本レポートは,新勤務校で行われていた〈自問清掃〉の違和感についてまとめ,職員に配布したものです。反響はあったのかなかったのか…。最初,あまり変化なく過ぎましたが,掃除には少しずつ教師の指導が入るようになりました。現実に合わせたという感じになったかな。今(2022年)でもやっている学校があります。ちょっと立ち止まって考えてみませんか。
あなたの生徒さんたち,本当に自主性はついてますか?
2007.12.15
尾形正宏
なじめない「自問清掃」
本校で,以前から取り組まれているという「自問清掃」。まだまだなじめずにいます。
なんで,こんなことに取り組んでいるのか。そもそも,自問清掃をやれば子どもがどうなるというのか。分かるようで分からない。
そんな私の抱いている違和感をいくつかあげると,
①6年生になっても,掃除のやり方を知らない子どもが多い。
②掃除場所がきれいにならない。それでも「掃除をやっている」と言えるのか。
③「子どもの自主性」といいながら,教師が子どもを評価している。
④自問清掃の結果,どんな子どもが育ったのか? あるいは育つと思っているのか? 「自問清掃」による本校の子どもと他校の子どもとの違いはあるのか?
などです。要するに,私には「自問清掃」のいい点は見えないで,悪い点ばかりが目につき「子どもが育っていない」と思うのです。「自問清掃」で培った結果が,あの入学式や集会でのザワザワにあるとすれば,その「自主性」という中身を疑いたくなります。
そこで,学校にあった『自問活動のすすめ』(第一法規,1991)という本を読んでみました(2学期の途中で係から紹介された本です)。何か解決の糸口が見つかるかも知れません。
『すすめ』は,「自問活動」を考案した竹内隆夫氏が書いています。彼によると,
今日,この案(自問活動)に共鳴し,実践しつつある諸兄が数県に広がりをみせ,同好会も結成され,それぞれに成果をあげておられる。しかし,これに対して「管理教育ではないか」とか「放任主義であろう」などと,全く両極の批判や誤解が生じている。また,「自問清掃」とよびながら,生徒に無言を強制し,逆に反感をつのらせたりもしている。まことに不本意で困った現象なので,考案者としてあらためてその趣旨と原理を明らかにする必要と責任を感じていた。
「あとがき」『自問活動のすすめ』(第一法規,1991)
と,「自問清掃」という言葉が一人歩きをして,一部では偏見の目で見られていることを指摘しています。どうも<「自問清掃」をやるだけでうまくいく>という代物ではないようです。というかわざわざこういう本を書くところをみると,考案者から見て「それは自問清掃ではないよ」という実践がたいへん多いのだと思います。
「自問活動」でめざすもの
それでは,竹内さんは,この「自問活動」で何を目指したいのでしょうか。それも「あとがき」から引用します。
大切な自主自立の心,公徳心や感謝の心,意志力・創造性・情操など,だれがどこで育てようとしているのであろうか。どうすればその人間らしさが育つのか。打開の道は険しいが,まず人間である自分を見つめさせ,真に学ぶことの意味とその喜びを把握させたい。友情や人間らしい気働きの育つ場を保障してやること,そしてまず「させられる」から「する」生活に変えてやることであろう。
『同上書』
この「友情や人間らしい気働きの育つ場を保障してやる」ためには,教育の中にどんなものを設定してあげなければならないのか? それについては,以下のように述べています。
道徳性の向上をどのように設定したらよいかが課題となるであろう。その骨子をイメージしたものが次のような内容である。
『同上書』
○短時間であっても,毎日向上をめざす実践活動の時間を設けたい。
○集団活動の中で互いに気働きが育ち,成長が認め合えるものにしたい。
