下記報告文は,1998(平成10)年8月22日に,まだ発掘中だった「珠洲市南黒丸遺跡」について,県埋蔵文化センターの担当者が現地説明会の際に配付した資料である。
父(大正9年生まれ)の遺品を整理していたら,当時撮影したであろう写真(本文下に掲載)と共に,ファイルの中に保管されていた。
わたしは地元に住んでいながら,この遺跡ついてしっかり学習したこともなく,詠んでみて,新しい発見がいっぱいだった。
その後,ネット上で「珠洲市南黒丸遺跡」と検索してみたが,タイトルこそ見つかるものの,詳しい説明はとんと見つけられなかった。
そこで――著作権の関係も気になるのだが――地域の教材化に苦心している――後輩教員の学習のためにも,ここに当時の配付資料を掲載させてもらった。


平成10年8月22日 現地説明会資料
(財)石川県埋蔵文化財センター
珠洲市南黒丸遺跡
平成10年度 発掘調査成果の概要
Ⅰ はじめに
南黒丸遺跡は、宝立町南黒丸地内の船橋川左岸に位置し、丘陵地から海に向かって開ける狭い平野部にいとなまれた中世の遺跡です。国道249号(通称松波バイパス)の改築工事に先立ち、平成8年度・10年度の2次に分けて発掘調査が行われています。今回は10年度の発掘調査で得られた遺構・遺物を中心に、南黒丸遺跡の当時の姿に触れていきたいと思います。
Ⅱ どのような建物が建っていたのか
中心となるのは、総柱の構造を持つ掘立柱建物跡です。10軒以上の建物跡をこれまでに確認していますが、特に注目されるのは柱と柱の間隔が2.5m(約8尺)、南北10間×東西5間(調査地内で確認できる大きさ)の大型の総柱建物跡です。この建物跡は、これまでに石川県内で発見された建物としては最大級の規模を持つものです。
発見された建物跡は重なり合って発見されており、建て替え・新築などが何回かにわたって行われていたことを示しています。建物にともなう井戸跡も発見されており、中には井筒がそのまま残っていたものもあります。
これらの建物にどのような人々が住んでいたかは、現段階でははっきりしませんが、南黒丸やその周辺を開発し、経営していた有力な土豪のような人が住んでいた屋敷跡の可能性もあります。
Ⅲ どのようなものが出土しているか
これまでに遺物ケース90~100箱ほどの遺物が出土していますが、そのほとんどはこの珠洲の特産品であり、鎌倉・室町時代に作られた珠洲焼です。出土した珠洲焼の特徴から、ほぼ13世紀(鎌倉時代中頃)を通じて遺跡が存続し、その後何らかの理由で放棄されたものと考えられます。珠洲焼の主力製品であるカメ・壺・すり鉢の3種類が大半を占めていますが、中には水瓶や硯などのかわった製品も見られます。
珠洲焼の他には、瓦が30点ほど出土しています。色調や焼き具合など珠洲焼とはやや異なったおもむきが見られますが、この珠洲で作られたものでしょう。珠洲焼をともなって出土していることや、瓦の作り方に見られる特徴などから、中世の瓦ではないかと考えられます。この時代においても、瓦は寺院などのごく限られた建物にしか葺かれないもので、中世の瓦としては県内で初めての出土例となり重要な資料として注目されます。
残念ながら調査地内では瓦が葺かれたような建物跡を確認することはできませんでしたが、おそらくそれほど大きくない、お堂のような建物がこの近辺に建てられており、遺跡の終わりとともに姿を消したものと思われます。
Ⅳ おわりにあたって
以上、おおまかながら南黒丸遺跡の概要を述べてきました。細かな点や準備不足で触れられなかったことも少なからずありましたが、ご容赦いただきたいと思います。
今年の5月に調査に着手して以来約4ヶ月、その間に県内最大級の規模を持つ大型の総柱建物跡や多量に出土した珠洲焼、瓦など、珠洲地域の中世像をさらに明らかにしていくであろう資料を得ることができました。これも地域の皆様のご理解とご協力のたまものと感謝しております。
調査完了までいま少しかかりますが、引き続きご理解ご協力のほどをよろしくお願いいたします。
調査担当:(財)石川県埋蔵文化財センター
調査第3課主査 浜崎悟司
同 主事 和田龍介
南黒丸遺跡の写真(撮影:父)









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