいのです。ただ,子ども中心主義に立つと「そのまずい授業時間を過ごさざるを得なかった子どもたちはどうするのだ」となるので簡単にはいきませんが。

○非常に低度の演技,つまり群衆の動きや背景的演技などを対象とする場合は必ずしも右の原則によらない。
(ただし群衆撮影の場合あまりカメラマン任せにすると,カメラマンの多くは群衆を一人残らず画面内に収めようとしすぎるため,画面外には人間が一人もいないことがわかるような撮り方をする傾向があるから注意を要する。)

運動会の練習などで,指導者以外の教員が直接子どもに声をかけることはよくあることです。しかし,こういう場合でも,<指導者が集団全体を如何に掌握して指導するかということを考えてしっかり指導しようとしている場合>には,指導者に任せる方がいいでしょう。途中で指導者以外の者がその指導に立ち入ったとたん,今回の指導実践結果が自分の予想とあっていたのかどうかが分からなくなるからです。教師の善意にしろ,それは「余計なお世話」と言われても仕方ありません。学校全体を動かせるような言動や指導法も身に付けていかないとね。
支援員が複数いる場合の指導方法と,自分ひとりが掌握する場合の指導方法とは自ずから違った指導法になるはずです。

○衣裳小道具などを俳優が勝手に注文してはいけない。

文房具などは児童が勝手に注文してはいけない。ましてやいろんなものを勝手に授業中に出してはいけない-ということでしょうか。
私は,担任すると必ず「筆箱に入れるもの」「道具袋に入れるもの」を指定し準備をしてもらいます。それ以外のものなどは,授業中出さないようにしてもらっています。ノートにしろ辞書にしろ,教師は<自分の指導の一部として小道具を見ること>が必要です。しまりのない学級だったら「鉛筆が尖っていなかったら,そのときどう指導するのか」なんかもちゃんと考えておくことまで必要になります。

○俳優がはじめて扮装して現われた場合,演出者は必ずやり直しをさせるつもりで点検するがよい。でないと眼前に現われた俳優の扮装にうっかり釣りこまれてしまうおそれが多分にある。
 演出者のいだいているものはいくら正しくても畢竟イメージにすぎないが,これに反して俳優の扮装はいくらまちがっていてもそれは実在であるから我々はともするとその現実性にだまされて「うむ,このほうがいいかな」と思ってしまうのである。

現実に問題について解いていける力がある,いわゆる計算力のある子がいます。しかし,その子がたとえば<「かけ算というものの概念」を分かっているかどうか>は別問題です。とてもキレイにノートにまとめている子が内容をよく理解している子だとも限りません。子どもたちの<見栄えの部分>にだまされることなく,本当の授業をやっていきたいです。
逆に「あの子は授業中ほとんどしゃべらない」からといって,授業に参加してないわけではありません。むしろ,しっかりノーミソを使っていることもあります。教師が見栄えに左右されると,本当に大切なものを見失うことにもなりかねません。いつも子どもの方を見ていたいですね。子どもにとって<安心して受けられる授業>というのが最低限必要です。いつ当てられるかとびくびくしていて楽しいことありませんから(ただし,ナミダクジを使えば指名授業も楽しくなります)。

○仕事の場にのぞんで「さあ何かやってみせてください」という顔で演出者を見まもる俳優がいる。そういう俳優にむかって私は言う。「やって見せなきゃならないのは君のほうだよ」

そうですか,そういう俳優もいるんですね。
「そんなに言うなら,じゃあ,先生やってみてよ」っていう子どもたちっていますよね。特に幼い子に多いです。学校生活があまりうまくいっていない子に,よくこういう言葉を吐く子がいるような気がします。先生の忠告や指導がうまくいかなかったり,無理がかかりすぎたり,そもそも人間関係がうまくいかなかったりするときに出てくる言葉です。そのときは「やって見せなきゃならないのは君のほうだよ」というだけでなく,「なんであの子はそんな要求をしたのだろう」と考えることが,教師である私たちには大切なことだと思います。

○俳優のつごうによるせりふの改変を許してはいけない。一つでもそれを許したら,あとはもう支離滅裂である。しかしこれを完全に遂行するためには,演出者のほうでも仕事の途中でせりふを書直したり,未完成のシナリオで仕事にかかったりすることをやめなければいけない。
(これは秘密だが,もしも私が俳優だったらせりふをなおさずにやれるシナリオはただの一つもないじゃないかと言いたいような気がする。)
 右の括弧の中は俳優に読まれたくないものだ。