○脚下照顧,目標をしぼって自分の行為をつねに自問し,心の高まりが自覚できるものにしたい。
○させられる活動でなく,自発的行為とするために,作業の量や結果の正否は問わない時間にしたい。
○教室における道徳の授業は,その行動を見かえす時間とし,互いに啓発し合い,明るく明日の実践に結びつくものにしたい。
そして,その「自問教育」の5段階(著者は,必ずしも決め決めではないがとことわっているが)も示しています。( )の中は,「本校の自問清掃では,それがどの行動にあたるのか」を書いてみます。
①人の迷惑に気づき,心にブレーキを持つように努めること。
(掃除中は,話をしない。人の迷惑になる。自分が掃除する気がなかったらその場に座る。しゃべっている子がいたら,教師は肩をかるくたたいて,しばらくその場に座るように言う。「ねばり玉」を磨く段階)
②公徳心の欠如から人の気持ちがくみとれるようになるため,まず友達の心がくみとれる人になるように努めること。
(黙っていても,さっとちりとりを準備してあげられる。だれかが困っていたらいっしょに机を持ってあげるなどの行動ができる。「親切玉」を磨く段階)
③気働きをよくし,創造発見の力を伸ばすことによって有用感・存在感を覚えさせるようにしたい。
④日ごろお世話になっている人や物への感謝の気持ちがどの程度かを行動で確かめるようにしたい。
(③も④も,「他にやることはないか」を進んで発見する段階。人から言われなくても自分から進んでやることで,発見できた喜びを得る。「発見玉」を磨く段階。)
⑤見かけを気にしないで正直に行動できるようにしたい。
竹内氏は,この5段階を一度に追求するのではなく,順を追って目標を達成し,次の趣旨を説明するとよいと言っています。その点でも,本校の場合は,一気に三つのことを要求していることになります。
「掃除」か「自主性」か
自主性を育てるとなれば,どんなに根気比べになっても,じっと自発性の出るのをまちつづけることにしなければならない。そのためには到達度とか成果への期待などは二の次とし,いっさいを捨ててかからねばなるまい。あくまで人間の行為にするためには彼らを信じ待ちに徹する場にしたい。(52ぺ)
ある新任教師は ,数十日間この宣言を守り,子どもと共に黙々と働き続けたところ,ある日突然子どもから,「先生,僕らがやれるよ」と能動姿勢に変わり,躍り上がるほどの喜びを覚えたという。教育における信頼とは,待つことに耐える悲しいかけなのかもしれない。だが,教育のみのもつ醍醐味は,きっとその先に現れてくるものである。(78ぺ)
休む者が多いと,時間内で作業は終わらないが,未完成でも,次の授業に迷惑をかけない配慮から,終わりの合図でいっせいに用具の始末に移ることにする。そのためひととき教室など汚れる時期があるが,あくまで清掃は手段であって,心の制御を優先する目的と考えれば納得できることである。(80ペ)
『同上書』
これらの意見を読んで,どう思われるでしょうか?
「到達度とか成果の期待を二の次」「あくまで清掃は手段である」とするのですから,掃除のあとが少々きたなくても仕方がないのです。実際,うちの学校では,掃除のあとでもあらゆるところで手抜きがあります。その部分について教師が気づいて掃除をやっているのです。でも,竹内氏がいうとおり,いつかは子どもたちが率先してやるようになるのでしょうか。私がこの学校に来てからでさえ,もう数十日どころか100日以上たっているのですが…。
また,「子どもたちをみていて評価する」というのも,この方向からすると変な感じがします。子どもはしゃべりたいからしゃべっている,発見できないから発見しないだけなのに,それを「ねばり玉が磨けていない」とか「発見玉が磨けていない」と評価するって,「教師の待ちの姿勢」とどう両立できるのでしょうか?
