「通知表」を相対化しよう!

レポート綴

 学期末はなにかと評価について考える季節でしょう。仮説実験授業の提唱者・板倉聖宣氏は,「通知表」についていろいろと述べた後,最終的には以下のように述べています。

 「通知表の成績をどのようにつけたらよいか」ということを考えるには,「なぜ通知表に成績をつけるのか」ということを明らかにしなければなりません。親にむかって,あなたのお子さんの成績は可だとか,良だとか通知しても,親はどうしようもありません。子どもの成績が悪いということを知っても,親は子どもの尻をたたいて勉強させるぐらいのことしかできません。

(板倉聖宣著『教育評価論』46ペ)

客観的な評価・主観的な評価とは?

 通知表の評定の仕方を学校全体で決めることが「客観的である」なんてことが言われたりします。わたしが教員になったころは,まだ相対評価の時代だったので,それこそ「客観的な%」で,評定が決まりました。今は,絶対評価になったとは言え,みんなテストができたからと,全員同じ成績にすると,なにか周りから言われそうです。それくらい,評価というのはいろんなものを含んでいるんでしょう。
「評価にはなるべく教師の主観が入ってはいけない。」
「なるべく客観的なもので評定をつけなることが大切である。」
なんてこともよく言われますが,そもそも客観的な評価ってあるんでしょうか? わたしはそれが不思議です。
 わたしは,なるべく客観的な数値のみで評定をつけようと思い,ほとんどテストの点数のみで評定をつけてきました。子どもたちのノートを集めて,ちゃんとノートの内容を評価するとか,授業態度や学習の忘れものなども評価に入れるという人も近くにいましたが,それこそ,教師の主観が入る内容ではないかと思います。ノートがきれいだといって評価できるのは,「書き方」(書写)の時間くらいでしょう。ノートがきれいで忘れものがないから,その教科の学習内容を理解しているとはまったく言えませんからね。
 「いや,教科の評価とは学習内容の習得程度のみではない」という人は,それでもいい。そもそも,目指しているものが違うとしか言えません。

そもそもの話

 そもそも,わたしたちは「完全に客観的な評価」ってできるんでしょうか? あるいは,それを「正しい評価」と呼べるのでしょうか。あるいは,そもそも「正しい評価」ってあるのでしょうか? 誰に対して「正しい」のでしょうか?
 わたしは,そんな評価はないと思っています。
 わたしのように市販テストの結果のみで評定をつけているから客観的だと言えますか? その市販テストを選んだのは,だれでしょう。わたしですね。あるいは,その市販テストを実施する日を決めたのはだれでしょう。それは教員自身ですよね。同じテストを同じ日にしたのだから,そのクラスのメンバーにとっては客観的だというのならば,教師の自作のテストでもいいわけです。でも「自作だと教師の主観が入る」とか,バカなことを言いだすわけです。
 〈そもそも論〉として目標のない評価なんてないわけです。「子どもたちに何を身につけて欲しいのか」という確固たる目標があって,はじめて評価するということが出てくるのだろう思います。そして,評価するための方法を教師が主観的(主体的)に選び取り,その教師の主観的な判断で責任を持って点数をつけることしかできないわけです。それだからこそ,もし「〈不可〉をつけられるものがあるとすれば,それは教師や教育研究者以外にない」のです。

通知表とは別に,日常的な評価を

 「評価には教師の主観が入ってはいけない」という人には,そう言わせておきましょう。
 評価というものを考えるとき,わたしにとって通知表は大切なものではありません。板倉さんは,先ほどの言葉に続いて,次のように言っています。

そう考えると,通知票を一学期一回親に渡すよりも,子どもたちの成長・進歩の姿を機会あるごとに親に知らせる学級通信をだすほうが,はるかにたいせつだ,ということになるでしょう。しいて一学期一回の通知票を出すのなら,子どもたちに自己評価をさせて,それを記録すれば,それで十分ではないでしょうか。

(上掲書,47ぺ)

 たのしい授業学派では,このことを「通知表の相対化」と呼んでいます(少なくともわたしはそう呼んできました)。「通知表なんてたいしたことないよ」「あなたのほんの一部分の姿だよ」「しかも,この数ヶ月のテストの出来不出来だけだよ」ということを,子どもたちにも保護者にも分かってもらうのです。しかしこれは,口で言っても伝わるとは思えません。学校からの評価が「通知表」しかないのに,「それはあなたのほんの一部分だからね」などといっても説得力がないからです。やはり,日常的な評価活動が大切になってきます。それが,たとえば,学級通信であり,たとえば,授業中の教師の言葉がけであり,たとえば,授業感想文の交流だったりするわけです。

