久田佐助船長と慰霊碑

社会

 2022年10月末,地元新聞に右のような記事が載っていました。久しぶりに「久田佐助船長」の話題を拝見したので,以前,歴史教材として活用するために活字化したものを,本サイトで取り上げて紹介したいと思います。
 以下の内容は,地元の方々はすでに知っている内容だと思います。しかし,他の地区のみなさんは,おそらく初めて聞く名前でしょう。わたしも宇出津小勤務時代に『能都町史』を紐解いていて,はじめて知った名前でした。 

『北陸中日新聞・2022年10月29日』

久田佐助(ひさだ さすけ,1864-1903)について

 本ページのタイトル写真は,能登町鵜川地区にある菅原神社境内のようすです。拝殿の左横に立っているのが,久田佐助氏の慰霊碑です。この慰霊碑について,能登町が設置した解説を読んでみます。

 また境内には、 元青函連絡船の船長だった久田佐助の碑があります。
 久田佐助は,元治元年(1864)当地に生まれ,東京商船学校卒業後,明治36年(1903)6月,青函連絡船・東海丸の船長となりました。
 しかし,その年の10月29日未明,大嵐の津軽海峡において東海丸はロシアの貨物船と衝突。久田船長は乗客乗員を救命ボートに乗せますが,自身はマストに身体を縛り非常信号の汽笛を鳴らし続けたのです。
 彼の死後,その勇気ある行為は「大和魂の権化」とも呼ばれ,昭和初期の小学校の教科書にも掲載されるなど,長く人々に語り継がれています。

国定教科書『小學國語読本・巻10』(昭和13年) 「第十三 久田船長」

 上掲の新聞記事にある「事故から120年」の「事故」とは,この衝突事故のことです。このときのようすは,戦前の国定教科書『小學國語読本・巻10』(昭和13年)に紹介されました。ですから当時の日本の小学生は,久田佐助のことを知っていました。ちなみに,当時,『小學國語読本』は全12冊あり,巻十は,今でいうと小学5年生・下の教科書ということになるのかな。
 以前,この文章を文字化したので紹介します。旧仮名遣いのままにしてあります。

 青森・函館間の連絡船東海丸は,多數の船客を乗せ,郵便物・貨物を積んで,夜半に青森港を出港した。大分しけ模様であつた。明治三十六年十月二十八日のことである。
 津軽海峡特有の濃霧が,海上をおほつてゐた。波も次第に高くなつて行つた。しかも雨は雪に變じ,それが吹雪となつて,あたりを吹きまくつた。暗は暗し,其の上濃霧と吹雪では,全く黒白も辨じない。東海丸はしきりに汽笛を鳴らし,警戒しつゝ新港を續けた。かうして,翌朝四時頃には,渡島半島矢越岬の沖合にさしかゝつてゐた。
 すると,まことに突然,右手のすぐそこに,此方をさして突進して來る船があつた。それは,室蘭で石炭を積んで,ウラヂボストツクへ廻航するロシアの汽船であつた。
 東海丸の船長久田佐助は,眼前に迫る此の危急をさけるのに全力を盡くしたが,しかしもうおそかつた。忽ち一大音響と共に,ロシア汽船の船首は,東海丸の船腹を破つてしまつた。海水は,ようしやなく浸入する。東海丸の船體は,極度に傾いた。
 すは一大事。久田船長は,早速乘組員に命じて部署につかせた。五隻のボートは下された。彼は,わめき叫ぶ船客をなだめつゝ,片端からボートに分乘せしめた。此の間にも,東海丸は刻々と沈んで行つた。
 船客も船員も,すべてボートに乘つた。船長は幾度が確めるやうに,
「みんな乘つたか。」
「乘りました。」
「一人も残つてゐないな。」
「残つてをりません。」
残つたのは,たヾ船長一人であつた。
「船長,早くボートへ乘つて下さい。」
だが,返事はなかつた。一體何をしてゐるのだらう。
船員の一人は,たまらなくなつて,はせつけた。
「船長,早くボートへ。」
 しかし,船長は,船橋の欄干に身を寄せて動かうとしなかつた。見れば彼の體は,旗のひもで,しつかと欄干に結び附けられてゐる。沈み行船と運命を共にしようとする覺悟なのだ。
「船長,私も一しよにお供いたします。」
それは,全く船員の感激の叫びであつた。
 船長は厳かに答へた。
「船と運命を共にするのは船長の義務だ。お前は速く逃げろ。一人でも多く助つてくれるのが,私に對するお前たちの務ではないか。」
悲痛な,しかも威厳のある聲に,船員は思はずはつとした。彼は,すごすごとして最後のボートに身をゆだねた。
 東海丸からは,引切なしに汽笛が高鳴つて,暗い海の上を壓した。聞く人々は全く斷腸の思であつた。やがて,其の音は聞こえなくなつた。東海丸は沈没したのである。最後の瞬間まで,非常汽笛を鳴らし讀けた久田船長もろ共に。
 暗夜と荒天の海上に,五隻のボートは木の葉のやうに動揺した。中には,波にのまれてしまつたのもある。しかし,乘客・船員の過半は,からうじて助ることが出來た。
 四十歳を一期として,従容(しょうよう)死についた船長久田佐助の高潔な心事は,忽ち世に傳へられ,日本全國の人々をして涙をしぼらせた。
「船長たる者は,萬一の場合,決死の覺悟がなくてはならぬ。百人中九十九人まで助れば,或は自分も生きてゐるかも知れぬが,さもなければ歸らぬものと思へ。」
とは,久田船長が,かねてから其の妻に言聞かせてゐた言葉であつた。だから,東海丸遭難第一の電報を手にした時,妻は早くも夫の死を察し,見舞の客に對しても,あへて取りみだした様子を見せなかつた。人々は此の事を聞いて,今更のやうに久田船長のりつぱな心掛に感動すると共に,夫をはづかしめぬ此の妻の態度をほめたゝへた。

