本レポートは,わたしがまだ教員3,4年目のときに,上から強制されて,県の「小学校教科課程研究会」(いわゆる文部教研)で発表したものです。発表で取り上げる内容を考えていたときに,K先輩からの「どうせやるなら仮説実験授業で書けばいい!」という後押しがあって,書き上げ,発表したものです。参加報告も付けておきます。
なお,ページには,本レポートのような「仮説実験授業を紹介する場合」の「まとめ方」をまとめておきましたのので,興味のある方はそちらのレポートもご覧下さい。
珠洲市立蛸島小学校(当時) 尾形正宏
研究仮説
○科学上の基礎的な概念・法則 (常識的判断と対立する側面を持ち、しかも科学上の概念の方がはるかに有効であるもの)を基本にした指導をすると、子供たちは科学のすばらしさをとらえ、 科学の勉強を楽しむようになる。(常識から科学へ・ 1)
○授業には法則性があり、 多数の授業実践を経て作成された授業プランに従って授業をすれば、だれでも一定の成果をあげることができる。(授業研究の一常識から科学へ・2)
1 単元
3 花から実へ(啓林館6年上『理科』 30ペ~41ペ)
2 単元について
「花と実」に関連する単元は,
1年 「はなのたねをまこう」「はながさいた」「きゅうこんをうえよう」 2年 「くさ花をそだてよう」「たねができた」 3年 「アブラナの花」「わか葉のきせつ」「夏の草木や虫」 4年 「ジャガイモの育ち」 5年 「たねの発芽」 6年 「花から実へ」
となっている。このなかでも「花から実になる過程に注目している」のは,3年「アブラナの花」と6年「花から実へ」である。これらの単元の目標を指導書で見てみると、
3年 つぼみから花が咲いて実ができるまでの様子を調べ,花のつくりを理解させる。 ア 花には,がく,花びら,おしべめしべなどがあり,めしべのもとが膨らんで実になること。 イ 花には,形やつくりの似ているものがあること。 (文部省『小学校指導書理科編』大日本図書,1978年,48ペ~49ペ) 6年 花から実ができるときの様子を調べ、 受粉と結実との関係を理解させる。 ア 花粉が柱頭につくと,結実し種子ができること。 イ 受粉には,虫,風などが関係していること。 (同上書 94ペ)
となっている。この目標にそって同教科書6年「花から実へ」で
(1) カボチャの花のつくりは,どのようになっているだろう。
(2) カボチャの花のおしべとめしべは,どんなところがちがうか調べよう。
(3) 花粉を顕微鏡で調べよう。
(4) 花粉は,どんな役目をするのだろうか。
(5) 花粉は,どのようにして,おしべからめしべへと運ばれるのだろう。
(6) 受粉しないと実ができないことを確かめよう。
(7) トウモロコシでは、花粉はどのようにしてめ花まで運ばれてくるのだろう。
という学習を組んでいる。 配当時間数は9時間である。
しかし,ここには子供たちの「常識的直観的判断と対立する側面」が少なく,『花から実へ』という科学の世界へ案内するには不充分である。
たとえば,子供たちが持っている「花」の概念は,「美しい花びらを持っているもの」というものであろう (もっとも大人だって普通はそう思っている)。
だから,突然
『トウモロコシにも,お花とめ花がある。お花・め花とも花びらがないので目だたない。また,みつもないので,こん虫が受粉のなかだちをしない。(同教科書38ペ)』
なんて言われても,ピンとこないのである。いつのまにか科学上の花の概念を押し付けているのである。
