ハンセン病撲滅への「善意」

レポート綴

光田健介著『愛生園日記』を読む 


国立ハンセン病資料館と多摩全生園の見学

2009/07/18
尾形正宏

 2年前の能登町学教研の講演で「ハンセン病の今」についてお話を聞いて以来,ハンセン病の歴史について調べてきた私が一番行きたいと思っていた場所=それが「国立ハンセン病資料館(旧高松宮記念ハンセン病資料館)」です
 今回,東京に行く機会があったので,半日かけてじっくりと見学することが出来ました。

入場無料
ハンセン病資料館の玄関 この資料館は,国立ハンセン病療養所のひとつである多摩全生園に隣接して建っています
 資料館のHPには,最寄りのJRの駅からは歩いて20分以上かかると書かれていました。
 私は,JRの新秋津駅で降り,行きはタクシー,帰りは歩きで行っってきました。「ハンセン病の療養所」はもともと差別的な意味合いで出来たので,町の郊外にあるのだと感じました(瀬戸内の島にもありますしね)。
 資料館にはいると,まずは,入場料が無料なのにびっくりしました。
 その代わり,簡単なアンケートを書かされましたた。「どこから来たか」とか…。
 私が「石川県から来た」と答えると,受付の女性の方はとてもビックリされていました。
「この資料館には一度来てみたかったのです」
と言って受付を通りました。
 この資料館では,何冊かの本やパンフレットを無料でいただいてきました。
 「自由にお持ち帰り下さい」の棚には藤風協会が編集した『藤風文藝』が何冊も並んでいたので,そのうちの最新版をもらってきました。これは入所者たちが書いた「詩・短歌・作文」などをまとめたものです。また,『常設展示図録2008』もなんと無料でいただきました(「購入したい」といったら「販売していません」と言われて,「そんなに必要なら…」ということで,いただいたのです)。そんなんでいいの???
 資料館に入ったときには,開館30分後くらいだったので,私以外のお客はいませんでしたが,そのうち,外国人(大学の先生みたい感じ)とお連れの通訳の人(この人も大学の先生みたい感じ)というペアが来て,3人でじっくりと見て回りまりました。

展示内容での疑問
 第1展示室は,古代から現代まで,ハンセン病者がたどってきた歴史がまとめられています。
 『一遍聖絵』の中に描かれた患者の様子などは初めて見るものもあり,たいへん興味深いものでした。
 しかし,私が一番知りたかった「光田健輔」については,次のように説明されているだけでした。
<東京市養育院・光田健輔>
行路病者や貧窮者などの収容施設であった東京市養育院内に,医官光田健輔の提言により,1899(明治32)年,ハンセン病患者の隔離病室「回春病院」が設置された。(『図録』22p)