弱さを暴露した(かっこ内)の話がおもしろいですね。教師がいい加減なシナリオで授業に臨んだとたん,いろんな改変を迫られることになるのはママあることでしょう。でも,そんないい加減なシナリオさえもなかったら,そもそも改変さえもない…いきあたりばったりだったりして。
いいシナリオは,授業中に改変しなくてもスムーズに進むようにできています。そういうシナリオを作るのが「授業の科学化」というわけです。仮説実験授業の《授業書》は,どんなクラスでも熱心な教師ならうまく進めることができるようになっています。だからこそ,安心して使えるのです。そういうシナリオは「一つもない」どころか,すでに一年間でもやりきれないくらいにたくさんあります。
この言葉を,もっと低レベルな部分で教師の指導に当て嵌めてみると,一度,教師が決めたルールはある子の一言で簡単に動かしてはいけないし,児童によって教師の決めたルールが違って見えるのもいけないということでしょう。

○地面に線を引いてあらかじめ俳優の立ちどまる位置を確保したり,移動するカメラと俳優との間隔を一本の棒で固定したり,かようなあまりにも素朴な機械主義とは,もういいかげんに訣別したいものである。
 人間がこんなにも機械の侮辱にあまんじていなければならぬ理由はない。

<機械主義>と<しっかりしたシナリオ>とはどう違うのか。これは<束縛と自由>の問題のようです。伊丹は「地面に線を引い」たり「カメラと俳優との間隔を一本の線で固定し」たりすることが,俳優やカメラマンの行動を狭くしてしまい,せっかくの演技を,小さくて,迫力のないものにしてしまうことを危惧しているのでしょう。
ここでは<線>を引くことが悪いことではないでしょう。その<線>が,子どもの動きを固定化し,その結果,活き活きとした子どもの姿が見えなくなったりしたときに,問題になるのです。<線>を引いた結果,かえって子どもたちがよりスムーズに動くことができるようになったり,より楽しく活動することができるようになるのなら,その<線>は<意味のある線>ということになります。
私たちは少なからず<線>や<枠>を準備して授業に臨みます。でも一般には<自由に子どもたちに考えさせた方がいい>なんてことも言われてきました。でも,その<線や枠>といった<束縛>が,<本来なら否定すべき必要悪>などではなくて,<子どもたちをより自由に考えさせるためのものである>と証明したのが仮説実験授業の《授業書》です。

○テストのとき,厳密には本意気になれない性質の俳優があるようだ。これは理論的にはもちろんいけないことだが,実際問題としては多少の考慮をはらってやるべきである。かかる俳優の演技のテストに際しては微妙な計算が必要である。

これは,言うまでもないことでしょう。
大人になっても,テストというだけで緊張したり,本音がでなかったり,力を出せなかったりするものです。だからこそ<九割主義>で行こうじゃないですか。私たちだって100点取って教師になったわけじゃないし,車の免許だって満点なんて取れていないハズです。すべての道路法規や規則・決まりごとを覚えていなくても「運転してもいいよ」って国から証明されているんです。それなのになんで学校教育だけは常に100点を目指すのでしょうか。命に関わるわけではないのに…。たぶん,「子どもの将来に関わるのだ」ということなのでしょうが,そのために現在を犠牲にしていいことにはならないでしょう。学力向上だけに力を入れるマチガイがここにあります。

○テストの回数はしばしば問題となるが,私の考えでは,一般的な法則としては,それは多ければ多いほどよい。
 テストが多過ぎるとかえって演技の質が落ちると主張する俳優はみずから自己の演技が偶然に依存している事実を告白しているようなものだ。
 このことはその反対の場合の,あらゆる古典芸術の名人芸を思い浮べてみたら容易に納得の行くことである。彼らの芸は練習回数の夥多(カタ)によって乱され得るほど偶然的ではない。

テストが「自分がどれだけできるようになったのか」を自分自身が確認する場であるならば,そういう機会を十分多く持ってあげることは必要でしょう。そうではなくて,テストが単に子どもを振り分けることに使われていたりするから「テストキライ」となるのです。そりゃそうでしょ,「自分がどれだけできないか」を見せつけられるテストなんて嫌になるのが当たり前です。
本当に必要なことならば,同じテストをなんどもやって,十分達成させてから次に行くべきだと思います。
私は落語が好きです。なかでも古典落語が好きです。古典落語はある程度「台本」が決まっています。それをどう演技するのかが名人の名人たる所以です。古典落語を聞く時には,たとえば「<らくだ>をこの落語家はどのように演じるのだろうか」と思いながら見るのです。新ネタだとこちらは笑ってお仕舞いですが,古典ものはその演技者の力の入れ処が伝わってきて,深く感動することができる気がします。まあ,一発もののお笑いもおもしろいですが…。

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