
鵜島地区(秋祭)

鵜島地区(デカ山祭)

以前は,このようなデカ曳山が3基出て砂浜を曳いていた。
鵜飼・春日野地区(七夕祭)

午後10時過ぎになると,一斉に海の中に担ぎ出し,同時に花火が上がる姿は勇壮的・幻想的だ。
鵜島地区の祭礼とその歴史
鵜島のデカ山
鵜島地区の祭礼には「デカ山」と呼ばれる大きな曳山が曳かれていました(右写真)。
当時を知る長老に聞き取りをした内容が,中嶋吉正著『宝立異聞』(自費出版,1986年)に載っていたので,ここに転載します。「第八話 トピック・とぴっく・話題」という節の第16項である。
なお,漢数字は算用数字に直し,西暦も加えてあります。

十六、鵜島のデカ山
明治34年(引用者註:1901年,以下同じ)宗玄のデカ山が出来た。
狼煙の前田氏の山(山伏山)から材木を40円で購入したが、船賃や、大工賃を入れると60円になったという。鉦や太鼓をたゝき、船に積んで運んだが、きずがつかないように藁を敷いて来た。次に明治36年(1903年)頃南黒丸の山車が出来た。これも狼煙の山から材木が運ばれた。祭礼の時、船橋川を渡る際、黒丸市兵衛という人が、その下敷となって死ぬという犠牲もあった。最後に中鵜島の山車が、明治38年(1905年)に出来た。若山の南山の阿弥陀池の上の山から木を伐り出したという。
現在デカ山が曳かれなくなったので「こま」だけ宗玄は日吉神社、中鵜島は剣神社、南黒丸は八幡神社に大切に保管され、昔をしのんでいる。(宗玄集落 吉野平次郎[明治42.03.06生]談)
明治の1円=現在の3万円とすると,60円=180万円。これでデカ山の材料が手に入ったのなら安い?
鵜島の五つの山車
毎年9月15日と16日の両日,行われている鵜島地区の祭礼についてご紹介します。
鵜島地区は,観光地である能登町の恋路海岸と珠洲市の見附海岸に挟まれた約2.5キロの旧国道249号線沿いの地区である。5つの神社にちなんだ5つの山車を,それぞれ揃いの法被を着た若い衆たちが勇壮に引っ張ります。山車の上には,人形や館を飾り,上を大きな岩山と呼ばれる5枚の布で覆います。
この鵜島の曳山祭りについて,宇野通著『加越能の曳山祭』では,次のように紹介されています。
鵜島の曳山祭には,5輌の七尾型曳山が出る。かつては3輌の巨大な曳山が,塩田の浜を曳かれていたが,塩田が無くなり,浜が浸食された結果,昭和30年代に曳山は小さなものに造り直されて,国道を曳かれるようになった。この祭礼も,17世紀後半に編集された「能登名跡志」に記述があり,江戸中期から行われていたことが確認できる。
鵜島の曳山は,七尾とも宇出津とも少し形が異なる(上戸,正院川尻なども,鵜島と同型)。異なるのは,曳山の舞台の背後に大きな舌状のもの(竹で造り,布で覆っている)が5枚,端を重ねて取り付けられる点である。これが,舞台に覆い被さっており,舞台は洞穴の中にあるように見える。この舌状のものは「岩山」と呼ばれている。(p.246~p.247)
このほか,鵜島の祭で特徴的なものに「キャラゲ」があります。小学校の男子が化粧をし,着物を着て,曳山の前に乗り,曳山の誘導をします。さらに,山車の曳き初めや終わり,戻りや各神社の前などで「曳山唄」を歌います。たとえば山車の引き出しの時には次のような歌詞を歌います。
アーヤー 若い衆や
過ちするなよ けがするな
人はめんどと 云うばかり
若い衆 若い衆
みなそろたかや
まだもそろたか 四綱までも
怪我のないよに そろそろと

そして15日の夜には,この「キャラゲ」が若い衆におんぶされて,自分たちの地区の家を一軒一軒まわり,各家の人やお祭りに来ているお客さんに「唄」を聞かせ,「花代」をいただきます。以前は,16日にも他の4地区を一軒一軒まわっていました。
しかし残念ながら最近は少子化の影響で,山車の数も減り,唄を聞かせることも少なくなりました。

アーヤー 高砂の 高砂踊りの習いがけ
後ろへ二足 前三足(あ~よいとこさのさ)
ここに見えるは 見附の島か
根から生えたか つき島か
キャラゲ=木遣り歌の保存
こういうHPを作っていると,要望が来ることがある。その一つに,「キャラゲの歌をちゃんと保存しておいて欲しい」というお願いもあった。
キャラゲの保存については,以前,鵜島地区に「キヤラゲ保存会」というのがあり,うちの親父も民謡が好きだった関係で参加していた。その保存会がまとめた小冊子もあり,ちゃんとまとめられてはいる。
さらに,デカ山を復活させたときに作成したDVD『デカ山』にもキヤラゲの歌の練習風景が収められている。
小冊子は,すでに手に入らないと思うので,PDFファイルにして,公開しておこうと思う。
乞うご期待!



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