斉藤裕子編集『レモン』シリーズ

わたしの琴線の在処
 ここに紹介する3冊の本は,いずれも一般書店では手に入らない自家製本(うちの研究会ではガリ本と呼ぶ)です。いろいろな著者(講演者?)のオムニバス版となっています。

斉藤裕子編集『レモンのえり巻き』(2001年発行)

ただひとつ,間違いなく言えることがある。今問われているのは子ども達の問題ではなく,実はぼく達大人の生き方の問題であること。そして,希望の少ない時代なればこそ,ぼく達は子どもという希望を見失ってはならないということ。

p.9 大崎博澄「子どもという希望」

 「現場主義というのが自分のやり方である」と言いきる高知県教育長・大崎博澄さん。キリン館から『子どもという希望』という本も出ています。名刺にも「子どもという希望」という言葉が入っているそうです。新聞などにも寄稿する文筆家でもあります。
 子どもが事件を起こすたびに,教育界(や社会)の対応の結果,かえって子どもにとって住みにくい居場所になっていくようで心配です。「子どもをオレの指導でどうにかしよう」と思っている大人にこそ問題があるはずです。いつの時代も,子どもは社会の鏡なのですから。わたしたちは,徹底的に子どもに寄りそっていきたい。そう思います。

若い頃は,「仮説実験授業だけでは見方が狭くなる。もっと考え方を広げるためにいろいろなことを学ぶことが大事だ」とよく忠告された。それもそうかと思ったりもした。だが,楽しくないことには体がついていかない。「狭くてもいい」と開き直って仮説実験授業にかかわりつづけているうちに,ぼくは,その人たちよりも広くなってしまった。
 あの人たちの言う「広く」は,「餅とり粉」を薄くひろげたようなものではないか。「面」は広がっても「積」もっていかない。オレのは餅だ,ちゃんと厚みがある。新しいことを生みだす力のもとにもなる知識だ。

p.44 犬塚清和「過渡期の生き方」

 仮説をやってきた人のなかには同じようなことを言われたり感じたりした人が多いのではないかと思います。わたしも同様です。でも37年間ずっと仮説だけを一生懸命やってきて今振り返ると,自分にはまわりの同年代の人たちよりいろんな知識や知恵がついているなと思います。組合運動や反原発運動など授業以外のいろんな仕事もしてきたけど,仮説実験的な考え方を取り入れることで有意義な時間となっていました。退職しても楽しい時間を過ごせているのも,仮説実験授業をやってきたからです。

斉藤裕子編集『レモン萌ゆ』(2002年発行)

 授業を通して「すべての子どもを受け入れることによって,それぞれが健やかに育つ」という実感をする。これが大事なんです。「あんなやつはどうしようもない」と思った子が,なんとなくそれなりに整然としてくるのを体験しなければならない。はじめは「ちょっと困ったな」という子がいても,仮説実験授業を続けていくうちになんとか受け入れていくことができるようになります。そういう実際の体験を積み重ねて,自然に許容範囲を広げていくんです。許容範囲がせまく終わってしまう先生は,まず仮説実験授業をやることですね。

p.16 西川浩司「ありのままの子どもを受け入れられる教師に」

 まだ仮説をやったことのない先生は,自分の言うことを聞いてくれる子どもたちだけだったら「いい子だな」と思うかもしれないけれども,言っても言うことを聞かない子,反抗する子がいたら「憎らしい」と思ってしまうのはあたりまえなんです。そして許容できなくなってしまう。ちょっとその子が外れたことをする。遅刻をする,宿題忘れをする,なんてことになると説教をしてしまう。
 ますます関係が悪くなる。そうなるのはその先生が,仮説実験授業をやって,「その子が少々ちゃらんぽらんでも健やかに育つ」という体験をしていないからだと思うのです。

