伊丹万作「演技指導論草案」を読む

わたしの琴線の在処
その2(2011/04/15記)

2月に続いて,紹介していきます。

○俳優をだれさすな。カメラマンをだれさしても,照明部をだれさしても,俳優はだれさすな。
 主役をだれさせたのでは,監督をやっている意味がない。カメラマンにも照明係にも気を配ってやるのが監督の仕事。でもそのために俳優が「おーい,いい加減にしろよ」と思ったのではいけません。

我々教師も,教材やデジタル機器などを使おうといろいろ準備をしたり,さらにはゲストティーチャーを呼んで工夫した授業をしようとしても,当の子どもたちがだれてくるのでは本末転倒です。常に「子どもにとってどうなのか」を意識した授業や行事を計画していきたいものです。そのためには,壁に向かった授業=シュミレーションが欠かせませんね。これは新居信正先生から学んだことです。

○いかなる演技指導もむだだと思われるのは次に示す二つの場合である。
  一 俳優の芸がまったく可撓(かとう)性を欠いている場合。
  二 俳優が自己の芸は完全だと確信している場合。
(以上のような実例はおそらくないだろうとだれしも考えがちであるが,既成スターの中には右の典型的な例が珍しくない。)

「知っているつもり」という言葉があります。
人は「知っているつもり」になると,「もっと新しいことを身につけよう」とする意欲がなくなります。ま,正確には本人にとっては「知っているつもり」ではなく「知っている,じゅうぶん分かっている」と思っている状態のことです。「つもり…」というのは「あなたは知っているわけじゃないよ」ということが外から見て取れると言う状態ですから,もし「私は知っているつもりだった」と感じることができれば,それはすでに可撓性を欠いている状態とは言えません。
 さて,そんな「知っているつもり」の子どもたちに,「まだまだ知っているわけではないよ」「そんなに自信を持っちゃいけないよ」と気づかせてあげるのが教師の仕事と言えるでしょう。「いかなる演技指導も無駄だ」=「いかなる教授も無駄だ」となれば,我々教師の仕事はなくなります。そうではなくて,「お前はまだまだ知らないことがたくさんあるんだよ」と気づかせてあげることこと大切なのです。そのときに「分かりそうで,分からない問題」「知っていそうなヤツこそマチガエル問題」を示してあげることです。そういう問題にぶつかったとたん,自分のうぬぼれに気づいて,学ぶ意欲も増してくるのだと思います。その素晴らしい教材が仮説実験授業の≪授業書≫だと思っています。

○可撓性のないものを曲げようとすれば,それは折れる。

可撓性のないものは凝り固まっているので,無理矢理外から力を加えるとれてしまいます。どんなに立派な俳優でも,そうなったとたんに,一流の座から転落し,普通の大人の座からも転落します。
折れないようにするには,すこしずつ柔軟運動をしてあげる必要があります。そして,その柔軟運動をするときに,子どもの自尊心を傷つけることなく少しずつ柔らかくしていくことが必要です。

○自分は健康だと信じているものは薬をのみはしない。自分は完全であると信じきっているものは決して忠告を受けいれない。

私もあまり人様からの忠告を聞き入れないで来たように思います。とくに権力を持っている人たちの意見には真っ向から対立して生きてきました。だから,こんなタイプになったのでしょう。でもその一方で,自分が信頼できると思った人たちからの忠告や助言はとてもよく身につけて着たようにも思います。今の自分があるのは,そんな人たちからの薬を呑んだからだと思うのです。
要は,自分が信頼できる人を見つけ,その人の意見にはしっかり耳を傾ける…という取捨選択が必要なのではないかと思うのです。もしどんな人からの忠告も受け入れようとするならば,その人の生き方は回りに惑わされているだけにみえるでしょう。
教師としては,子どもたちから「この大人の忠告なら受け入れてもいい」と思ってもらえる大人になることが大切なのです。それは,日頃の授業と子どもとの付き合い方で決まるのでしょうね。たのしい授業の中に自分の居場所があれば,子どもたちはしっかりと担任の忠告を聴くようになります。その逆に,十分な授業もせずに忘れ物を責めたり,だらしないのを責めたりしているだけの担任の言葉には,何度言ったことろで,馬耳東風…となるでしょう。

