地震の被害と地質(ご近所の話)

さいはての街・珠洲

尾形正宏

本レポートは,2024年1月1日午後4時10分頃に発生した令和6年能登半島地震による近所の家屋の倒壊状況を見て,疑問に思い,調べたことである。
あくまで一つの仮説として読んでほしい。なお,文責はあくまでわたしにある。 

同じ鵜島地区なのに

わたしの地区の被害

 わたしが鵜島地区(宗玄・中鵜島・稲荷・白山・八万の5地区。ここでは,旧鵜島保育所の通園範囲の指す)の地震の被害のようすを始めてみたのはいつだっただろうか。
 1日の夕方,「大津波警報」が出て高台の国道へ避難するときには,自宅から恋路方面(南の方)へ車で移動したので,南の方のようすはある程度わかっていた。地面は浮き上がり,道はひび割れ,塀が崩れ落ちている場所が何か所もあったが,倒壊した家屋はなかった。

 翌朝,自宅に戻り,稲荷地区(わたしの自宅がある地区)の被害状況を確認しようと,自宅から鵜飼方面(北の方)の道を犬と散歩して,舟橋川の方へ行ってみた。ちゃんと稲荷神社の鳥居も立っているし,社殿も大丈夫のようだ。
 家の塀が壊れているのが何か所かあったが,倒れてしまっている建物は海岸近くにあった小屋くらいだ。これらは津波に流されたのだろう。

舟橋川より北の地区の被害

 しかし,舟橋川まで来て,わたしは呆然と立ちつくした。
 橋の向こうに見える家屋の半数以上が倒壊してしまっているのだ。倒壊せずとも,傾いている建物も多い。橋は隆起(あるいは地面が沈下)してしまったために,車は通れない状況だ。

 そして,3日の朝。ガソリンを9L分けてもらうえるという情報を聞いたので,鵜飼川沿いにある越後スタンド(自宅から北へ約2.5㎞)まで行ってきたが,このスタンドへ行くまでの道路に面した家々も,そのほとんどが倒壊している状態だった。いったい,これはどうしたことなのか。
 同じ鵜島地区でありながら,なぜ,こんなに被害が違うのか。

大型車が通ると揺れる土地

 松波―鵜島バイパス(上図:山側の道路・現国道249号線)がなかったころ,自宅前の道は国道249号線(上図:海沿いの道路)として,珠洲市の中心部へ行くための主要道だった。わたしの家はその道に面していたので,大型バスやトラックが通るたびに,家が揺れていた。
 我が家の子どもたちは,そんな環境には慣れっ子になっていたが,大学の友だちやお婿さんが初めて我が家に来た時には,「えっ,地震?」と思ってビックリするとも言っていた。
 大型車が通るたびに家が揺れるのは,この鵜島地区の海岸線に住む人たちにとっては当たり前で,それは平等なことだと思っていた。どの家も,海底から続く砂浜の上に建っているのは,共通しているのだから。
 なのに,今回の被害状況が違うのは…なぜ。

長老との会話

 なぜ,舟橋川以南地区の家屋だけが,わりあい大丈夫だったのか。
 その原因(かもしれないこと)を,ある朝,近所の長老が教えてくれた。
 彼は,この地区で一番の高齢者である。
 以下の内容は,この長老の予想である。

 下図で,舟橋川を挟んで右側(南側・青い部分)がわたしの自宅を含む地区で倒壊被害が少なかった地域,左側(北側・黄色い部分)が被害の大きかった地域である。

井戸が深い

 わたしの自宅あたりの井戸の深さは,舟橋川を挟んだ隣の地区(黄色地区)よりも深いらしい。わたしの自宅にも井戸があるが,わたしは「鵜島地区の井戸ってみんな同じような深さだ」と,なんの違和感もなく思っていた。自分のところが「ふつうだ」と思うのは仕方ないことだ。ましてや,家の建っている辺りの景色もよく似ているのだから。

マンガンの鉱脈?