p.20 同上

 困った(と言われてきた)子どもが「それなりに整然としてきた」という経験はありますか?
 そういう体験を持っている教師ほど,教師としての喜びも,やりがいも感じられるのではないでしょうか。「あの子がいるからクラスがうまくいかない」なんて1年間思っていたのでは,やってられませんものね。「どこどこのクラスはやりやすいよ」なんて言葉を聞くと,悲しくなるのはわたしだけ?
 やりにくい(と言われる)クラス,あの子がいるクラスだからこその楽しさも感じて欲しいな。そのためには,どの子も活躍できる授業が大切。でも,そういう授業を一人で作り上げることのできる教員はごく僅かでしょう。だからこそ,授業科学に裏付けされた仮説実験授業をやればいいのです。どの子も輝くことができますから。

 ネコなんか,ちょっと嫌なこと押しつけたらすぐどこかへ行ってしまう。閉じ込めて嫌なことをしたらギャーと噛みつくでしょ。人間もそういうところを持ちながら,言葉を使えるだけの話やね。嫌なことされたら学校の先生に反発するのは当たり前。「そうだよな,人間というのはああいう動物の脳ミソの上に言葉を使える脳ミソがかぶさってるだけや」と思えば,反発する子を見ても納得いくわけやね。

p.84 西川浩司「〈自分の問題〉としてとらえる誠実さ」

 古い皮質と,新しい皮質…なんて言葉を思い出します。性教育でも教えてきました。こういう脳に対する科学的な捉え方ができると,子どもへの対応もずいぶんとおおらかになるでしょう。人間だって動物。もともと本能的には「嫌なことから遠ざかる」のは当たり前なんですからね。そこをどうオペラント条件付けしていくのか。仮説実験授業は,好子(こうし)の重要な要素だと思っています。
 次は教師自身の人との付き合い方について。

 先生も,自分で自分が伸ばせるとはとても思えないようなおかしな人間関係の中に入ったときには,自分で心地よい環境を作り出さなければならない。自分を刺激する環境は常にいい状況にしておく。すなわち,「悪い刺激を与えるような人」のところにはあまり近寄らないように,目に入れないようにする。「どうもあっちの方にうっとうしいのがいる」と思ったら,職員室の自分の席の片側にきれいな花の鉢を買ってきておけばいいんです。

p.23 西川浩司「ありのままの子どもを受け入れられる教師に」

 最近は,そもそも「職員室に寄りつかない」という方法で対処している若者もいるようです。特別室から「ちょっと」と呼ばれるのは,もう嫌だから。
 わたしが現役時代で一番嫌だったのは,子どもの悪口を言う人です。聞きたくない。自分の指導法を反省して欲しい。こういう教師は成長しないね。優等生にばかりいい顔して…。でも,そのうち,その優等生からも見通され,最後には呆れられます。そんな姿をいっぱい見てきました。
 さらに,ときには,自分の生き方そのものも時には見なおしたい。

 一番体力を必要とするのが,草の根で縛られた硬い粘土質の山畑の土を鍬で耕し,畝をたてる作業。草刈りが終わると,Fさんは黙々と畝作りもやってくださった。ぼくのようにすぐに息があがらない。ゆうゆうたる手つき,力強い鍬の動き。長田弘にこんな詩篇がある。

 なぜわれわれは,じぶんのでない
 人生を忙しく生きなければならないのか?
 ゆっくりと生きなくてはいけない
         (晶文社『世界は一冊の本』「人生の短さとゆたかさ」)