それでは,どのような指導をすれば「常識的な花」を科学上の概念にまで発展させることが出来るのだろうか。
3 研究仮説
その1 科学上の基礎的な概念・法則 (常識的判断と対立する側面を持ち、しかも科学上の概念の方がはるかに有効であるもの) を基本にした指導をすると、子供たちは科学のすばらしさをとらえ、 科学の勉強を楽しむようになる。(常識から科学へ・ 1 )
ここでいう 「科学上の基礎的な概念・法則」 とは、 『花から実へ』 ということである。このことは子供たちにとって自明のこととはいえない。「花が咲いても実ができない」「花がなくても実ができる」と思っているのである。 実際、ボクも「チューリップに種はできるか」 「イチジクは無花果と書くが、本当に 『花は無い』のか」と聞かれ、全く自信が無くなったのである (これは、ボクの受けてきた教育の結果であろう)。
この「花から実へ」という法則の知識も、常識的直観的にいって必ずしも自明ではありません。そこで、その知識の有効性は子どもたちにとって一つの新しい世界をひらくことにもなります。
板倉聖宣「授業書〈花と実(たね)〉 とその解説」 「仮説実験授業研究1』 147 ペ
「一つの新しい世界をひらく」 といっても、 「キミたちの花の概念は間違っているんですよ。 本当は * * を花と呼ぶのです」 という指導では無理であろう。 これでは、子どもたちを 「科学というのは、やっぱりわけのわからないものだ」という状態に追いやるだけだろう。では、どのような指導がそれを可能にするのか。この問い掛けに対して板倉氏は次のように述べている。
(たとえば) 子どもたちにイネの花をも花と認めさせるためには、彼らの花の概念をかえてやる必要があります。ただし、その場合、「科学上の花の概念は常識的な花の概念とは全く別のものだ」などといって、2つのものを切りはなして教えるのはよくないでしょう。それでは、せっかくの常識的な花の概念が死んでしまいますし、科学というものは常識的な直観を足場にしながらそれを乗りこえていくものだという観点が見失われてしまいます。ですから、子どもたちの常識的直観的な花の概念をもとにしながら、花びらよりもメシベ、オシベに着目した花の概念の方がずっと有効であることを感得させ、科学上の花の概念へと発展させる必要があるでしょう。
板倉聖宣「〈花と実〉の仮説実験授業」 『科学と仮説』 112 ~113ペ
「せっかくの常識的な花の概念」を大切にしながら、「科学上の花の概念」の有効性を「感得させようというのだ。 そして、それは「花びらよりもメシベ、「オシベに着目」せざるをえない 「授業」 を組織することにより可能になるというのである(授業書の内容は 5)。しかし、こんな授業を一人の教師が踏ん張って開発するのは、無理とはいわないまでも大変な労力を必要とするだろう。そこで、次の研究仮説が意味を持ってくる。
その2 授業には法則性があり、多数の授業実践を経て作成された授業プランに従って授業をすれば、だれでも一定の成果をあげることができる。(授業研究の一常識から科学へ・2)
今までの「授業研究の常識」とは、どんなものであるか。「個性ある授業をしなさい」「一生懸命勉強して授業が上手になるんだぞ」「ベテランの授業は、ベテランじゃなければできないのだ」などと言われた経験はないであろうか。「研究授業」 とその「協議」を行った後で、何かムナシイ気持ちになったことが度々ある。このムナシサはどこからくるのだろう。それは、「授業の法則性などない」とする「授業研究の常識」が教育界を支配していた(いる)からではないのか?
