常識から科学へ…仮説実験授業《花と実(たね)》による授業

レポート綴

小学校教科課程研究発表報告にかえて

蛸島小分会 尾形 正宏

 ボクが書いたレポート「常識から科学へ」 に対して、いろいろな意見やら感想をもらいました。 ここでは助言者の意見 (まとめ?)にそって、 ボクの考えを書いてみたいと思います。

〈あの場での質問とボクの答え〉

質問A 「カシコクなったか」 というのがありますが,先生は子どもたちに「どんなカシコサ」を要求して言っているのですか。子どもたちは、いろいろに考えるのではありませんか。
ボク このアンケートは、テストの前にやりました。子どもたちが「カシコサ」をどう考えるかは、それは子ども次第です。「発表できるようになった」と考える子もいるだろうし「いいことを知った」と考える子もいると思います。「この授業をしてよかったなぁー」と思うかどうかじゃないかと思います。
質問B それでは、先生の考える 「カシコサ」って何ですか。
ボク 科学の探求の仕方を身につけること。また,そんな自分に対して「オレもまんざらではないわい」と自信をもつことです。

 助言者というのは,割と一方的に「まとめ」をします。特に、官制の方はそういう傾向が多分にあります。この教科課程はボクらの仲間で「文部教研」と呼んでいるほど体制べったりです。そういうわけで,助言者の意見に対してボクの答える時間など用意されていないのです。だから、ここで答えておきたいと思います。

〈助言者の「まとめ」とボクの意見〉

助言者 仮説実験授業の授業書を中心にした実践ですが,何でもそうですけど,短所と長所があると思います。

長所としてあげていると思われる点

教師の勉強と言う面では、とてもいい。
 確かにボクにとって,今一番ためになっているのは仮説実験授業である。これからもそれは変らないと思う。だから,こういってくれるのはうれしいのだが,どうもひっかかるところがある。それは「子どものためになっていない」という気持ちを暗に含めた言い方だからだ。「面では」というのが,気になるのだ。「子どものためになっているか,いないか」は,子どもに聞けばいいことである。助言者は「子どものためになっていない」理由を述べたいようだが,こっちには 「こどもの感想」というものがあるのである。ちなみに,助言者は「34人がこの授業を歓迎したこと」に対して,一言もふれなかった。
○探求の過程は、これでいいと思う。
 「探求の過程」というものが、「問題→予想→討論→実験」 のみではなく「問題配列」などのこともふくんでいるのなら、以下のような言葉は出てこないはずである。

短所としてあげていると思われる点

○これをやると時間がかかる。 6年生として教えておかなければならない他の教材も大切である。年間計画をたてて、やる必要がある。
 「時間がかかる」というのは、やはり気になるんだろう。それにしても、助言者の一番最初にこの言葉が出てきたときには、少々がっかりした。また、「基礎的な原理・法則」を身につけることをしないで、ほかの断片的な知識を重視するのも不思議なことである。
 この会でも,「溶解」について「とける」という大切な概念が実にあいまいになっている実態が報告されていたではないか。この問題提起は「原子論的なものの見方は、中学生にならないとわからない」というオカミのバカのひとつ覚えを信じてきたための悲しい結果の例である。
 教育は、 お金と時間をかけて「学んでよかった」と思える内容を子どもたちに与えることである。
○子どもの実態に合せて,よく中身を咀嚼して選択肢などもかえていかなければならない。
 オカミは「子どもの実態」 とか「地域の実態」というもんが好きである。いや,オカミだけではない。みんな好きである。
 確かに,地形,気候,植物の飼育などは,地域差を考慮すべきであろう。しかし,「基礎的な科学の原理・法則」というのは,「いつ、どこで、だれがやっても成り立つ」というものである。そうでないと,科学とは言わないのである。それを教える時に「地域や子どもの実態に合せる」とは,どういうことなのであろうか。授業研究の常識から抜け出ていない憐れな現実がここにある。
○「発言を強要しない」というのはどうも・・・。グループ学習も取り入れて,子どもたちを授業に参加させるべきではないのか。
 「発言を強要し,発言させる」と、その子は「授業に参加した」と言えるのだろうか。「発言のある・なし」で授業に参加しているかどうかを決めるのは,一面的である。この基準で授業を進められた子どもたちは『いい迷惑だ』ということも大いにありえる。教師側の希望として「発言して欲しい」と思っているだけにしておいた方がいい。
 では,なにをもって「授業に参加している」とするのか。
 それは,子ども自身に聞けばいいのである。子どもたちが「今日の討論,おもしろかったわ」 「ボク,だまっていたんだけど,予想変えようとしてたんだ」などと言えば,それは発言しなくても授業に参加しているのである。
 「グループ学習をしたから授業に参加した」と安心してもいけない。「あの子ばっかり実験して・・・」 という声もよく耳にする。やはり 「子どもがどう思って授業を受けていたか」であろう。

長所として言ったのか, 短所として言ったのか

○学習において興味を持たせるのは大切である。その時,学習過程というものが大切になる。
 子どもたちは好奇心旺盛である。 しかし,それをどう生かすかは,学習過程,つまり授業にかかってくる。どんな問題を示せば子どもが動くか。どういう配列でやれば,科学的な法則を楽しみながら自分のモノとすることができるか。これらを研究することが「授業研究」である。
○子ども達が主体的に取り組むことが必要なのではないか。子どもの発想を大切にしなければならない。
 「子どもの発想を大切に」「子どもが主体となって」というのはよくわかる。そして,たいていは「子どもの発想を大切に」するために、子どもが考えた問題をしたり,子どもが考えた方法で実験したりする。しかし,たいていはうまくいかない。それは,そんなにいい問題 (ここで言う「いい問題」とは、基礎的な科学の法則を身につける時に,常識と適度に対決するようなもの)を,こどもが考え出せることは,不可能に近いからである。だから,結局,「実験から分ったこと」などと言って,教師側から解釈を押しつけることになってしまうのである。これでは「子どもが主体」でもなんでもない。
 「いい問題が作れれば,もう教育の必要がない」とも言えるくらい「問題づくり」というのは,むずかしいとおもう。「問題づくり」は、単元の一番最後がいいのではないか。
 では,「子どもが主体的に取り組むため」には、どうすればいいのだろうか。
 「生徒実験」「グループ実験」さえしていれば,それで「主体的に取り組んでいる」と言えるのだろうか。「実験」をしても、「何をやっていたのか分らなかった」という声を聞く。一方「実験があるから理科がすき」という声もある。
 やはり,ここに『実験観』というものを,教師がしっかりと持つ必要がある。
 実験とは,目的意識を持って対象に働き掛けることである。
つまり,
 自分の予想を持って,その真偽を実験により判断するのである
  だから,一人ひとりが自分の予想を持って実験に臨むことが,まずもって「子どもが主体となる授業」の出発点である。器具の操作を身につけることと、上の実験との違いを明確にする必要がある。

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