 まさに滅私奉公の世界です。これが戦前の教科書に取り上げたのは「公のためには自分の命さえも投げ出す」という船長の姿を美化して,戦前の国家中心の教育に利用するためだったのだと思います。能登町の解説板にもあるように「大和魂の権化」としてだったのでしょう。
 だから,この話を,そのまま現在の学校で教えるのは,ちょっとはばかれました。船長の地元の学校以外には,あまり関係ない(教育的価値のない)話題だなと思っていたのです。

文部省唱歌「久田船長」

 サイト「のとでいきる」の「地域の偉人の誇りを胸に【久田船長碑前祭/鵜川】」の記述によると,当時の音楽の教科書には,久田船長をたたえる唱歌もあったそうです。

名誉に死せる船長は その姓 久田 名は 佐助
生れは能登の鵜川村 実に海員の 鑑なる

明治36年12月作 文部省唱歌『久田船長』より

 どんな音程なのかは分かりません。楽譜等が手に入ったら,またここに紹介します。この歌も,碑前祭のときには,小学生や参加者で唄うそうです。鵜川地区の方はみんな唄えるんだって。

サイト「日本郵船歴史博物館」

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 本サイトには,社内グループ報「YUSEN」連載中の日本郵船の歴史コラム「航跡」が掲載されています。その2002年9月号には「久田佐助 船長」と題して,少し詳しく久田佐助のことが載っています。

「久田船長碑」とGHQ

 先に紹介したように,菅原神社の境内には右写真のような大きな慰霊碑(高さ約6.6m)が建っているのですが,実は,敗戦後,この碑の存続に関わる話が残っていることを見つけました。
 わたしは,この話を『能都町史』で読み,「これなら能登町の6年社会科(日本史)の教材になる」と思いました。そこで,その話を『能都町史』より紹介します。
 なお久田佐助については,『能都町史』「人物誌編」の一人として詳述されています(久田船長について書いているのは細川音治という人)。本書のp.955-p.1013を割いて書かれています。

 終戦後二,三年はアメリカ占領軍がジープに乗ってたえず町村を巡り,みんなジープの音に恐怖を感じたものだった。
 村落の神社の調査など冷厳を極めた。
 昭和二十一年の晩秋(月日は億えていない,天気のよい日だった)私は役場へいくため菅原神杜前にいったところ(当時町役場は同神杜の横にあった)GHQのCIE=民問情報教育局=のジープが三台連なって来て,同神杜の調査を始めた。立会人は神主さんだけ,町役場の人もいなかった(当時こうした際は特別命令のない限り役場は逃げて顔を出さなかったものである)。
 … 中略 …
 調査は杜内が事なく終わり,つかつかと外(境内)へ出た途端「久田船長碑」を指さして何か言ったが「撤去せよ」と通訳が強いアクセソトで厳粛に宣告した。
 私はびっくりした。彼らの命令は絶対である。命令は即決である。既に各地で学校の神棚や忠魂碑が破却されたという話が流れていた。
 私は梅田神主をさし置いて代弁にせせり出た。
 「この碑は神杜と関係がない。神杜の管理に属していない」
 「これは民間の船乗りの碑だ,船が遭難したとき大勢の人を救った船長で,軍とは何の関係もない」
 「ご覧のとおり,ここは海辺の村で海に働く者の尊敬を集めて建てられたもので,忠魂碑とは全然違うものだ」
 「碑の字を書いた人は,海軍大将の肩書があるが,これを書いたときは内閣総理大臣で老齢,戦争や軍と直接関係のなかった人だ」
 「これは絶対,戦争に関係のない民間人の碑で,忠魂碑と同視するのは誤りである」
 などと陳弁,懇願大いにつとめた。長くしゃべると通訳がわからなくなり勝手な訳をしては困ると思い一節一節区切って話した。私は一生懸命だった。冷静に冷静に,落ち着いて-と自分に言いきかせていたが,やはり上気して話が前後していた。
 CIEはジッと私の顔をみつめて聞いていた。通訳がどういうように訳しているのか判らないが,だんだん「そうか」といった面持ちになり「このままでよい」となった。
 ジープが去って,私は碑の石段にへたりこんだ。ただ涙が出て止まらなかった。
 ともかくこうして「碑体」は災厄を免れたのである。

『能都町史・第5巻』1002~1004ぺより

 この話を読んで,まず驚いたのが,こんな田舎くんだりまでGHQのジープがうろついていたことです。GHQは,徹底的に日本の軍国主義の象徴などを根絶しようとしていたのだということがよく分かります。6年生の社会科教科書に載っている「戦前の教科書の墨塗」と併せて,このお話を伝えてあげたいです。
 それにしても,鵜川に来たGHQは,戦前の教科書に載っていた「久田船長の話」は知らなかったのでしょうか。もし知っていたら,この碑をどうしていたのかが気になります。あの教科書の文章を「滅私奉公」と捉えるかどうか…で,意見が分かれそうですね。
 いまの時代に同じような事故が起きたとすれば,乗客や乗組員を全員避難させた後ならば,ちゃんと船長自身も逃げればいいと思うのですが…。
 蛇足ですが,『能都町史・人物詩編』に取り上げられている人物は,久田船長の他に,大横綱の阿武松緑之助(1791-1852)と,衆議院議長・副総理になった益谷秀次(1888-1973)の3名だけです。

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