一方,この「自問清掃」に対する反論もあることを指摘し,さらにそれに対して再反論を述べています。
しかし,従来の清掃の考え方からみると,奇異に感ずることから敬遠され,実施してはみるが,定着せずあきらめる学校も多い。例えば,教師からの指示をしないとか,汚れたまま終わりにするとか,必要な連絡もできないなど理解しがたい点も多いであろう。注意をしないのは放任にみえるし,黙ってやるのは強制されているように思うかも知れない。が,どの段階でも強制力が働いたのでは自発行為にはならない。自発的に高まるから喜びがふくらんでくるのである。(97ぺ)
『同上書』
この部分がどう理解されるのか,されないのか。掃除なのに掃除を第一の目当てとしないということの共通理解は,なかなか難しいものがあります。ただし,「自発性」が本当に生まれてくるとすれば「待つ姿勢」も大切だとは思いますが…。
疑問に思うかどうかは,「自問清掃」の成果が学校生活のあちこちに見えるかどうかだと思います。
残念ながら本校1年目の私には,まだそれが見えていないのです。むしろ,これがマイナスに働いているような気もするのです。だから,疑問がわき上がってくる。こんなことぐらいなら,少々強制してでも「教室がきれいになる」方がいいのではないかという思いが,捨てきれないのです。
「縦割り」か「クラス別」か
一般的に,掃除に「縦割り」を活用するためには,6年生がしっかりと掃除のやり方を知っており,率先して働くようになっていなければいけません。そうじゃないと上級生がいばりちらしたり,下級生が上級生に対して不信感を抱いたりして,マイナスの効果を生みます。なんでも,「型」だけ取り入れても,うまくいかないのです。
それでは,自問清掃ではどうでしょう。本校は縦割りでやっていますが,その意義はあるのでしょうか。竹内氏は,「自問清掃」を縦割りでやることに反対し,次のように言います。
縦割りの形にさえすればよい結果になると考えるのは甘すぎます。その前に,すべての子どもに下級生の模範になれるような教育をする方が先でしょう。ここでは縦割りにしないで,全員の人間性を高めることから始めようとしたのです。縦割りで協調性を育てようとするなら,楽しいスポーツや遊びの方が適しているのではないでしょうか。
p.141『同上書』 下線は尾形
同感です。自問清掃の意味が理解できない低学年を前に,ただ座っていたり,箒だけをもってまったく雑巾をしない高学年がいるようでは,マイナスですよね。自問清掃は,同学年から…がいいようです。ただ,もしそれが達成されているのなら,縦割りでも可能かも知れません。
名言集
ここで,すこし休憩。竹内氏が本書で取り上げている「名言・格言」を紹介してみます。
・ルソーは,すでに今日を予言し「教育の目的は機械を作ることではなく,人間を作ることだ」と述べている。
同上書
・人は考えることよりも行うことで自己を知る(ゲーテ)
・「君が友達からいやらしいと思われるその点を伸ばしたまえ。それが君なのだから」という哲学者コクトーの言葉をかみしめたい。
・できる人間はする。できぬ人間は教えたがる。(バーナード・ショー)
・千代の富士関がNHKのインタビュー「あなたは大鵬関のような人を目標にしているのですか」と尋ねられたとき,「いや,まわりの仲間から学び,明日の一番一番を大切にしているだけですよ」と答えている。ここに道徳教育の要諦が示されていると思う。
・教育の目的は知らざるを知らせることではなく,新しい行為ができるようにすることである(ラスキン)
・かつて遠山啓氏は学校における教育の役割を「術」と「学」と「観」の三つに大別し,いま,最も必要でありながら欠落しているのが「観」の教育であると言った。観とは人間としての生き方,すなわち,人生観を追求する学習のことである。
・教育の目的は児童を自主・自治の人にすることである(スペンサー)
・体験は百万の他人の経験より値打ちのある財産である(エマーソン)
・人生の目的は知識ではなく行動である(パスカル)
・自分に何ができるかは自分以外のものにはわからない。自分もやってみなければわからない(エマーソン)
・自分で歩かなければ道のけわしさはわからない(王陽明)
・千度戦場に出て千人の敵に勝つよりも,ひとり己に勝つ者こそ最上のつわものなり(釈迦)
ここには,あたまでっかちになることを諫めるような言葉ばかりが並んでいます。何を言おうが「行動に現れなければ本物ではない」と言いたいのでしょう。道徳的な実践力が身につくことを期待しているのです。しかも,その実践力はあくまでも本人の意志によるものでありたい。人目を気にしてやるのではなく,進んでやるという態度に期待しているのです。さて,そういうことが可能なのかどうか…。
