~校長室にあった一幅の〈掛け軸〉をめぐって~
菅原美律子
2026/03/01
はじめに
「重光葵」――この名前をすっと読める人は,すでにこの人がどういう人なのかを知っているということになります。ちなみに私はかろうじて読めたし,どういう人かということは,受験勉強程度には知っていました。
実は,この「しげみつまもる」さんが,わたしの勤務校である松波中学校とつながりがあったということが今年(2025年)の夏に発覚しました。それについては,2025年9月のサークル発表用に「もう一つの平和学習」としてまとめようと思っていました。しかし,しばらく書けずにほおっておいたのですが,今月,急に書こうという気持ちがわいてきたのでまとめておこうと思います。
そのきっかけになったのは,先日(2025年12月)の放課後に校長さんから聞いた一言です。その内容というのは,
「来年の2月中に,大分県の重光葵さんの記念館の学芸員さんが松波中まで来る」
という情報でした。
以上のような思わせぶりな書き方はやめて,改めて,時系列に沿ってまとめます。
*なお,本レポートは,3ヶ月(2025年12月~2026年2月)に渡って「珠洲たのしい授業の会」の例会で発表したものを,まとめ直したものです。
第1章 校長室の〈掛け軸〉
2025年7月頃,能登高校のある先生から,「校長室にある掛け軸についてお話をお聞きしたい」という連絡が学校に入りました。それで,校長さんが私を校長室に呼んで,「この掛け軸について知っているか」と聞いてきたのが始まりです。
写真①はスマホで撮影したのですが,表装された掛け軸は前面のガラスに光が反射して読みにくいのですが,次のように書かれています。

願くは 御國(の)末の栄へ行き
我名さけすむ
人乃多きを
昭和二十六年冬 葵
この短歌を,〈現代仮名漢字遣い〉に直すと,
願わくは 御国の末の 栄え行き
我名(わがな)さげすむ 人の多きを
となります。
なお,「御国」の次の変な文字は変体仮名と呼ばれている文字の一つで,「能」という漢字を変化させた仮名「の」です。1
この和歌は,故重光葵さんが,敗戦後,米艦隊ミズーリ号の船上で降伏文書に調印する朝に本人が詠んだ和歌だそうです。
その和歌の直筆の掛け軸が,校長室にあるのです。
〈どうしてそれが本校の校長室にあるのか〉ということがお話の軸になります。
実は,先の能登高校の先生が――教員に正式採用される前に――松波中に講師として勤務していたときに,当時の校長先生がこの掛け軸について話されたことを覚えていたのです。そして,現高校生と一緒に,〈地域教材から平和学習につながるものを発掘する〉ことになり,この掛け軸のことを思い出したというのです。
しかし残念ながら,当時の校長さんはすでに亡くなられているので,詳しいことは聞くことができず,とりあえず,現中学校に連絡を取ったということです。
掛け軸に添えられていた新聞記事など
この掛け軸の下の方に一緒に張られている写真は降伏調印式のようすを伝える記事(写真②右)です。まさに重光葵さんが調印している写真です。そして,「この和歌が送られたのはなぜか?」の疑間の答えが,額の裏に貼られていた地元新聞記事(写真②左)です。

以下,その新聞記事を引用します。
『ミズーリ艦上での短歌が結ぶ』
重光さんから感謝の色紙
弁論大会で称えた松波中の朝倉克子さんへ
さる11月19日石川県飯田高校で行われた弁論大会で元外相重光葵氏がミズーリ艦上の降伏調印式にのぞんで詠んだ和歌を朗詠,その謙虚な心情を称えて見事優勝した同郡松波中学校二年生朝倉克子さんとその母校へ,このほど当の重光氏からその歌を揮毫した色紙が寄贈された。
歌は”願わくばみ国の末の栄えゆきわが名さげすむ人の多きを”の一首で同中学校山県正域教諭がある日受持の生徒に紹介したとことろ,これに感じた克子さんが「講和後の日本を想う」と題して発表したもの。
その情景が山県教諭から鎌倉市材木座海岸の重光氏に知らされ,十二月十一日に色紙が送られてきたもので生徒たちを感激させている。