○演技の中から一切の偶然を排除せよ。
 予期しない種々な偶然的分子が往々にして演技の中へ混りこむ場合がある。
 たとえば俳優が演技的意図とはまったく無関係にものにつまずいたり,観客の注目をひいている俳優の顔に蝿がとまったり,突然風が強く吹いてきて俳優のすそが乱れたり,などなど,その例は枚挙にいとまがないが,要するにあらかじめ演出者の計算にははいっていない偶発的できごとは一切これを演技の中に許容しないほうがよい。ところが我々は実際においては,ともすればかかる偶然を,ことにそれが些事である場合は,いっそう見逃してしまいたい誘惑を感じる。
 そしてその場合,自分自身に対する言いわけはいつも「実際においてもこういうことはよくあるじゃないか」である。
 しかもかかる偶発的些事というものは,もともと自然発生的であるだけにその外見は極めて自然で受けいれられやすい姿をしている。我々の経験によるとこれらの偶然のほうがときには計量された演技よりもむしろ立ちまさって見える場合さえある。だからなおさら我々は偶然に対していっそう用心深くならなければいけないのである。
 あらかじめ計算されざる偶然はなぜ排除しなければならぬか,その理由はただ一つ。
 作中の世界は作者によって整理された世界でなければならぬから。しかして整理とは一面無意味な偶然の排除を意味する。ここでぜひとも思い浮べなければならぬことは,いつも時間とともに流れている映画の本質である。映画の美は時間と関連せずには考えられないし,映画の世界のできごとはどんなに複雑でも通例二時間以内に圧縮整理されてしまう運命を持っている。たえず美の法則に従って映画の流れを整え,時間を極度に切り詰めて最も有効に使わなければならぬ映画作者がどこに無意味な偶然を許容する余裕を持ち得るだろう。「実際にもしばしばある」ということは偶然を許容する理由としては何の意味をも持たない。なぜなら我々の作っているのは芸術であり,偶然はなまの事実にすぎない。芸術の構成中の偶然は米の中の石つぶのごときものだ。それは人の歯にがちりとさわる。映画の場合は,それは美しき流れを乱し,時間を攪拌(かくはん)する。しかし私はこれらの結論を理論の中から導き出したのではない。私の経験によると撮影のときにそれを許容する気持ちにさせた偶然が,試写のときには必ず多少とも後悔と自責の念に私を駆り立てずにはおかないからである。はっきりいえばその実際の経験だけが私に偶然の警戒すべきを教えるのであって,理窟は実はどうでもいいのである。ついでだからもう一つ例をあげると,俳優が偶然あるせりふにつまって絶句したとする。かようなことは実際の人生には絶えずあることで,むしろむだのない長せりふを順序を違えず一つの脱落もなく,絶句もしないで滔々としゃべることこそはなはだしき不自然だといえる。だから絶句は自然だといって許しておいたらどういう結果になるかは考えるまでもないことである。もちろんこのことはアクションの場合においても同様である。

 要するに我々の人生はこれを芸術的に見れば数限りもない無意味な偶然と,無聊と倦怠と,停滞と混沌と,平凡にして単調なる,あるいは喧騒にしていとうべきことの無限の繰り返しによってその大部分を占められているのであるが,まずこれらの不用な部分を切り捨てて,有用な部分だけを拾いあげ,美的秩序に従ってこれを整理することが芸術的表現の根幹であり,無意味な偶然というものは畢竟(ひつきよう)不用の部分にすぎないのである。