 ここでは,光田健輔が行った数々の「行き過ぎた対策」についての指摘は全くなしです。この展示だけでハンセン病を理解しようとすると,光田の行ったことは全く分からないと思います。
 確かに「断種」や「重監房」など,患者の人権をムシした施策が行われていたという指摘は展示の中にあるのですが,それが一体,誰の指示でどのようになされたのかが,よく分からないのです。なんだか,いつのまにかそうなってしまったみたいな感じでしかないんです。こんなんで「歴史を展示した」って言えるのでしょうか?
 このあたりのことについて,『図録』の「はじめに」で館長の成田稔氏が次のように述べているのを見つけました。
 実は再開館当初から,特に常設展示に対して,旧資料館の展示に劣るという批判が出ていました。その事情は,旧資料館が隣接する国立療養所多摩全生園入所者を中心とする当事者のいわば手作りであったのに対し,新資料館のそれは入所者らの手が入っていないところにあるようです。
 確かに,展示の筋書き(内容や解説)こそ,旧資料館の状況を知悉している学芸員らが当初作成したものですが,厚生労働省の監修を経る間に表現が部分的に和らげられ,さらに展示制作者の手によって見た目の良さが強調された感があります。
 ここでいう旧資料館とは「高松宮記念ハンセン病資料館」のことを指します。これを読むと「まだまだ問題はあるだろうが,一応,開館してみた」という感じです。「2~3年をめどに展示の更新を考えております」とも書かれています。
 それでは,先の「高松宮記念ハンセン病資料館」のときには,それなりの私も満足できるような展示だったのでしょうか? 私の手元には,旧資料館に関する資料がないのでよく分かりません。
 しかし,いただいた資料の中に,旧資料館設立のために奔走した旧資料館館長の大谷藤郞氏が,次のように述べているのを見つけました。
 高松宮記念ハンセン病資料館には,どのような品々が展示されているのでしょうか。第1には,ハンセン病患者さんに対して,そのご生涯にわたりご仁慈を賜った貞明皇后様,高松宮様をはじめ救らい事業の先駆者たちの写真と,簡単な略歴が掲げられていて,大まかな輪郭を知ることが出来ます。
   忍性菩薩 一遍上人 テストウィード神父
   コール神父とマリアの宣教者五人の修道女
   …(中略)…
   光田健輔
   …(中略)…
   井深八重 小川正子
 しかし先駆者たちが,どういう時代にどういう役割を果たしたかの評価については,資料館では何も書かれず何もなされていません。それは今のところ人により評価が分かれ,一致した見解を出すのが大変難しいからですが,「偏見差別を問う」というのなら,それはいずれ避けて通れないことです。また,同じように私を含めて,政治家から国民の一人ひとりにいたるまで,いずれ時いたればその責任を問われるのです。歴史とはそういう厳しいものと思います。(大谷藤郞著『ハンセン病 資料館 小笠原登』藤風協会,
黄色マーカーは尾形)
 やはり,旧資料館でも「偏見差別を問う」時に避けては通れないハズの先駆者たちの責任は展示されていなかったようです。
 この「高松宮記念ハンセン病資料館」が出来たのは平成5年(1993年)です。
 悪法「らい予防法」が廃止されたのは,その3年後の1996年です。「高松宮記念ハンセン病資料館」が出来た当初は,まだ「国策」を反省していないときですから,その国策に協力してきた者たちの「責任を問う」ことには無理があったのかも知れません。しかし,今は違います。歴史を問うなら,絶対に個人の責任を明らかにすべきでしょう。大谷氏もおそらく私と同意見のはずです。
 同書で大谷氏は,光田健輔を次のように紹介しています。
氏に対する評価はいろいろであるが,日本のハンセン病の歴史は,第一人者としてのこの人を抜きにしては語ることはできないのは,紛れもない事実である。(40p)
 そんな光田についての展示内容が現資料館でもお粗末なままなのは,いかがなものでしょうか…。
 国立の資料館ができた経緯を考えても,ちゃんと責任の所在が分かる展示にしてほしいものだと思います。

全生園(ぜんしょうえん)も歩いてみた
 右の航空写真が多摩全生園の全景です。右端にある建物が「国立ハンセン病資料館」です。
 私は「資料館」の中を2時間くらいかけてじっくり見ていたので,受付のおばちゃんは「このオヤジはハンセン病に本当に興味があるんだなあ」と思ったらしく,
「全生園の中も見れるますよ。」
と教えてくれました。
 そんで『「全生園の隠れた史跡」めぐり』というパンフも頂いたので,それを片手に歩いてみることにしました。全生園にも1時間半ほどいたかなあ。

多摩全生園全景

 右上の写真は南門あたりのヒイラギの道道です。
 この道は園の中です。写真の右側には,ふつうの道路が走っています。今は走っている車が見えますが,当時はヒイラギの高い生け垣があり,外の景色を見ることはできなかったようです。低くなったヒイラギはまだ残っていました。
 資料館の近くに納骨堂(右下)もありました。その碑には「1985年,3493名の諸霊の遺骨を納めた。我が国の偏見と差別のルーツはこの所にある」と書かれていました。特別厚い信仰心などない私ですが,合掌をしてその場を立ち去りました。

ヒイラギの道
納骨堂

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