どうもこの色紙が松波中学校に保管されていて,それを故村田久生校長が,きれいに表装し直して,その時の生徒に語り,その額を校長室に飾ったというのが真相らしいです。
後日,能登高校生がまとめた資料『能登町松波中学校に伝わる重光葵直筆の短歌に関する調査報告書』(令和7年度石川県立能登高等学校地域社会ラボ子ども班)によると,この新聞記事は『北國新聞』(1946年12月19日付)だということが判明した。2
歴代校長にアポを取ってみた
夏体み中に生徒を連れてやってくるという能登高校の先生に,ある程度分かる範囲で教えてあげたいと思い,校長室に飾られている歴代の校長さん――能登地方の学校では,校長室に歴代校長の顔写真が飾られていることが多い――の中で,連絡が取れる方数名にいろいろ聞いたのですが,残念なことに誰も知りませんでした。問題意識がないと,貴重な資料もただの調度品でしかなかったわけです。
朝倉克子さんのこと
もう一つ,この朝倉克子さんとうい人はどういう生徒だったのか知る手立てはないかということです。この時点で分かっていたことは,松波にあった朝倉呉服店の娘さんで,旧能都町の町長さんを務めた山瀬さん宅にお嫁に行ったことまでは分かっていますが,残念ながらすでに他界されているということでした。
そこでほかに何か分からないかと思い立ったのが,年齢的に近いのではないかと,わたしの友人のMさんのお父さんに聞いてみることにしました。すると,〈朝倉克子さんは,Mさんのお父さんの1~2歳先輩にあたり,とても頭がよくて秀才として有名だった〉という情報を得ることができました。でも,その後は,何も新しい情報を得ることができませんでした。
記念館へ問い合わせ
しかし,能登高校の先生が,大分県にある重光葵さんの記念館に「何か情報がないか」と問い合わせたというのです。しかし,直接この校長室の掛け軸につながるものなかったのですが,その学芸員さんから,
「〈葵〉という名前だけでの書というのは珍しい。どうしても本物を見たい」
という連絡が入ったというのです。
ということで,私にとってもそれまではただの額縁に過ぎなかったものが,新たな平和学習の資料となったわけです。そして,うれしいことに「大分から学芸員さんが来られたときは同席してほしい」と校長さんから言われました。人生いろいろあるものです。
今までは教科書の資料の中だけの人物だったのに,ぐっと身近になりました。
第2章 同級生
先月(2025年12月)のサークルで紹介したことの続編。
新聞記事(上記写真③)の女子生徒朝倉克子さんのことが少し分かりました。ちょっとだけ職権を発動して,卒業生名簿を見ちゃいました。すると,朝倉さんと同級生だった人の名前を何人か発見。その中に,ずっと前に,一緒に勤めたことのある人の名前(A先生)を見つけたので,すぐに直撃! 電話アポもなしに,ご自宅を訪問して聞いてきました。
A先生から「朝倉さんはとても頭のいい人だったこと」「この新聞にあった山県先生は野球は下手だったけど野球部の顧間で英語の先生だったこと」を教えて貰いました。さらに,朝倉さんと仲良しだった人の名前も教えてもらい,その友人の家に行ってみましたが,残念ながら,自宅は公費解体されており,会うことはできませんでした。
第3章 研究員さん,公共機関で来校
2026年2月4日,暦の上では「立春」――でしたが,その数日前までの大寒波を考えたらとても春だとはいえない一日であったものの――その日,大分県の「大分県立先哲(せんてつ)資料館」の研究員である松原さんと松尾さんが,松波中学校にやってこられました。
それも,お二人は,公共交通機関を使っての来校です。金沢から特急バスで能登空港まで来て,ふるさとタクシーを使い,どこかまで来て,路線バスに乗り換え,「松波公民館前」で下車し,徒歩で学校までやってきたというのです。私なら考えられない〈行動力〉です。私だったら,ひょいとレンタカーを借りちゃいそうです。「もしかしたら公費で出張だからかな」などと思ったのですが。
学芸員の熱い思い
さて,本題。