自問活動の効果
自問活動が成果を上げてくるとどんな子どもになるのか。「自問の効果」として竹内氏は次のように述べています。
第1段階で,おしゃべりが迷惑だということが,行動として分かるようになれば授業中の私語は消えてしまいます。清掃中ひとりで集中できるようになれば,注意されなくてもみんなが静かに自習ができるようになるし,家庭でもテレビのスイッチを切って学習に取り組む子どもに変わるでしょう。また,チャイムまで仕事を見つけ続ける力は,用紙やノートの使い方の工夫や文章題を注意深く読みとるなど,学習の細部まで生きて働いてくるものです。
p.164『同上書』
いったいこんなことまでほんとうにできるようになるのか。もしこんなことができるような子どもがあるのならば,それは,「自問清掃」のおかげではなく,もともとそういうタイプの子どもたちだったのではないか。うちのクラスの子どもたちは,この姿勢とは正反対。私語だらけ,です。今までのどの6年生よりも,静かにできない子どもたちです。
自分のクラスをみて,それがすでに6年生であり,6年間,自問清掃と共に過ごしてきてハズだということを考えた時に,本当に「自問清掃」でいいのか,疑問が残るのです。
ただ,めざす方向は立派なのです。しかし,それは「風が吹けば桶屋が儲かる」ほどの関連性があるのかないのか。小学校の子どもたちに,しかも縦割りで「自問清掃」をしていて,何が身につくのでしょう。それを一つ一つ明らかにしなくては,自主性どころか,掃除のやり方さえも身についていない卒業生を出してしまうことになります。
結論はないのだが
では,今後どうしたらよいと考えているのか,と言われても,実はまだよく整理できていません。
ただ,一番最初に書いた,違和感については,次のように考えます。
①6年生になっても,掃除のやり方を知らない子どもが多い。
これは,掃除の仕方をしっかり教えてやらなければならない。だから「自問清掃」をはじめる前に,各クラスで,あるいは,掃除場所の担当者が掃除のやり方を教えるべき。家庭でそれがなされていないのなら,学校でやるべきではないか。
②掃除場所がきれいにならない。それでも「掃除をやっている」と言えるのか。
自問清掃をやるのなら,これについては我慢をするしかないだろう。気になるところは教師がやるしかない。そして,その教師がやっている姿を見て,子どもが「自発的」になるのを期待するのである。でも,本当にそれでいいのかは疑問が残る。
③「子どもの自主性」といいながら,教師が子どもを評価している。
子どもが今どの段階なのか,ときどき感想を聞くことはあってもいいが,通知表にそれを入れるというのはどんなものだろう。本人にさえ「軽くほめる程度にしろ」(竹内)っていうのだから,通知表には入れないほうがよい。自問清掃を大切にしたいのなら,なおさら評価からはハズすべき。ほめられるためにする活動となってしまう。
④自問清掃の結果,どんな子どもが育ったのか? あるいは育つと思っているのか?
残念ながら,私にはまだ見えない。本書で語られている子どもの姿と,本校の子ども(特にうちの学級の子ども)とはあまりにもギャップがある。自主性も育っていないし,教室もきれいにならないという状態をいつまで続けるのか。どこかで方向転換が必要だと思う。
教育は「スローガン」では進められない
永遠のスローガン
教育には,いろいろなスローガンがあります。
「子どもたちに,わかる授業,たのしい授業を」
「子どもたちの自主性を伸ばそう」
「思いやりのある子どもたちを育てよう」
などなど。
でも,そんなことは,どだい無理な話だということにも,みんなうすうす気づいているハズです。まあ中には「オレにはできる」と思う人たちが「自主研修」と称して,自校独自の研究をしたがるのかもしれません。そして現場は忙しくなって,あまりいい成果は期待はできない。疲れだけが溜まってくる。だって,今まで多くの学校がそういう取り組みをしてきたのに,うまくいったという話はほとんど聞かないのだから…。
こんなスローガン(学校教育目標ともいう)は,それこそ日本では100年前から唱えられてきたことです。なのに,なぜ今でもこういうことが「目標」とされるのか。
それは,その「目標」を実現するための「方法論」がないからです。達成のための「方法論」がないから,これらの目標は教育界では「永遠の課題」なのです。
一方,「日本の子どもたちの識字率を高めよう」という明治政府のスローガンは,しっかり達成できました。それは,そのための「方法論」があり,試行錯誤しながらも,実践し,それが成果をあげたからに他なりません。だから,今,「本校の子どもたちに読み書きを」などというスローガンは生まれようもありません。最近はやりの「読解力」なら,これからでしょうが…それも本当かな…と,実は思っています。