 Fさんは勤めから早く足を洗い,自分の人生を悠々と歩んでおられる。

p.107 大崎博澄「出会いという幸福」

 窓の外の銀杏がすっかり葉を落とし,今年も冬がやって来た。暖房が切れて少し寒い午後,ぼくは久しぶりに我に返った。この一年,ぼくは何を焦っていたのだろう。自分のでない人生を,なんと忙しく生きてきたのだろう。仕事の責任は重い。なればこそ,ゆっくりと生きなくてはいけない。おばさんの野の花が,ぼくにそれを思い出させてくれた。  

p.108 同上

 「じぶんのでない人生」を生きることほど,無駄なことはない。なによりも自分に申し訳が立たない。でも,人は,時として,その「自分ではないはずの人生」を(そのときは自分のだと思っていたのか分からないが)選択することもある。それは,いい会社への就職であったり,管理職という魅力であったり,人様からの名声であったり…。しかし,あるとき,ふと気づく。「これはオレが求めていた人生なのか」。なんで,こんなに我慢をしながら生きなければならないのか。なぜ,貴重な時間をこんな無駄なことをして過ごさなければならないのか。それには理由は見つからない。自分で選んできた道だったのに,いつのまにか,そうではない場所になってきている。「ゆっくり生きなくてはいけない」と呼びかける大崎さんは県の教育長として,少しでも「じぶんの人生を生きるため」にいろいろと改革をしていたようだ。反対もいっぱいあったと聞いている。

 人間の脳生理についての話で誰の何という本か忘れてしまったけど,「元気のもと/かきくけこ」というのが気に入って,授業のときに子どもたちに紹介したことがあった。「感動/興味/工夫/健康/恋」。これぞ,生きる力の条件ではないかと思う。
 「生きる力」を育てるというのは,〈他人に合わせて生きる力〉を育てることではない。自分の興味,自分自身の感動を大切にして〈たのしく生きる力〉を育てていくことだ。もし,本気で子どもたちにそういう力を育てていきたいと願うなら,まず,教師自身がそのようにして「生きている姿」を子どもたちに示していくことではないか。でなければ,それはまやかしだ。 

p.144 犬塚清和「今を歩く」

 これ,おもしろいですね。
 今年,なにかに感動しましたか? なにか興味を持ってやっていることはありますか? ついつい工夫したくなることはありますか? 健康ですか? なにかに恋をしていますか? 生きるエネルギーはここから生まれる…なるほど,そうかもしれないと思います。
 そして,この「かきくけこ」は,人から強制されるものではないし,人に合わせるものでもありません。他人に合わせて感動したふりをし,友達に合わせて興味のあるふりをし,人から言われていやいや工夫をしたように振る舞い…そんな生活,嫌ですね。生きていませんね。自分の「かきくけこ」を大切にしようと思えば,大崎さんの言うように「ゆっくり生きる」ことになるような気がしますが,どうでしょうか。
 最後は,本書のあとがきから。

 もうもどれない。一生付き合っていきたい学問に出会ってしまった。それ抜きで自分の人生を語ることはできない。こんなにも豊かに生きることができるようになった自分が,子どもの頃の自分に自慢だ。

p.182 斉藤裕子「あとがき 緑ゆたかな季節に」

 こんなことを言い切れる人生って確かに素晴らしいですね。学ぶ歓びを20代のわたしに教えてくれた仮説実験授業に感謝します! だから,それを選んだ自分にも乾杯!

斉藤裕子編集『ホットレモン』(2004年発行)

給食を食べるのが遅いことで劣等感を持っている子どもがいたら,「ゆっくり食べてもいいよ」と声をかけてあげたい。ひとりの子どもを救う努力から教育は始まるとぼくは思う。


p.37 大崎博澄「ゆっくり食べていいよ」

 これは,教員採用試験の面談の時にある受験生がいった一言のようです。この言葉だけで「この子はいい先生になるだろう」と思ったそうです。みんなをどうにかするのではなく,まずは前にいるひとりからですね。