ある年の学級通信

 というわけで,U小時代5年担任をした時の「学級通信」の一部を紹介してみます。夏休み前に家庭に配布した学級通信には,次のようなことを書いています。

評価は多面的に!(通知票を相対化する)
 さて,5年生の1学期は,どうでしたか? 
「これはがんばったよ」
「こんなことができるようになったよ」
「あの勉強は楽しかったなあ」
「苦しんだけど,その分,成長したなあ」
というようなものはあるでしょうか。もちろん,学校の授業だけではなく,スポ少や習いごとの中でもいいですが…。
 学校から渡す「通知票」というのは,担任の私から見たみなさんの様子であり,極論すると,できあがった作品とテストの点数を考慮してつけたりしているだけで,みなさんのすべてを評価しているわけでもないし,そんなことできるわけでもありません。これまで学級通信で紹介してきた子どもたちの感想文や日記の中にも表れているように,子ども同士の評価というのもとても大切です。いや,むしろ,子ども同士でいいところ探しをしている方が,生きる力としては,より重要だと思っています。

 では,その具体例を紹介しましょう。同年の2学期の通信(同じ号)に掲載した子どもの文章です。(HP掲載にあたり,子どもの名前はイニシャルにしてあります)。

理科の討論   O.K  
 今日の理科の討論は,いつもよりおもしろかったです。
 理由は,Hが仲間になってきたからです。
 前の問題の時,かさが変わったから,今日の問題の「重さは変わるか」のとき,に,多くの人が「軽くなる」に○をつけていたので,「前の問題がきいたんだなあ」と思いました。
 DやFはてきだったけど,攻め込んだのでよかったです。
 答えが「変わらない」だったので,びっくりしました。
 Hがかわいそうでした。

○わたしの一言…Hのことを心配しているのが,おかしいです。だって自分も間違ったんだからね。ただ,Kは,どうもみんなと反対な予想を選んでいるような感じもあって,そのあたりの真相は明らかではありません。いずれにせよ,「かさが減るのに重さは変わらない」という実験結果は,みんなをびっくりさせたようですね。このときの授業記録は,3学期に発行するつもりです。そのときにまたみんなで授業を振り返りましょう。

へーへーへー   S.F 
 ぼくは,今日の自由勉強に「12月の日本の行事」を書こうと思ってカレンダーを見て書きましたが,「納(おさ)め」という字がたくさん使われていることが分かりました(例8日事納め,納めの薬師,18日納めの観音,21日納めの大師,24日納めの地蔵,28日納めの不動)。
 ぼくは,「納め」がたくさん使われているのは,年末だからかなあと思いました。

○わたしの一言…「漢字」のお話です。自主勉強にこんなテーマを選ぶのもなかなかのものですが,その中から,こういう共通性に気がつくってたいしたものですね。さすが,Fは好奇心の塊(かたまり)です。

評価はだれがする?

上掲書に素敵な文章(板倉氏のまとめの文)を見つけたので,長いですが紹介しておきます。

 私が評価について仮説実験授業のなかで発見したこと,それはつぎのようにまとめられるかもしれません。
 ひとはたえず自分や他人の考えや行動を評価して生きているのです。自分だけの評価のしかたのなかに,人びとは「自分らしさ」という個性を見い出しているといってもよいかもしれません。私たちは〈借りものでない,ほんとうの自分自身の評価基準〉にしたがって生きているとき,はじめて「自分らしく充実して生きている」という実感をもてるのではないかとも私は思うのです。しかし,そういう個性ゆたかな人だって,ほかの人びととはまったく無関係に,孤立して生きているのではありません。おそらく私たち人間は,「他人の目,他人の評価とはまったく独立に生きていくことはできないようにできている」にちがいありません。どんな人でも,他人の目,他人の評価を気にしながら生きているのがほんとうだと思うのです。自分の評価のしかたがほかの人たちとちがえばちがうほど,その人たちはほかの人からの孤立をおそれているといってよいでしょう。だからこそ,そういう「ほかの人たちにも,自分の考え,評価のしかたをなんとかして理解してもらおう」という努力をはじめたりするのです。それが話し合いとなり,科学や芸術の創造を生みだすのだと思います。
 評価というものは,それほど私たちの生き方にとってたいせつなものなのです。人は,よく「他人がどのように評価しようとも」などといったりします。しかし,そういう孤立したがんばりはなかなかつづかないのです。だから,科学にせよ,芸術にせよ,「個人が生みだす」というより,社会が生みだすという面が強くなるのでしょう。評価のしかたによって,人間は自信をもったり,自信をなくしたりするのです。社会や教育が人びとの生き方にまで干渉できるのは,評価の画一化によってであるといえるでしょう。だから,私は,学校での評価を,毎日の授業のなかでの評価を問題にしなければならない,と思うのです。

(上掲書,47~48ペ,黄色線は引用者)

 今回紹介した板倉聖宣氏の言葉,あるいは,わたしの経験が,現場での通知表をつけている時のモヤモヤ感や,人の評価に怯えながらも自分らしさを失わずに進んでいきたいと願っている若者たちに対して,少しでも心のゆとりになれば幸いです。

尾形正宏
2023/07/15 記

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