大切だからこそ,評価してはいけない
もし,もし,私たちが「目標」を持って,具体的なとりくみをしていこうとするならば,その目標に向けて成功したという実践例を研究し,「方法論」を学び取ることが先決です。なんでも本校独自というのは「科学的な研究態度」ではありません。
では,すべて(8割以上)の子どもの「自主性」を育てられたという実践例はあるのでしょうか? 私は寡聞にして知りません。もしあるのなら教えてほしいものです。
しかし,もととも私は「自主性そのものを育てよう」という目標自体に,うさんくささを感じるのです。そんな目標が達成されたと評価することはできるのでしょうか? 「自主的」に見えても教師の顔色を伺っているだけかも知れない。いや,教師の顔色をうかがって行動できること自体が自主性の一部であると言える-とも考えられます。「自主性」や「意欲」などというのは,人によってどうにでも捉えられる分,本当は評価などできないのです。
しかし,人間性とか創造性とか意欲というものはどんなものか,ということについての考え方は人によってかなりの違いがあります。知識や技能は客観的に評価することができても,人間性とか創造性とか意欲といったものは客観的に評価することは困難です。たとえ客観的に評価できるとしても,その評価の基準が明示された途端に,その評価基準によって高く評価されることを目指す子どもたちが現れることによって,子どもたちの人間性や創造性や内からの意欲というものを破壊するような恐ろしい結果をよびおこす危険性さえあります。
p.219,板倉聖宣著『教育評価論』(仮説社)
だから,私たち大人は「あなたは自主的ですね」など「評価する」必要はない。本当の自主性(教師からの褒美を期待しない)を子どもたちに身につけてほしいと思うのならば,なおさら,その点については評価すべきではない,と思います。
だから「自問清掃の評価」は必要ないでしょう。それを繰り返すことで,「先生に評価されよう」とする子どもたちを作ることになります。逆に,そんな教師の評価を気にしない子どもたちの方が「自主性のある子どもたち」ということも言えるでしょう。
大人のいう「自主性」が「大人の思う方向に自分で動いてくれる子どもの姿勢」のことを指すことがあまりにも多いと思いませんか? 本当にそれが「自主性」でしょうか?
スローガンから離れて
自主性云々ということについて,現状としてはスローガンにあっても仕方ないと思います。これは今の教育界の限界でしょう。
じゃあ,私たちはどのような教育活動を展開すればいいのでしょうか。
それは,スローガンにとらわれることなく,日々の授業や活動を子どもたちの満足のいくものにしていくことです。
①授業方法を学び,実践記録を読み,知的な授業にする。
②やってよかったと感じる学校行事,児童会行事を創造する。
もう,これしかありません。それこそ,他のことは2の次でしょう。この①,②をめざす方法ならば,その方法論はいろんなところに先行実践として転がっています。やる気さえあれば見つけられます。まずは,その教材の指導法という文化遺産を学ぶことから始めましょう。自分たちで作り上げるというのは,あまりにも時間がもったいない。
今,目の前の子どもたちに大切なのは,先生のオリジナルな実践ではなく,よりわかりやすくたのしい授業なのですから。
再度,自問清掃について
最後にもう一度自問清掃について…。
今の気持ち,正直,どうすればいいのか分かりません。
ただ,自問清掃のめざす子ども像(スローガン)は分かるのですが,それが本校で行われている(あるいは本で紹介されている)「方法論」でいいのかどうかが判断できないのです。一応,こうすればいいという「方法論」は示されているのですから。
いずれにせよ,来年度の方向を決めなくてはなりません。
「たてわり班の導入は,自問清掃に向かない」
と考案者の竹内氏が言っているのに,本校ではそれを進めていくのか?
「こんな子どもを作りたい」と思っていれば「こんな子ども」ができるのではない。
本校のいろんなとりくみをみていて,
「方向は立派」でも「子どもはついてきていない」
と感じる9ヶ月でした。
ん~ん,結論のない文章だったなあ。
思いのまま書いたと言うことで,堪忍してね…。
平田治著『子どもが輝く「魔法の掃除」―「自問清掃」のヒミツ』という本もあるようです。これは,若い教師の実践例。著者は,竹内氏と同じ長野県の教師です。冬休み中に読んでみます。学校で買わないのかな?
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