網野善彦氏の著作を読む

研究は読書から

 ひょんなことからM小学校職員室で話題になったという網野善彦氏(1928-2004)のこと。
 わたしとSさんは,1996年3月の旧内浦町で開催した「新居信正独演会」の講師である新居信正先生(徳島県,故人)から「網野史学」についてお聞きし,一時期,その網野史学に夢中になりました。それ以来,サークルでも何回か網野さんのことを話題にしてきました。また新居先生からも時々関連する新聞記事のコピーなどが送られてきて,その都度,サークルでも紹介してきました。だから,サークルの過去の資料には網野史学関係のものもたくさんあるはずです。
 今回(2022年)話題にのぼったことを機会に,「珠洲たの通信」や「今月の本棚」に散らばっている網野善彦関係の文章を集めてみました。
 これからの日本歴史研究の参考にしてくだされば幸いです。

○網野善彦著『日本の歴史をよみなおす』(筑摩書房,1100円)[初版 1991年1月30日]
 この本を手に入れたのは,2年ほど前。小学校に来て,久しぶりに6年生に歴史を教えなければいけないということで,手にとってみました。それまでは,網野さんという人の本を読んだことはありませんでした。
 今,あらためてぱらぱらとめくってみると「時国家」から出て来た古文書のことにも少しだけど言及しています。でも,ボクの頭には,全然記憶に残っていません。<問題意識がそこになかった>ということです。
 ボクの頭には,<「非人」の出現とその仕事><河原者><差別の進行><穢れと女性>などというところが印象に残っています。
 実は,珠洲市が市政40周年を記念して開催した「珠洲焼フォーラム」に,なんとパネリストとして,網野さんも参加していました。ボクは内容もよく分からずに(珠洲焼の歴史には興味があったので)見に行ったのですが,それなりにおもしろかったです(でも,ほとんど覚えていない)。

○網野善彦著『続・日本の歴史をよみなおす』(筑摩書房,1100円)[初版 1996年1月20日]
 『続』も本屋で見かけるなり購入していたのですが,全く読んでいませんでした。ところが,新居さんが和倉からの車の中で,「時国から歴史が変わる」「奥能登から歴史が変わる」「板倉さんの『歴史の見方考え方』に匹敵するくらいの本じゃ」と言われていたのでビックリ。「百姓=農民」ではないこと,「水呑=貧乏」ではないことなどが書かれています。こりゃ驚きです。今までの常識がひっくりかえります。さらに「なぜ<百姓=農民>というような誤った考えが広まってしまったのか」ということについても,日本の政治制度に原因を求めてヒモといています。おもしろくて一気に読んでしまいました。
 ボクのようにあまり日本歴史の基礎知識のない者が読んでもおもしろいのですから,上の2冊は,絶対のお勧めです。今すぐ,読むのじゃ。(1996年2月記)

 現在は『正・続』が1冊の文庫本になっています(2022年10月追記)。


網野善彦講演会『中世の庶民の生活について』に参加

 今月3日,不動寺公民館であった網野善彦さんの講演会に行って来ました。内容は『中世の庶民の生活』についてというもので,なかなか刺激的なお話で楽しかったです。Sさん,Mさん,Kさんが参加していました。100人以上も集まっていましたので,正直言ってびっくりしました。「不動寺公民館」という響きが「マイナーだな」と思わせたのかもしれませんね。

 講演会の会場に入ると移動黒板に「日本地図」が貼られていました。それがなんと「逆さ日本地図」(右の写真)なのです。ぼくが以前サークルで紹介したものより縮尺は小さくて,しかも日本列島がほとんど横になっています。さっそくぼくとSさんとMさんは黒板に駆け寄り,発行所を調べました。すると,この地図は富山県(か富山市)が作ったものだということがわかりました。それで,富山県が地図の真ん中にくるようになっています。「これはいい」ということで,すぐに連絡場所をメモしました。(1998年1月記)

地図は富山県HP「環日本海・東アジア諸国図(通称:逆さ地図)の掲載許可、販売について」で購入できます。楽天でも扱っていますが,高いです(2022年10月)。


○網野善彦著『中世的世界とは何だろうか』(朝日選書555,1996)
 この本は,珠洲に新居さんが来て,「網野さんを教えてもらった」頃に手に入れたものです。今年,久しぶりに歴史を持ったので,読んでみることにしました。でも,授業に使えるような内容があるわけではありませんが。
 この本に収められている論文は,主に週刊朝日百科『日本の歴史』(1986~1988)に書いたものだそうです。ですから,サークルでも話題になった『日本の歴史をよみなおす(正・続)』(筑摩書房)の数年前の内容ということになります。それで,網野さんの研究途中の文章といえるようなのもあります(このあたりのことは「あとがきにかえて」でご本人が述べられています)。それで,網野さんの研究過程が感じられて面白いです。ただ,ボクには『日本の歴史をよみなおす』の方が読みやすかったです。(1997年7月記)


