内田樹編『ポストコロナ期を生きるきみたちへ』

わたしの琴線の在処

2022/01/14

■内田樹編『ポストコロナ期を生きるきみたちへ』(晶文社,2020,306ぺ,1600円+税)
本書は,中学生以上の学生たちに向けて書かれた「今後の社会の見方・考え方」についてのアンソロジー本です。

青木真兵著「楽しい生活-僕らのVita Activa」

○20世紀を生きた偉大な哲学者ハンナ・アーレントは,人間の営みを「労働,仕事,活動」の三つに分類しています。アーレントの研究者の百木漠氏によると,労働は生命維持のための営み,仕事は耐久的な使用物を製作し「世界」を創り出す営み,活動は他者とのコミュニケーションを意味すると言います。アーレントは古代ギリシア時代を模範としていたので,活動,仕事,労働の順番で重要だと考えていました。 (36ぺ)

○ここで大事なことは,自分の営みをどれかに分類するのではなく,すべてが「お金を稼ぐための労働」に飲み込まれていないことです。 (37ぺ)

○〈活動的生活〉とは,なにごとかを行なうことに積極的に係わっている場合の人間生活のことであるが,この生活は必ず,人びとと人工物の世界に根ざしており,その世界を棄て去ることも超越することもない。(ハンナ・アーレント著,志水速雄訳『人間の条件』ちくま学芸文庫,1994年,43頁,強調は筆者)(38ペ)

 このアーレントさんの言葉を受け,青木さんは「人が何かに積極的に係わっている時は,労働力と感性が合わせてフル回転している。その時,人は『楽しい』と感じるのだと思います」とも述べています。
 さて,わたしたちの生活をふり返ってみると,この「労働,仕事,活動」って,何にあたるのでしょうか?
 退職後のわたしにとっての「活動」は,NPO活動であり,サークル活動です。「仕事」は仮説実験授業をはじめとする研究・そして野菜づくり。「労働」はしていないのかもしれない。生命維持のための営みはやっていないもん。

○人間のなかにある労働力と感性は,本来は矛盾し合うものではなく「切っても切れない関係」にありました。…中略…本当に活き活きとした「楽しい生活」を送るためには,きちんと感性が働いている必要がある。ただ労働力は分かりやすく他人の役に立つため,生活費と短期的な自尊心の充足を与えてくれます。…中略…しかし,それだけになってしまうと,人は上からの命令をただ実行するだけの「感性を失った労働者」になってしまう。それではあまりに陳腐です。

○感性とは「おや?」と立ち止まるべきタイミングに気がつく力です。これは「きちっと」した形をもっていないため,「なんとなく」でしか分かりません。 (42ぺ)

 おやっと感じる感性をもちながら,労働者として働いていく。その感性をもつことが「ポストコロナ社会において,死活的に重要なこと」であると青木さんはいいます。もっともっと感性を磨く,そのためには「おやっ」と思うこと。

白井聡著「技術と社会」

○利用可能な技術のうち,どの技術が用いられ,どの技術が用いられないかを決めているのは,その社会の在り方なのです。このことは,技術の発展にも当てはまります。…中略…技術と社会のこうした関係が転倒して,技術が社会の在り方を決定しているように見えるのは,まさに社会が現実をそのように見せるような在り方をしているからです。…中略…技術決定論の主張とは逆に,社会の在り方が独立変数であり,技術はその関数なのです。 (77ぺ)

 技術革新が目覚ましい,わたしたちの仕事はAIに奪われる…こういう考え方は「技術決定論」ですね。そのような技術を使うか使わないかは,本来なら社会で決めればいいことです。本当に困るのなら,AIの使用に制限をかければいい。しかし資本主義社会というのは,ブレーキを効かせられない。そこに問題があるのだと白井さんは言います。わたしたちにとって大切なものってなんなのかを,この機会に考えましょう。
 そこにAIが来ているから授業で使う…これって,どうなんでしょう。AIを使えるなら使う,使えないなら使わない。まずは,このような学校現場(小さな社会)での合意が必要な気がします。