「教育界の研究成果たるや,はじめから「他の人々が安心して利用できる知的財産」を目ざそうとしていないのである。「私だからできた授業一あなたにはちょっとムリ」「本校だからできた指導一なかなかマネができない」このようなにおいがプンプンしている。むしろ,他人のマネを許さないような個性あふれる工夫された授業をこそめざしているように見うけられる。
塩野広次「楽しい授業の創造をめざして」『科学入門教育研究1』 35ペ
「他人のマネを許さないような個性あふれる工夫された授業」をめざすのだから、それが、「他人」にとって僅かな価値しかないのは当然のことである。もちろん、子どもの実態や地域差 教師の性格などが授業に与える影響は大きい。しかし、だからと言って「『授業の法則性』 など存在しない」とするのか「存在しない」ということであれば,「授業研究」の意味がなくなる。各個人が、それぞれ自分の個性や能力にあわせて授業をつくっていかなくてはならないことになる。
さて,こういう「授業研究の常識」から「科学的な研究のありかた」 をさぐるために、まず,「研究とはなにか」を確認する必要がある。
科学の世界では 「私,こんなことを研究しました。これは,私しかできない実験よ」などということは,全く通用しない。「だれでも安心して使える」のでなくては,社会的にいって価値がないのである。 社会的認識のない科学はないからである。 研究したって、なんにもならないのである。であるから、科学的な研究というのは、
『他人が安心して利用できるような知的財産としてたくわえる社会的ないとなみ』 (同上書 35ペ)
なのである(これを無視した研究を研究と呼ぶのかどうかは知りませんが)。
では、「他人が安心して利用できるような知的財産として」の『授業の法則性』というものは本当にあるのだろうか。
※
板倉聖宣氏の提唱している仮説実験授業研究会では『授業の法則性の存在』を前提として研究を進めている。その研究成果は「だれにでも安心して利用できる『授業書』」としてまとめられている。また、その授業運営法も「科学的な認識を身につける方法」として提示されているのである。
ここでは,この研究の成果に学び,より確実なものとするため,授業書〈花と実〉を使って授業運営法に忠実な授業をしようと思う。
※
「仮説実験授業とは、どういうものか」
仮説実験授業 (かせつじっけんじゅぎょう)
科学上のもっとも基礎的一般的な概念・法則を教えて,科学とはどのようなものかということを体験させることを目的とした授業理論。
この授業法の理論的基礎は主として次の2つの命題におかれている。○科学的認識は,対象に対して目的意識的に問いかける実践 (実験)によってのみ成立し,未知の現象を正しく予言しうるような知識体系の増大確保を意図するものである。
○科学とは,すべての人々が納得せざるを得ないような知識体系の増大確保をはかる1つの社会的機構であって,各人がいちいちその正しさを吟味することなしにでも安心して利用しうるような知識を提供するものである。
板倉聖宣著 『科学と仮説』(季節社,1971)
この理論的基礎を受けて実際の授業書は次のようになっている。
【質問】…経験をたずねたり,知っていることをだしあったりする。気軽に考える。 【問題】…ここではしっかりと自分の予想を立ててもらう。「対象に対して目的意識的に問いかける」ためである。 選択肢は [問題]の意味をはっきりさせ,論点をしぼる。また,予想分布表を黒 板に書き自分の社会的位置を知る。 [討論]…他の意見とのたたかいである。発表の強要は絶対しない。つまり,発言しない自由を認める。討論のあと,予想変更を聞く。 [実験・観察]…どの予想が正しかったかを決めるためにする。結果の解釈はいっさいしない。 【お話】…視野を広げたりする。読んで説明する。 【研究問題】…興味のある人がやる。学級の雰囲気によっては,取り上げてもよい。
4 仮説の検証
ズバリこの授業の成功の基準を次の2点におく。
○クラスの過半数の子どもがこの授業を「おもしろい」「楽しい」ということ 少なくとも「つまんない」「いやだ」という子どもが例外的にしかいないこと(9割主義 その1) ○授業後のテストで,クラスの平均点が90点以上であること(9割主義 その2)
以上の基準は,仮説実験授業の研究の進めかたの一環である。この9割主義について,板倉聖宣氏は「人間に完全を要求するな」 ( 『科学と方法』 261~262ぺ) と言っている。
5 授業計画