お二人は,「とにかく,本物の重光――松原さんがこう呼んでいた――の書を見たい!」という意欲だけでいらっしゃったようです。さすが!って感じでした。来校する前に,能登高校の先生から生徒たちの取り組みをまとめた資料を手にしていたようで,だいたいの流れは把握していらしたので,私の方からは,年末に得た情報をお伝えしました。
いろいろお話した後で,〈残された疑問〉は次のようなことでした。
・能登半島の先の中学生の弁論大会のことを,学校の誰が,どんな意図で,重光に伝えたのか。伝えることができたのか,
・重光がどんな思いで,この書を送ったのか。
「これらの疑問に対する答えを知ることができないだろう」ということは,松原さんも十分承知の上で,感慨深く話されました。
〈掛け軸〉の今後
最後の話題は,「本校が来年度で開校になった後のこの書の行方について」でした。
この掛け軸は〈備品登録〉されているわけではありませんが,能登町教育委員会の所持品となるだろうから,町の博物館に保管されるのが筋だろう。しかし,そうなると,今後は誰の目にも触れることがなくなるということも予想され,それは残念だ,というお話もしました。
お二人の学芸員としての仕事は,主に〈学校という場所にある歴史的な資料を発掘することにある〉のだそうです。昔から,そういった資料が地域の学校に寄贈されたことが多いらしく,〈古くなった校舎の建て替えや廃校などをきっかけに,歴史的価値に気づくこともなく廃棄されることを防ぎたいのだ〉ということでした。だから,今回の重光の書が,〈この能登半島の中学校に現存していたことに大きな衝撃を受けたということ〉,それと〈出会うきっかけをもらえたことに感謝している〉としきりに話されていました。
中学校を後にしたお二人は,その後,路線バスに乗って能登高校へ行き,夕方,高校近くのバス程停からバスでに乗り,その足で富山県南砺市に向かう――ということでした。彼らは,「南砺市に入るのは,夜の9時頃かな」と笑っていらっしゃいました。素晴らしい研究者魂です。
あと私ができることは,その書を表装し直した時の様子と,朝倉克子さんの友人だった人の情報を得ることしかないと思うけれど,なんだか楽しいです。
なにか新しいことが分かったら,続編をお伝えします。

大分県立先哲資料館について
大分県立先哲史料館は、大分の先哲および大分の歴史と文化に関する史料を収集・保管するとともに、調査・研究の成果を展示や閲覧、叢書の刊行などを通して広く公開しています。『大分県先哲叢書』は、大分の代表的な先哲の業績と人間像を明らかにし、地域文化の継承と創造に資することを目的として刊行するものです。各人物ことに資料集(研究者向け)、評伝(大人向け)、普及版(子ども向け)で構成しています。(大分県先哲資料館公式サイトより)
戦後80年記念企画展「先哲・重光葵~平和を希求した男の生き様~」のチラシ(上記資料館公式サイトより)


脚注:
- 変体仮名…平仮名の字体の中で、現在使われていない字体を「変体仮名」と呼んでいる。平安時代に平仮名が作られて以来、様々な字体が用いられてきたが、1900年(明治33年)の小学校令施行規則により学校教育で用いる字体が定められ、それ以外の字体が「変体仮名」となった。(Wikipediaより)… ↩︎
- 『能登町松波中学校に伝わる重光葵直筆の短歌に関する調査報告書』には,本新聞記事を特定するまでの過程について以下のような記述がある。
3) 記事の掲載年月日について
