寺田寅彦著「日本人の自然観」を読む

わたしの琴線の在処

 岩波文庫版『寺田寅彦随筆集全5巻』に,「日本人の自然観」という割と有名なエッセイがあります。それは,わたしがレポートに書いた内容(※1 本ページの最後に掲載してあります)を後押ししてくれるようなお話だったので,紹介してみます。

 われわれは通例便宜上自然と人間とを対立させ両方別々の存在のように考える。これが現代の科学的方法の長所であると同時に短所である。この両者は実は合して一つの有機体を構成しているのであって究極的には独立に切り離して考えることのできないものである。人類もあらゆる植物や動物と同様に長い長い歳月の間に自然のふところにはぐくまれてその環境に適応するように育て上げられて来たものであって,あらゆる環境の特異性はその中に育って来たものにたとえわずかでもなんらか固有の印銘を残しているであろうと思われる。

「日本人の自然観」『寺田寅彦随筆集第5巻』224ぺ

 人間と自然との一体感というものは,どこの世界にもあるのでしょうが,特に日本国周辺の気候や季節,度重なる災害(台風,地震,火山噴火などなど)に影響されて育ってきた日本人には,この自然との一体感は,他の国よりも強かったのではないかと寅彦は述べています。

 すなわち日本ではまず第一に自然の慈母の慈愛が深くてその慈愛に対する欲求が満たされやすいために住民は安んじてそのふところに抱かれることができる,という一方ではまた,厳父の厳罰のきびしさ恐ろしさが身にしみて,その禁制にそむき逆らうことの不利をよく心得ている。その結果として,自然の充分な恩恵を甘受すると同時に自然に対する反逆を断念し,自然に順応するための経験的知識を集収し蓄積することをつとめて来た。この民族的な知恵もたしかに一種のワイスハイト(引用者註:知識,知恵[ドイツ語])であり学問である。しかし,分析的な科学とは類型を異にした学問である。

上掲書,237ぺ

 自然からの恩恵を受けて育ってきた日本民族,それだからこそ生まれた俳句という文学。こういった視点は第5巻の最終エッセイ「俳句の精神」にも触れられています。日本独特というものは(他の国ぐににも○○独特というものがあるということを認めた上で)確かにあるのだと思います。

 日本人は西洋人のように自然と人間とを別々に切り離して対立させるという言わば物質科学的の態度をとる代わりに,人間と自然とをいっしょにしてそれを一つの全機的な有機体と見ようとする傾向を多分にもっているように見える。少し言葉を変えて言ってみれば,西洋人は自然というものを道具か品物かのように心えているのに対して,日本人は自然を自分に親しい兄弟かあるいはむしろ自分のからだの一部のように思っているとも言われる。また別の言い方をすれば西洋人は自然を征服しようとしているが,従来の日本人は自然に同化し,順応しようとして来たとも言われなくはない。きわめて卑近の一例を引いてみれば,庭園の作り方でも一方では幾何学的の設計図によって草木花卉を配列するのに,他方では天然の山水の姿を身辺に招致しようとする。

上掲書「俳句の精神」275ぺ

 寅彦は,この自然に逆らわない生き方が,日本で科学が生まれ損なった原因の一つではないかとも言っています。そして,それが西洋文明の流入によって大きくかわってきてしまったことを嘆くのです。

 たとえば,昔の日本人が集落を作り架構を施すにはまず地を相することを知っていた。西欧科学を輸入した現代日本人は西洋と日本とで自然の環境に著しい相違のあることを無視し,従伝来の相地の学を蔑視して建てるべからざる所に人工を建設した。そうして克服し得たつもりの自然の厳父のふるった鞭のひと打ちで,その建設物が実にいくじもなく壊滅する,それを眼前に見ながら自己の錯誤を悟らないでいる,といったような場合が近ごろ頻繁に起こるように思われる。

上掲書「日本人の自然観」237ぺ

 このころの歴史的な背景があるので,ややもすると神国日本になりかねない危険性はありますが,寅彦のこの意見はもっともだと思います。架橋一つをとってみても,その土地の自然観にあったものをつくるべきなのだと思います。
 そしてこのことは,決して明治の世だけの問題ではありません。
 最近読み直した本の話題です。「沖縄の赤土」に関することです。

 復帰と同時に道路や港湾,空港,農業基盤整備,教育施設などが公共事業として「本土並み」の基準などを当てはめた設計図で工事が行われた。/このあわただしい対応の仕方では,沖縄の特異な自然環境に配慮するゆとりがなかったのかもしれない。「本土並み」とは別のいいかたをすると,沖縄の自然環境にマッチしない設計図で工事をしたということにほかならない。(沖縄県教育文化資料センター環境・校外教育研究委員会編『新編環境読本消えゆく沖縄の山・川・海』044ぺ)
 ところが国や沖縄県は「赤土汚染」がもたらした自然環境破壊についての実態調査をしていない。そのため「赤土汚染」はないことになっている。それをいいことにして「自然災害」といったり,「県民のモラルの問題」といって,実態を覆い隠してきた。

沖縄県教育文化資料センター・環境・公害教育研究
委員会編集『環境読本「消えゆく沖縄の山・川・海」』046ぺ

 歴史を学ぶ,歴史から学ぶ。本当に大切なことですね。
 便利な生活を求めるあまり,「人も自然の一員なのだ」ということを忘れてしまうことのないようにしたいです。里山里海に生きる!