●網野善彦著『日本社会の歴史(上)』(岩波新書,1997)
 久しぶりに日本史の通史を読んでいます。それも,網野史学です。
 網野さんの本は,さすがに視点が違います。それは本書の初っぱなからわかります。網野さんは「はじめに」で次のように述べています。

「日本社会の歴史」と題してこれからのべようとするのは、日本列島における人間社会の歴史であり、「日本国」の歴史でもないし、「日本人」の歴史でもない。これまでの「日本史」は、日本列島に生活をしてきた人類を最初から日本人の祖先ととらえ、ある場合にはこれを「原日本人」と表現していたこともあり、そこから「日本」の歴史を説きおこすのが普通だったと思う。いわば「はじめに日本人ありき」とでもいうべき思い込みがあり、それがわれわれ現代日本人の歴史像を大変にあいまいなものにし、われわれ自身の自己認識を、非常に不鮮明なものにしてきたと考えられる。

本書「はじめに」より

 そして,そのことば通り,まだ「日本」ではなかったころからの日本社会の歴史を,東アジア全体の地理的・歴史的観点から書き進めてくれています。さらに「日本」と言いだした後であっても,中央(畿内~北九州)の政治だけではなく,東日本や沖縄がどうであったのか…などということにも,最新の発掘調査等の情報を示しながら,しっかり言及してくれます。だから,もう40年以上前に習った教科書で学んだだけの断片的な知識でできあがっているわたしの中の日本の歴史認識が,世界とつながりながら,新しく再生産されていく楽しさがありました。
 本著作は上・中・下の3部作ですが,第3部の最後までいっても17世紀前半までらしいです(これも「はじめに」に触れている)。
 中巻以降も,どんな話題が展開されるのかたのしみです。

●網野善彦著『日本社会の歴史(中)』(岩波新書,1997)
 中巻は「10~14世紀前半,摂関政治から鎌倉幕府の崩壊まで」(カバー裏より)を扱っています。
 わたしが網野さんの本を読み始めたのは,中世日本史の捉え方が新しかったからです。そういう意味では,本書は,その中心的な話題が載っているわけです。
 武士が支配する東国(後に,本人たちも関東と呼ぶらしい)と,天皇を中心とする貴族の住む西国。この時代には,特に,この二つの権力のせめぎ合いが繰り広げられています。
 わたしのような義務教育くらいの日本史しか知らないものは,ついつい,一番トップに立っているものたちだけをなぞってしまいます。要するに権力史観と言えばいいでしょうか。奈良時代(奈良)・貴族,平安時代(京都)・貴族,鎌倉時代(鎌倉)・武士…という具合にです。
 しかし,今年度のNHK大河ドラマ「鎌倉殿」を見てもわかるように,東国に権力者がいても,西国の天皇を中心とする貴族たちは,何かしでかそうとしています。それ以前に,東国で自分が権力者になるために,西国の天皇に勅令を出させて敵を倒すのを正当化しようとします。天皇は,利用されたり,逆に利用したり…どんな時代であっても天皇抜きには語れないという意味では,日本を語る上で天皇は外せないというのもわかります。その一方で,天皇の跡継ぎをめぐっての殺人なんかも日常的にあったりするので,万世一系の天皇なんて言い方には血のニオイも感じるんですよねえ。まったく東も西も,過去も現代も,権力者は困ったもんですねえ。
 このように,史実は,権力をめぐってのせめぎ合いが常にあり,どっちに転ぶかわからなかったことも多いのでしょう。
 でもそれだけに,権力者がだれであろうが,いわゆる農業民や非農業民たちがいつの時代にも活き活きと生きていて,確実に日本の産業や流通を支え,日本の歴史を発展させていたことは確かです。網野さんは,特にその点についてしっかり描いています。これが素敵です。読んでいて気持ちいい。権力者は権力者同士の争いで成り上がるけれども,社会の流れを作るのは民衆です。変な権力者のせいで,数十年の足踏みや後退があるかもしれませんが,それでも,地球は動いている,ってなわけです。
 また職業民の中から差別的なものが生まれたのはどうしてなのかも,明らかにされていて,これも興味深いです。ここも網野史学の本領発揮です(ただ本書は通史なので詳しくは語られていませんので,専門書を見たほうがいいですが)。
 さらに,地元の珠洲焼についても触れています。これは,13世紀の日本の海上交通はすでに北海道まで物資の売買をしていたというところで出てきます。