新聞社名および新聞記事の掲載年月日の特定について、地元の図書館で調べてみたが、 何の成果も得られなかったため、令和7年9月28日に、県立図書館に出向き、調べることとした。/おそらく、記事の内容規模から考えて、地元ローカル紙に掲載されたものであることは容易に想像がついた。だが、どこの地元新聞社の、いつの記事なのかの当たりをつける必要があった。北國新聞なのか、中日新聞なのか。インターネットで地元新聞の創業や沿革を調べてみると、 石川県において、北國新聞がもっとも歴史が長く、また、戦前、戦時中、戦後直後当時の記事が残っているのはこの1社だけであったこと、直筆短歌に昭和26年冬との文字があったこと、朝倉さんが14歳であったということを合わせて考えると、北國新聞1択しかない、と結論付け、掲載年月日の特定をすることにした。図書館のホームページによると、マイクロフィルムでの閲覧ができるとの情報が得られた。後日、図書館カウンターでしかるべき手続きを踏んで、マイクロフィルム版北國新聞昭和26年分を調べた。/昭和26年11月分~12月分の記事の中に、松波中学校で見たものと同じ記事を見つけることができた。不明点・疑問点のひとつを明らかにすることができた。/掲載記事は、『北國新聞』(昭和26年12月19日付け)であることが分かった。(『調査報告書』7ぺ) ↩︎
付け足し:能登高校生がまとめた資料について
ここからは,編集子がつけ加えた文章です
上述したように,そもそも,この話のきっかけとなったのは,石川県立能登高校の先生からの問い合わせでした。この先生は,3名の生徒(いずれも2年生)と共に〈重光葵直筆の掛け軸のナゾ〉について追求し,報告書をまとめました。その報告書とは次の2つです。
①『能登町松波中学校に伝わる重光葵直筆の短歌に関する調査報告書』(A4,12ぺ)
②『戦後80年企画紙芝居――願くは~平和をつなぐ歌~一外務大臣と心を通わせたある少女のおはなし』(A4,7ぺ)
これらの報告書及び紙芝居台本はたいへんよくできていて,いまどきの高校生のレベルの高さを感じました。
①『調査報告書』について
本調査書で生徒たちが書いているように,今回の調査で明らかになったことは,残念ながら「当時の新聞記事の特定」だけでした。しかし,その取り組みの中で,彼らは実にさまざまな人と関わっています。問い合わせ先だけでも,
重光葵記念館(2025年9月19日),大分県立先哲資料館(同9月24日),山渓偉人館(同10月8日),国東市歴史体験学習館(同10月8日),外交史料館(同10月24日),さつき城下町資料館(同10月31日)
と多岐にわたります。もちろん,当時の重光葵の著作にあたったりもしています。
さらに今回の企画を立ち上げた初期段階から「小学生~中学生まで対応できるようなものにもしておく,との想定」(『報告書』9ぺ)もしてあったので,紙芝居の創作にも取りかかったのでした。
②紙芝居の制作・披露について
紙芝居は,調査で明らかになったことに一部創作を加えて完成させたものです。
生徒たちは,本紙芝居を,実際に上演します。
・こどもみらいセンターで開催されたイベントの一環として。地域の小学生だけではなく未就学児もいたそうです(2025年12月20日)
・柳田教養文化館で,柳田小学校の児童向けに3回も上演しました。「能登町にこのような宝があることを知ることができてうれしい」などの感想があったそうです。(同12月23日)
とてもステキな取り組みですね。
最後に,この報告書をまとめた高校生(3人のうちの一人)の感想を紹介します。
最初は歌の意味をうまく飲み込めなかった。「自分の名を蔑んでくれ」 などと詠んでいる歌に初めて出会ったからだ。しかし、 朝倉 克子さん、山県教諭、重光葵氏3人の人生がほんの一瞬ではあったけれども、短歌を介して交錯したというこの史実を調査していく中で、私たちにとっても、この歌は大切なものとなった。この歌を詠んだ当時の日本の状況、降伏文書に署名・調印する日にミズーリ号上で、重光氏はどんな光景を目の当たりにしたのか、一外交官としての己の歩み、 一日本国民としての己の存在、といったものがこの歌から想像された。重光氏の心情を思い測り、弁論大会で優勝を勝ち取った朝倉克子さんという一人の少女にとって、この歌との出会いは、いかに衝撃的で、且つ、大きな存在であったのかということは想像に難くない。
3者の相関イメージ図(『報告書』3ぺより)




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