能登町・神目神社「奉納額」の授業

社会

宇出津小 尾形正宏

 『能都町の文化財』(能都町教育委員会発行)という冊子に,上のタイトル写真のような奉納額が載っていました。4月にこれを見たとき,「おお~,これは授業に使える」と直感。
 能登町では,縄文真脇遺跡からイルカの骨がたくさん出土しています。大正時代,真脇でイルカ漁をしている様子が写真に残っています。
 最近,能登半島の近くにもイルカが来るという話を聞きますが,昔はもっと普通にイルカやクジラ類がいたのかもしれません。
 今回は,この額を江戸時代の後半の場面で授業にかけてみました。
 授業の進め方と子どもたちの反応は次の通りです。

【問1】
これはある神社に奉納された額です。気づいたことや分かったことなどをなるべくたくさん書きなさい。
[回答]
子ども達から出てきた意見や疑問や予想を総合しながら,この額の謎解きに挑戦します。
・大きい魚は鯨のように見える。
・その魚の目がこわい。
・鯨が浅いところに来ているのはおかしい。
・鯨を捕っているのではないか。
・縄のようなものでたくさんの人が鯨を引っ張っている。
・鯨に何か刺さっている。
・船も出ている。
・カゴが置いてある。
・馬もいる。
・近くには武士のような人がいる。
・武士であることは刀を差しているから分かる。奥の方には殿様らしき人が立っている。
・幕がはってある。その幕には,どこか知らんけど家紋がある。
・この家紋は,どこの家紋だろう。
・その家紋は加賀藩前田家の家紋である。
(教室内には戦国時代の学習のあと,家紋一覧ポスターを掲示してある。そのポスターから見つけた子が数名いた。これはすごい! 多くの資料を参照できるのは<生きる力>です)
・加賀藩のお殿様がどこかの鯨捕りの様子を見に来たのではないか。
・殿様は,今まで鯨を食べたことがあっても,漁の様子を見たことがないのかもしれない。
桜が咲いているから,これはたぶん春だと思う。

神目神社の奉納額

く見ると ↓

お殿様を取り巻く幕には,家紋が!

家紋:加賀前田梅鉢

【問2】
これはどこだと思いますか。鯨といって思いつくことはない? 「歴史博物館」※1の問題にもあっただろ? とヒントを与えます。
[回答]
・九十九湾だ。
・宇出津ではないか。
・歴史博物館の展示の中に,江戸時代の宇出津の名産物に「鯨」というのがあった。

※1子どもたちは,春の修学旅行で,金沢にある「石川県立歴史博物館」の見学をしている。その際,係が作ったしおりには,わたしが作った問題を5問くらい入れておいたことをいっている。

【問3】
そのとおりです。この殿様は加賀藩第13代前田斉泰(なりやす)です。殿様は,単に「鯨漁見物」のためではなく,ある大切な役目があって海岸を見て回っていたのです。ここに来たのは1853年の4月です。さて,何のために能登の海岸に来たのでしょう。
[回答]
『資料集』を見るようにうながします。しかし『教科書』やみんなのもっている『資料集』には,「ペリーの来日」くらいしか出ていません。なかなか,ペリーの来日と「加賀藩の殿様の行動」とは結びつきません。そこで『社会科事典』(今年,6年生用に学校で20冊買ってもらった)も見るようにいうと「外国船打払令」という項目を発見。江戸時代末期のこのころから,日本の海岸に「開国」を求める外国船がたくさん出没するようになったので,外国船に注意するようになったのです。

【説明】
そこで前田斉泰は,海の防衛のために能登を回り1853年4月16日(旧暦)に藤波村に来ました。そしてその次の日に藤波村の漁民たちが鯨漁を見せたことが『能州御巡視道中日記』という書物に記録として残っているそうです。
 本校1年目の私は,能都町(能登町)のことについては,その文化財も含めてまだまだ知りません。
 でも,この半年,いろいろな本を読んだり,いろんな人に聞いたりして,歴史的に貴重な文化財や自然について少しずつ知ることができました。
 だから,子ども達と一緒に能登町の歴史や自然を勉強しているという感じなので,とても楽しいです。

本授業の補足資料

資料1 22日間能登巡検の旅…藩主前田斉泰の沿岸視察

 嘉永6年(1853)4月4日、13代加賀藩主・前田斉泰は、700人余の供を連れて能登一巡の旅に出た。外浦から半島北端を経て、内浦から崎山半島を回り、石動山を越えて25日に帰城した。今の暦では、5月上旬から下旬頃にあたる。巡見は22日間、延べ行程は48キロ。歴代藩主で能登を一巡したのは斉泰だけである。
 当時、開国を迫る諸外国の動きに幕府は神経をとがらせていた。広い沿岸域を領する加賀藩でも、異国船騒ぎがたびたび起きた。そのような時代背景のなかで、海防にかかわる沿岸視察を目的に、藩主自らが巡見に出た。主な視察対象は御台場 (大砲の設置場)や御蔵(藩米の収納蔵)、武器御蔵や潤 (港)などである。
 巡見の御触れ(通達)は5か月前に出た。それには、「受け入れ施設も通行の道筋(道路)も普段のままでよい。下々に迷惑が及ばないように…」という内容が記されていた。しかし、藩主と多勢の随行人の受け入れには、道普請や家屋の改築改装など、さまざまな形で地元の負担がともなった。一方、住民にとって藩主の能登来訪は前代未聞のことであり、複雑な思いが交錯するなかで迎えたようである。

中村裕監修『図説 能登の歴史』(郷土出版社,2011年)より

前田斉泰能登巡検の行程図が見られるPDFにリンクあり(関東七尾の会HP)
このPDF(講演会のチラシ)に紹介されている「斉泰能登巡検行程図」は,『図説・能登の歴史』にも掲載されています。

資料2 大岡越前も係わった海境論争

 江戸時代の鯨を巡る話題については,能登町の話題ではありませんが,ちょっとおもしろい記録が残っています。
 それは,「門前にあった天領の黒島村と前田藩領の鹿磯村の境の沖合で取れた鯨がどちらの村のものなのか」といういざこざがあり,江戸まで行って裁いてもらったというような話です。授業をしてから見つけた話題だったので,今回は取り上げませんでしたが,なかなかおもしろい話題です。そのHPによると,能登には,
「鯨一頭七浦光」
という言葉もあるそうです。意味は,
「鯨が流れ寄った村には、5割を与え、その村から海沿いの右隣の3ヶ村へ2割、左隣の3ヶ村へ2割、陸に位置する3ヶ村へ1割を配分することを定めた」
ことからきていると言います。
 下記のHPに奥能登能登門前町(現輪島市)でのお話が載っています。
          →「あの大岡越前も係わった海境論争」

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