北海道南部までの日本海沿岸地域に大量に流入している能登半島の珠洲焼や,津軽の十三湊,道南の志苔などで出土している厖大な銅銭がそれを証明している。 

(本書156ぺ)

 さて,あとは下巻です。ただし,下巻は17世紀前半までです。網野さんは上巻の「はじめに」で「ただ私自身の力の限界から,当面,17世紀前半まで叙述し,その後の時代については展望を示すにとどめたいと思う」と書いておられますので。

●網野善彦著『日本社会の歴史(下)』(岩波新書,1997)
 日本の歴史(通史)というには,あまりにも中途半端な終わり方…それをわかっていて,網野さんはなぜ本書をまとめようと思ったのか。それはもちろん,編集者からの強い要望もあったのだが,網野さんの「いま言っておかなければ…」という強い思いもあったのだと,わたしは,最終章を読んで理解した。
 本書は,上・中・下の3巻もあるのだが,残念ながら17世紀前半までで終わっている。そう明治以降は書かれていないのだ。
 いや,少し書かれてはいる。それは「第十二章 展望」と題して…である。わたしは,この十二章を読んだときに「網野さんが一番いいたかったことは,この第十二章に書かれている」と思った。日本歴史研究の大前提をひっくり返すようなことをやっていた網野さんだからこそ,この近現代史(網野さんは,こういう時代区分でさえもまったくその用語を使っていない。その理由も「第12章」~「むすびにかえて」に書かれている)を簡単に記述することはできなかったのだ。

 明治政府がねつ造した「日本の歴史」(国史)は,国民教育を通して日本人の血となり肉となり判断の基礎・基本となってきた。そして,それが、最終的にはあの15年戦争を引き起こしアジアの人々と自国民に厖大な被害を出してしまったのだ。そしてさらには,反省の下で歩んできたはずの戦後の学問も,相変わらず明治政府が作った「日本の歴史」の軛から自由ではなかったのではないか。その前提の下で研究されてきた「日本の歴史」は,もう,それだけで,新たな誤謬へと人々を連れていくのではないか。
 網野善彦氏は,そのようなことを言いたかったのだろう。だからこそ,まずは,明治政府が前提としてきたその「日本の歴史」の捉え方こそ,再検討する必要があるのだという。

江戸時代以降の歴史・社会の実態については,未解決,未知の問題があまりにも多く,それを度外視して従来の「通説」にたよって叙述を無理に行うことは,現在の私には到底できないことだったのである。

176p

 また,網野氏が,本諸作の題名を「日本の歴史」ではなく「日本社会の歴史」としたわけにも大きな理由がある。そもそも「日本」の捉え方そのものが,わたしが義務教育で習ってきた「日本」とは違うのだ。アイヌも琉球も,各地方の豪族や権力者,そして庶民や技術者たちも,みんな〈地理的には日本列島と呼ばれている土地〉に住んでいて,それぞれ歴史を刻んできているのだから。

いうまでもなく,すでに述べてきたように,日本列島はアジア大陸の北と南を結ぶ架橋であり,こうした列島の社会を「孤立した島国」などと見るのは,その実態を誤認させる,事実に反し,大きな偏りをもった見方である。

153p

 網野さんは『当初,私は「日本列島社会の歴史」という書名を考えていた』と書いている。『種々の議論の末,「日本国」の歴史でも「日本人」の歴史でもないという私の意図は「日本社会」ということばによって読者に十分に伝わるという編集部の御意見に私も従うこと」にして,この書名に決めたそうだ(下巻,177p)。

 下巻を読み終わってみて,現在,歴史学者の中でこの続きを書いてくれる人はいるのかなと思った。いるのなら教えて欲しい。

たしかに現代の現実それ自体がこれまでの歴史の書き替えを要求していることは間違いないが,それは直面している転換そのものの性格にふさわしく根底的・徹底的なものではなくてはならない。

164p

○網野善彦+宮田登著『歴史の中で語られてこなかったこと』(洋泉社新書,2001,283ぺ,780円)
 網野さんについては,何度か紹介してきました。本書は,そんな網野さんと民俗学者の宮田登さんとの対談集です。収められている対談は,1回きりではなく,年を越えて,何度か話し合ったものをまとめてあります。
 巻頭の対談は,アニメ映画「もののけ姫」を取り上げ,その時代背景についていろいろとお話ししています。あの映画に興味のある人は,是非一読ください。また,後半は,1980年頃からの対談ですが,「百姓=農民」ではないことを何度も繰り返す網野さんの姿を思うにつけ,学会での常識を破る難しさを感じました。
 お二人の対談から,歴史学と民俗学の融合が,これからの新しい歴史学を作っていくのではないかという希望が持てました。
 それにしても,何度も奥能登の<曽々木>とか<時国家>などが出てきて,親近感が沸きます。不動寺公民館での講演会を思い出しました。(2003年11月記)
 現在は新版が出ています。