2023/07/15 記


※1 自然と人間について考える

便利・快適とは
 わたしたちは,生活していく上で,より便利になるように,より快適に過ごせるようにいろいろな技術を発展させてきました。それでは,その裏にある副作用って何だと思いますか? 公害などは,その最たるものですね。地球温暖化やオゾン層の破壊などの環境問題一般もそうでしょう。でも,今回,わたしが発見したのは,別のことです。それは,上の手紙の内容(省略)とも関わることです。

わたしたちが失ったもの
 便利・快適と引き換えにわたしたちが失った一番大きなものは,〈自然の中の人間という意識〉ではないでしょうか。〈便利・快適が進む〉というのは〈人間は自然とのつながりを意識しなくても過ごせるようになってきたこと〉と同じではないでしょうか。
 クーラーのある部屋にいれば,外がどんなに暑くても湿度がどんなに高くても,「快適に」過ごせます。スーパーに行けば,だれがどこでどんな風に野菜を作っているのかを知らなくてもいろんな野菜を手に入れられる「便利さ」が当たり前です。珈琲が飲みたければ,二三味珈琲へいけばおいしい豆が手に入り,家で快適な時間を過ごせます。しかし,このコーヒー豆を栽培している土地や労働者のことなどについては,わたしはまったく知りません。知らなくったって,おいしい珈琲が飲めるからそれでいいと思っていました。
 一方,狩猟生活をしていたころの人類は,自然と自分とのつながりを意識せざるを得ませんでした。そのころは,雨が降っただけで,その日の予定が狂ったことでしょう。縄文,弥生…と時代が進むにつれて,生活は便利になり,それと同時に,生活の内容が自然に左右されなくなってきました。
 人は,安心して,快適に生きるため(おそらくそれは,自然に左右されないため)に,いろいろと工夫してきたのです。換言すれば,人間は〈生活の快適さ〉と引き換えに〈自然とのつながり〉を捨ててきたのです。むしろ〈快適であること〉は〈自然や社会を遠ざけること〉とも言えるかも知れません。

自然や社会との繋がりを意識すること
 SDGsという発想の中で大切にしなければならないことは,このような便利で快適な生活の中で人間が失ってしまった〈自分と自然・社会との繋がり〉を取り戻すことではないかと思うのです。わたしたちは,そのために常に学習しなければならないのではないか。そうしなければ,地球の中でこれから生きていけないのではないかと思います。すべての学習というのは〈自分との繋がりを意識するため〉のものではないか。

全ての学習は〈自分との繋がり〉を意識できるかどうか
 そして,このような話は,決して環境問題だけではないことに気づくことでしょう。小学校高学年ともなれば「なんでこんなことを勉強するの」「なんのために学校に来るの」と疑問に思う子どもたちが増えてきます。口に出す子もいれば,出さない子もいるでしょう。でも,おそらく,ほとんどの子どもたちがそういう疑問を持つと思います。そのとき,わたしたちはどんな風に返答してきたでしょうか?
 今,ここに,その返答への一つのヒントがあります。それは「あなたと世の中との繋がりを知るために勉強するんだよ」ってことです。「生活が快適で,便利な世の中にいるあなたが,これからもちゃんとこの地球上で生きていくためには,見えなくなってしまっている〈たくさんの繋がり〉に気づいて,考え,行動していくことこそ,大切なんだよ」ってことです。

放射能を含んだ水を海洋放出すること 
 今,福島原発から出てきた汚染水を海洋放出するという話が出てきています。これだって,同じこと。基準をクリアしているから大丈夫…というのですが,その基準というのは人間が都合でつくったものですよね。「まったく0にはできないので,ある基準で許容しよう」ということです。では,許容するのはだれなのか? 海に捨てれば薄まります。でも,人間が作り出した放射性原子はなくならない。半減期という自然界の法則に従って半減していくだけです。
 福島県の地面の上にタンクがあるときには「あのタンクの中の汚染水はおれと関係があるな」「何かあって漏れ出したら困るよな」と思っている人たちにも,いったん海に流してしまえば,その汚染水は文字通り見えなくなってしまうのではないでしょうか。そこで汚染水との「繋がり」が消えてしまう。でも,その汚染水が流された海の中にも生きものはいます。そして,あなたはその生きものとの繋がっているんですがね。
 水俣病や四日市ぜんそくなどの公害を学ぶのは,過去のできごとを知るためではなく,自分と自然との繋がり,自分と社会との繋がりを知るためです。そして,それを活かして自分が生きていくためです。わたしたちは,そういう学習を続けていきたいと思います。クイズ問題で四大公害を全部言えるような知識が必要なわけではないのですから。

2023/06/17 記

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