 授業見学のあと,母に言いました。「仮説実験授業がなくても大丈夫かもしれないと思うくらいすごい授業だったよ」と。そしたら母は「仮説がなかったらとてもこんなことはできんと思う」と言いました。
 確かにそのとおりでした。考えてみれば,授業の隅々まで丁寧にやることも,授業書の丁寧な構造の価値を実感していてこそできることだし,楽しさを第一規準にすることも仮説の実践を通して,たのしい授業の素晴らしさを知っていなければできないことです。また,何よりも子どもの笑顔は仮説を体験していてこそだと思います。私は,先生としての母に感服するとともに,母をこんなに笑顔に包まれた教師にしてくれた仮説実験授業の素晴らしさを改めて実感しました。

p.70 斉藤萌木「わたしと教育学」

 先の犬塚さんの話につながりますね。また,わたしが7月のレポに書いた文章にもつながりますね。仮説実験授業をやってきたからこそつかめる子どもとの温かな関係。〈子どもは自分で変わっていく〉という圧倒的な信頼感。これは単なる言葉面ではなく,授業で活躍する子どもたちの姿を見ることで生まれる,確かな確かな信頼感です。

 優等生は相手に合わせるのがうまいんですから,「オレだっていつもウソ書いてるぞ」とね。だから,「子どもの感想は祝儀袋」というのは当たっているところがあるんだ。自分がそうして書いてきたんでしょ。だから優等生になれたんでしょ。だから,「感想文なんて信用できない」というのは,自分の体験だから信念が強いんですよ,優等生は。でも,劣等生はそんな器用なことはできないからね。

p.81 板倉聖宣「子どもの感想文をどう見るか」

 このお話は,「子どもの感想文なんて信頼できない」と言い切る東大大学院の教授や先輩たちの話をした萌木さんに対して,板倉さんが話したことです。優等生は先生受けしようと生きてきたから優等生なんです。先生の意図を忖度して生きてきた優等生たちにとって,感想に素直なことを書かないのは当たり前なのです。教室に〈なにを言ってもいい雰囲気〉があってこそ,子どもの感想文は信じられるものになります。いやなら「イヤ!」と言ってね!

 純粋である。だから酒に向かってゆく。傷つきやすい。だから酒を飲む。太平ムード,年功序列,官僚化というようなことが堪えがたい。落伍者意識がある。神経過敏である。鬱屈している。仕事熱心で大酒飲みで女嫌いという人にはどこかにスカッとしたところがある。何かに徹底しようとする気味あいがある。
 私の酒乱のイメージは,ざっといって以上のようなものである。私は酒乱がいいなどというつもりはない。酒乱を愛しているだけだ。酒を飲んでいないときの酒乱なんてのは,最も神様に近い。私も立派な「酒乱」になりたいと願っている。軽佻浮薄であり,かつ立派というのが理想である。

p.103 大崎博澄「『子どもという希望』を信じて」の講演で引用…山口瞳『江分利満氏の酒食生活』より」

すみません,わたしもこういう酒乱なら大好きです。ただそれだけ。

 ぼくは武谷三男の弟子みたいなところがあるんだけれども,みんなはすぐに「武谷さんの三段階理論の論文が好きだ」という。ぼくには武谷さんの本には二冊好きなのがあって,その一つは『科学のとびら』という子ども向けの本,もう一つは『文化論』というのです。
 『文化論』というのは,非常にヒューマニスティックです。科学史的ヒューマニスティックです。そういうときに,「あー,武谷さんの専門的な偉そうな論文じゃなくて,オレはこういう論文が好きなんだ。そういうことを思う人はあまりいないかも知れないけど,オレはスキだ」と自分の評価の基準が確認できます。

p.156板倉聖宣「仮説実験授業が解決した問題」

 武谷さんの本には読みやすいものとちょっと学問すぎて…というものとがあります(もちろんわたしから見て…です)。皆さんにも,ぜひ何か手に取ってみてほしいです。わたしはまだ『文化論』をしっかり読んだことはありません。これを機会に読んでみようかなと思います。
 それにしても,板倉先生は武谷三段階理論を応用して大学院で研究論文を書き,そのご仮説実験授業を考えたハズなんです。だから,そういう論文の方が好きなのかと思っていました。

コメント

タイトルとURLをコピーしました