「今日は○○ちゃんのお陰でうまくいったわ…」という授業をやっているだけでは授業の科学化にはほど遠くなります。私たち教員がプロ意識を持つためには,今日のうまくいった授業が偶然だったのか,それとも教材の持っている力を示していたのか(ある法則性があったのか)…をしっかり総括し,確認していく必要があります。そういう作業をやってこそ,少しずつ指導のコツが身につくというものです。こういうものを集めて「法則化しよう」という運動も過去にはありました。法則化とまで行かなくても,少しずつ積み重ねていくことはできるでしょう。そんな話題を広げるのがサークルの役目かなと思います。
私の学級で起きたことはあなたの学級でも起きるよ…これがなければ,実践なんてただの自慢話であり,羨望の眼差しにさらされるだけです。 

○演出者によってあらかじめ計量し採択せられたる「偶然」は,もはや「偶然」ではない。

そうですね。ある人の授業を見ていて,「なんでこの子たちはこんなに授業に乗ってくるの」と思われるかも知れませんが,それはそのクラスに○○クンがいることよりも,授業の法則性のためなのです。そういう授業の法則性を求めて研究して行くことこそ,私たちのやるべき研究なのでしょう。
偶然で起きたことを,次の機会には必然になるように仕組んでいくことができれば,それこそ「法則を掴んだ」ということになるのです。

○十分なる理解と,十分なる信頼と,そして十分なる可撓性と。俳優の中にこれだけのものを発見した瞬間に演技指導の仕事は天国のように楽しくなり,演出者は自分が天才のように思えてくる。

たのしい授業が実現すると子どもたちがとてもかわいくなります。子どもたちへの信頼が高まります。自分の準備した授業に応えてくれる子どもたちに感謝したくもなります。そして,授業という仕事は天国のように楽しくなり,教師は「おれもまんざらではない」と自分を好きになれるのです。
 子どもたちが喜ぶ授業を準備できた教師である自分に自信が持てて,仕事も楽しくなる。そんな教師生活を保障してくれるのが仮説実験授業です。だから,みんなに勧めたいのです。

○この仕事の制度上の位置が俳優に対して上位を占めていることを過信し,無反省に仕事の優位性の上に寝そべることは極めて危険である。しかし実際においては我々はたえず彼らの上に立ち,ときには叱し,ときには命令しなければならぬ。つまりこの仕事を成り立たせるためには俳優に対して少なくとも形式的には自分自身を上位に保つことが必要なのである。しかしただ漫然と形式上の優位性にあまえることは厳に戒めなければならない。
 我々はむしろ仕事の価値観のうえではまったく俳優と等位にあることを信ずべきである。しかしそれにもかかわらず我々はあくまでも自分の仕事に権威を持たなければならない。そしてそのためには仕事自体の持つ形式的な優位性などはすっかり抛擲(ほうてき)してしまうほうがいい。そして微量でもいいから自分一個の実力による権威ができあがってきて,つまりは極めて自然に自分自身を優位に導き得るように人間として芸術家としての自分を高めて行く努力をつづけるよりしかたがない。そしてかかる実質的な権威以外に真に自分を優位に支えてくれる力は決してあり得ないことを知るべきである。

「教師は子どもを教える立場であり,圧倒的に優位な立場である」という姿勢で指導することはきわめて危険です。たしかに学級崩壊というのは,教師の権威が失墜することによって起きます。しかしその「教師の権威」というのは,「オレはエライのだ」という教師の姿勢に因るものではなく,子どもたちが「こいつのいうことなら聴こうじゃないか」と思ってれる結果としてついてくるものなのです。
ある通院学級の教師が「私は子どもの下に入って子どもを支えるようにしようと思っています」と言っていたことを思い出します。だから彼はピエロにもなり,子どもよりもさらに子どもにもどって子どもの心を掴み,そして指導をしていくのです。
自分の仕事に権威をもつ…そのためには仕事自体の持つ形式的な優位性などはすっかり放擲してしまうほうがいい…弁証法的なこの話はとてもずっしりと心に響きました。

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