増田聡著「『大学の学び』とは何か」

○「知」とはデジタルデータではなく,身体と感情を持った人間一人一人が身につけ,実践し,対話し,試行錯誤する中でしか「役立たない」。大学とはそのために用意された場です。新型コロナウイルスが社会にもたらした「よい影響」がもしあったとするならば,ただオンラインで勉強だけすることが「大学の学び」ではない,ということに人々が気づいたことではないでしょうか。 (113ぺ)

 わたしが勤務してきた場は,大学ではありません。ですから「義務教育はデジタルデータをインプットするのである」と言われても文句は言えなさそうです。しかし,「コロナ禍の解決策」というコンテンツが,今,世界のどこにも存在しないように,子どもたちが生きていくときの進み方・解決策というコンテンツもどこかに準備されているわけではありません。すべては,自分の力で作っていくしかない。そういう将来に思いを馳せるとき,たとえ小学生に向けてであっても,ホンモノの「知」を与えていきたいなと思います。
 「知的な授業」「試行錯誤する授業」,これこそ,仮説実験授業なのではないかと思います。仮説実験的な考え方で生きていく,その方法を身につけて欲しいですね。
具体的に「こういうことが楽しかった」と言えることも大事だと思うんですけど,やっぱり授業書を通して,自分で選んで生きていく-そういう感覚をつかませてもらえたと,そういうようなことも私は感じています。(黄絵麻さん談「仮説実験授業を受けたわたしが,仮説実験授業を始めるということ(上)」『たのしい授業2022年1月号』p.148)より
 今月号の『たのしい授業』で,黄さんは,自分の人生をふり返り,小学5年のときに受けた仮説実験授業の成果を教えてくれています。たかが小学生,たかが1年担任しただけ…それでも,仮説をやり続けることで,いろんな波及効果があるのだと思います。

相田和弘著「コロナ禍と人間」

○人間(だけ)のために作られた大都市がコロナと共存できぬのも無理はないと思います。大都市では,コロナは高度にシステム化された人間の生活を撹乱する「エラー」として認識されます。そしてエラーを排除しなければ,都市を正常化することはできないのです。
 しかし本来コロナウイルスは,新型であろうと旧型であろうと,エラーなどではありません。それは自然界の一部であり,いわば海や山や太陽や魚と同じなのです。 (143ぺ)

 いいお話ですね。新型コロナを排除しようとするのは人間の勝手なんですよね。「この魚,嫌いだから,おれは要らない」と全人類で言ってその魚を殺しまくっているいるようなもんです。人間が絶滅させた伝染病は天然痘だけだそうですが…。死を受け入れるからこそ生がある。過密すぎる都会が自然からやられるのは仕方ないですね。これは地震がきても同じです。「だから都会は危ないって言ったじゃない」という話がでてくるだけでしょうね。
 社会の在り方は,人間が変更できるんですが…。

山崎雅弘著「図太く,じぶとく,生きてゆけ」

○上の偉い人に服従すれば,自由がない反面,自分で物事を決めたり責任を取ったりしなくて済む,という「楽な面」もあります。そのため,ボクは自由がなくてもいいや,上の偉い人に服従して,強い集団の一員になるよ,という道を選ぶ人もいるでしょう。
 けれども,今回の非常事態が教えているのは,もし集団の全員が従うリーダーが,的確な判断を下す能力のない「無能」なら,集団全体はどうなるのか,ということです。 (165ぺ)

 「集団全体」というのは,学校の場合は,学校の職員だけではなく子どもたちも含んで考える必要があります。校長の采配で左右される学校になって久しいですが,その分,校長の出来・不出来により,子どもたちにまで影響を受けるようになってきました。以前なら,変なことを言いだす校長がいても教員が防波堤になって,その偉力を和らげたものです。なるべく子どもに影響を与えないように…と。そういう教員がいない場合は,子どもたち自身が異議申し立てをしていたのです。それが最近は…。そのなれの果てが「アベノマスク」だったのでしょう。

○そうならないためには,何が必要か。上の偉い人に服従するたびに,心の中でそれに「反抗」する気持ちを持っておくことです。偉いとされる上の人に従順に服従するのでなく,心の中で反抗しながら「今回は服従してやる」という意識を持つことです。 (166ぺ)

「旗幟鮮明にして昼寝する」「理想を掲げて妥協する」…これらは,どちらかというと板倉さんの運動論ことわざ。わたしの座右の銘です。

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