授業書〈花と実〉による授業には,18時間程度を当てたいと思う。「程度」というのは,仮説実験授業では授業の進度は子どもにまかせてあるからである。前述したように同教科書では9時間の時間配当である。あとの9時間は,ゆとり,学級会の時間を当てたい。「植物の分類についても視野を拡げよう」というねらいもあるので、それだけの価値はあるだろう (学習指導要領「3年A (2) イ」をさらに深める 2)。
なお,授業の「観察」において実物を持ち込めないものについては,研究会が準備しているスライドを用いる。
「授業書〈花と実〉の構成」(ここでは,省略)
6 授業記録(ネットでは省略)
付属の資料を (1ペ~16ペ)。 飛び飛びにしかないのは,ボクが書きたい時だけ書くからである。 授業の雰囲気は掴めると思うが…実際の授業時間は16時間であった。
7 評価
4で述べた2点についてしめす。
■1について・・・1時間ごとに感想を書いてもらった (資料3ペ~10ペ)。ここでは,単元終了後の感想から評価する。
[問い1] 〈花と実〉の授業は,楽しかったですか。 5 たいへん楽しかった。 25名 4 楽しかった。 8名 3 ふつう 1名 2 あまり楽しくなかった。 0 1 サッパリダメ。 0
[問い2] カシコクなったと思いますか。 5 たんへカシコクなった。 17名 4 カシコクなった。 14名 3 ふつう。 3名 2 あまりカシコクならなかった。 0 1 全くかわらない。 0 (詳しいことは資料17~24ペ[ネットでは省略])
2について…クラス平均点は約91点。
以上の結果より,授業書〈花と実(たね)〉による授業は成功したと判断できる。
8 まとめにかえて
「観察・実験を通した問題解決指導の工夫について」というのが,与えられたテーマである。さて,このテーマにどう近づけただろうか。「工夫」といっても何もしていない。たまに学級通信で「授業記録」を紹介したり,「学習新聞」をつくって学習のまとめをしたぐらいである(資料25ペ~28ペ,ネットでは省略)。ただ仮説実験授業を「仮説実験」的に行っただけである。それでも子どもたちが支持してくれる授業になったのである。これは将に『授業の法則性』があることの証明であろう。「問題→予想→討論→実験→問題」というプロセスが科学的認識を保証するのである。
いま個性化が叫ばれている。ボクは『個性化は授業の中でこそ実現できる』という仮説を持っている。CAIなど,完全に否定する気はないが,どこか気持ち悪い。この仮説の検証は,これからの研究である。
ここでは,次の2つの文を紹介して,このレポートをおわる。
画一化教育の批判から生れたはずの個別化学習が,教師の仕事を以前にもまして単純で機械的なものにすると同時に,子どもの学習をも厳密なプログラミングに従って遂行される画一的で機械的なものにしてしまうというのである。
柴田義松 「いまなぜ教育の個性化が問われるか」 『算数教育・1986年8月号』 7ペ
「問題解決学習」というのが,「個性化」の手段のように考えられやすいがここでも,さまざまの解き方が閉じないことが基本だろう。 さまざまの生徒が,自分だけで閉じて、,勝手なことをしていても,それは彼の世界というだけで,個性的でもなんでもない。 異質なものがあるから,個性と言えるのである。個性というものは,他者を理解することなしには成立しえない。…(中略)… 仮説実験授業の討論は,それぞれの考え方の個性をきわださせる方向というのがおもしろい。
森毅 「個性化の原理」『算数教育・1986年8月号』 18ペ~19ペ
※
このレポートを書くにあたって (塩野広次 「楽しい授業の創造をめざして」 『科学入門教育研究1』 29ペ~41ペ)をスゴク参考にしました。
参考図書ー詳しい事を知りたい人へー
- 文部省著『小学校指導書理科編』 (大日本図書,1978)
- 『6年上新訂理科指導書第2部 「指導と研究」』 (啓林館)
- 仮説実験授業研究会編 『仮説実験授業研究 1 ~ 12』 (仮説社)
- 『月刊 たのしい授業』 ( 〃 ,1983~)
- 板倉聖宣著『仮説実験授業のABC』 (〃 ,1982)
- 犬塚清和編『科学入門教育 1 ~ 10』 (つばさ書房)
- 板倉聖宣著『科学と仮説一仮説実験授業への道』 (季節社、1971)
本レポートの発表時の質疑応答などについて,後ほど,わたしは「小学校教育課程研究発表報告にかえて」と題してレポートを書き,珠洲市理科部会で感想(報告集)を発表しています。次ページでは,それを紹介します。
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