 また,こんな話もしてくれた。
 昔,集落のお寺さんで井戸を掘り,くみ上げた水を温めて飲もうとしたら真っ黒になったので,「井戸水に何かが含まれているのではないか」と調べてもらったら,「マンガンが含まれていた」という話もしてくれた。「地下にはマンガンの鉱脈があるのだ」とも言っていた。
 この井戸水を,大人に言われるままに保健所までも持っていったのは,まさに長老自身だったという。彼が小中学生の頃の話らしい。

トンネルを掘るほど固い

 さらに,今は廃線になった国鉄能登線を敷設する際(前図,黄色い太線が元線路のあった場所),裏山を削ろうとしたけれども,岩盤がとても硬かったので削るのは諦め,結局,ここにトンネルを掘ることになったとも言っていた。
 そういえば,恋路駅からとなりの鵜島駅までにトンネルが1つ。鵜島駅からとなりの南黒丸駅までにはトンネルが2つあった(今もトンネルだけは残っている)。このトンネルがある地域と倒壊家屋が極端に少ない地域が一致しているのは偶然なのだろうか(トンネルの数の記憶はちょっと怪しいが)。
 以上のことを総合して考えると,どうも舟橋川以南地区(宗玄・中鵜島・稲荷)は,それ以北の地区(白山・八万)よりも地下の地盤が固いのかもしれない。その違いが,家屋の倒壊の多少につながったとすれば,納得のいく話だ。

地質の違いが被害の違いを生んだ

研究会仲間からの反応

ここまでの情報(簡略化したもの)を2024年4月19日のブログで書いておいたところ,さっそく中さん(研究会仲間,東京)からメールがあった。

中です。毎日、ブログをたのしみに読ませてもらっています。ぜんぜん反応してなくて申し訳ないですが、貴重な情報にいつも感謝しています。リアルな現地の様子が伝わってきます。
今回、地質についての記述があったので、少しはお手伝いできることもあるかと思って返信します。
国土地理院の「地質図ナビ」地質図Navi (gsj.jp) を見ると、その場所の地質がわかります。読みにくいとは思いますが、見てみるといろんな情報が得られます。とりあえず、そこから取り出したデータを添付しておきました。
その地図を見ると、鵜島以南の地区は火山岩の安山岩の岩盤があって、北の方は砂地になっているようです。地震の揺れの程度がその地盤の違いによったのではという尾形さんの予想は、そのとおりだと思いますが、どうでしょうか。

そして,このメールに添付されていたのが下の地質図である。

宝立町鵜島地区の地質図

岩石の違い,できた時代の違い

 こちらの地図を90度回転させて,上記の地図と比べてみることにしよう。

 この地質図を見ると,舟橋川の南の地域(右側)は,茶色い色の地層が旧国道沿いまで迫って来ているのが分かる。薄い茶色(Rr)は,デイサイト-流紋岩溶岩(第3紀前期中新世),こげ茶色(No)は,玄武岩‐安山岩溶岩(第3紀漸新世),紫色(D)は,玄武岩‐安山岩でできた貫入岩石である。ついでに,宗玄地区の山の方のピンク色の地層(Rt)は,砂岩・礫岩を含んだデイサイト火砕岩(第3紀前期中新世)だそうだ。要するに,わたしの家の西側の山地は,中さんが言うように,流紋・デイサイト・安山・玄武という火山岩からできているのだ。そりゃあ,固いわ。第3紀漸新世~第3紀前期中新世というのは,今から約年3390万年前~500万年前くらいのことだ。
 そして,舟橋川は,川の南の方に蛇行することはなかったと思われる。
 今はセメントで護岸されているが,この川は護岸される前から,このかたい岩石に沿って流れていたのだろう。北の方(今は田んぼが広がっている)に蛇行することはあっても…。
 一方,舟橋川の北の地域(左側)には,薄い白色f(礫,砂及び泥)や薄い緑色ld(珪藻質シルト岩),ドットのある薄い水色tm1(シルト,砂及び礫)でできている。ちなみに,地質年代的には,第4紀中期更新世~完新世[約258万年前~数千年前]という新しい地層である。

表層は同じ「完新世にできた砂丘堆積物」なのに

 しかし旧国道が走る海沿いの平地(d)は,恋路~鵜島~鵜飼~春日野に至るまでいずれも砂丘堆積物(完新世,最も新しい地質)であり,家が建っている表層はどこも同じはず。だからこそ,わたしは「倒壊家屋の程度の大きさ」を不思議がっていたのだ。
 しかし,ここに紹介した固い火山岩の地層が,海に向かってなお地下深くつながっているとしたら,どうだろう。いくら表層が同じように見えても,揺れやすさには少しは違いが出てきそうな気がする。

わたしの結論(仮説)

 長老が言っていたように,わたしの集落の地下深くに,この火山岩の岩盤が続いているのだろう。その上に砂丘堆積物がのっているのだと思う。
 それに比べて,舟橋川以北の地面の下には,川の南側よりも深いところまで砂丘堆積物がたまっているのではないかと考えられる。
 そのため,岩盤が弱く,より大きな揺れとなり,多くの家屋が倒壊したのではないか。
 これがわたしの仮説である。

舟橋川から北の方を見たところ

2024/04/19 記
2024/05/19 追記

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