○網野義彦著『歴史を考えるヒント』(新潮選書,2001,190ぺ,1100円)
 だいぶ前に買ってあって,途中まで読んでいたんですが,もう一度はじめから読み直してみました。網野氏のことについては,説明するまでもないですね。
 網野氏が,どういう主張をしているのかをとりあえず知りたい人には,いい入門書です。帯には井上ひさし氏が「日本国を考えるための新しい長い旅はこの1冊から始めるしかない」と推薦文を寄せています。
 前に『「日本」とは何か』の時にも書きましたが,「日本」という国名がいつ頃できたのかという話もあります。
 今まであまり紹介しなかった話題というと,「商業用語について」と「日常用語の中から」という部分がおもしろかったです。
▼ある物を「落とす」という行為には,それによってその物に対する所有者の権利を切り離すという意味が含まれていたようです。(162ぺ)
なんて,おもしろそうでしょ。
 お薦めの本です。(2008年1月記)

○中沢新一著『僕の叔父さん 網野善彦』(集英社新書,2004,186ぺ,700円)
 著者の中沢さんは,宗教学者・哲学者。私の本棚にも,何冊か著書があります。話題としている網野善彦さんは,うちのサークルでも何度も取り上げられた方です。その網野さんが,なんと,中沢新一氏の叔父(父の妹の夫)だというのです。こりゃアビックリです。中沢さんが小さい頃,網野さんが家に来て,いろいろ遊んでくれたこととか,お話ししてくれたこと。その話題が,中沢さんが大きくなるにつれて,哲学や歴史の見方などにうつっています。
 網野史学という言葉まで生まれましたが,歴史研究家の中では網野さんはいつも異端でした。
 本書を読んで,久しぶりに網野さんの本を読んでみようかという気になりました。まだ,買ったままの本もあるのでね。(2006年3月記)

○養老孟司・宮崎駿共著『対談 虫眼とアニ眼』(徳間書店,2002,189ぺ,1400円)
 現在,日本人の知名度ナンバーワンのお二人の対談集です。2002年の7月に出版されていることを知らなかったので,ちょっと残念。どうしてアンテナに引っかからなかったのかなあ。
 1997年の『もののけ姫』のころと,1998年,そして2001年の『千と千尋の神隠し』のころの3本の対談が収められています。
 ボクが好きな二人なので,面白くないわけがありません。ちょっとだけど,網野善彦さんのことも話題にのぼりますよ。
 子育てについて,養老さんが「結局は子どもがどうなるなんてわかるわけないんです。それを忘れちゃって,さも一定の手続きを踏めば,こういう子どもになるみたいなことばかり言われすぎている」と言うと,宮崎さんも「本当にその通りですね。先はどうなるかわからない。それこそが生きているってことですね」「これまでだって,先なんか見えた試しがない」と応じます。インタビューアーが「なんだが希望が湧いてくるような,捨て鉢なような,面白い結論になってきましたね」というと,養老さんが最後に,こう締めくくります。
どうしてどうして,「お先真っ暗」でいいじゃないですか。だからこの世は面白いんですよ。(2004年1月記)
 現在は文庫本もあります。

○小野俊太郎著『モスラの精神史』(講談社現代新書,2007,275p,760円)
 「新しい本はなるべく買わないようにしている」って言っているくせに,今月紹介する本はすべて新規購入。この『モスラ』なんて,読まなくったってどおってことない本ですが,この題名が気になって,さらには新聞の書評も気になったりすると,やっぱ購入意欲が出てきてしまいます。
 もともと,こんな変な取り合わせ(「モスラ」と「精神史」)が大好きなわたしは,
▼1970年には,安保条約の自動延長が決まり,6000万人以上を動員した万博が結果として盛況に終わった。そのなかで,「弱小民俗の怒り」を描いたり,「多様な立場の意見の調整」を求めるモスラ的主題は,60年代に起きた消費社会の展開にのみこまれた,というのは大方が納得する見解だろう。(243ぺ)
なんて文章を読むと,ゾクゾクするのです。
 モスラを作ったのは,中村真一郎,福永武彦,堀田善衛の3人だそうです。この3人が共同して(というか分担して)この新しい怪獣映画の原作ができたというのもおもしろい話題です。
 網野史学や宮崎駿さんの話も出てきます。2人とも私の愛読対象者です。
 やはり,私のアンテナに引っかかるって,それなりの理由があるのですね。(2007年11月記)

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