2024年能登半島地震はどれほど警戒されていたのか

レポート綴

―― 『徹底検証 地震と防災 石川は安全か』(1995年発行)に描かれた地震像 ――


尾形正宏
2026/05/16

はじめに

先日,市民図書館の郷土史コーナーを眺めていたら,上記タイトルの本が目に入ってきた。手に取って奥付を確認すると,発行年月日は1995年6月20日である。阪神淡路大震災が発生したのが1995年1月17日のことだから,発災から半年も経ずに発刊されたらしい。わたしは,これまで本書――國新聞社出版局編『徹底検証 地震と防災 石川は安全か』(北國新聞社,158ぺ,1995,以下『本書』と略す)――の存在をまったく知らなかった。
わたしは,2007年10月の石川県理科大会の公開授業を担当したときに,2007年3月に起きた能登半島地震を取り上げ,〈地盤の揺れやすさ〉や〈液状化現象〉などについての授業を組んだ。そのとき,ネット上からたくさんの情報を探して学習していたのだが,残念ながら本書の存在を知ることはなかった。これは当時のわたしのアンテナが鈍っていたというよりも,「このような石川の特集を組んだ本があるわけがない」と思っていたので,端から一般図書から情報を得ようとは思っていなかったのである――地質図関係の専門書はよく見たのだが――。

残念ながら古本でしか手に入らない。石川県内の図書館にはあると思う。
本書の目次(ページ数略)

1 どこがどれほど危険なのか?
地震予知はできるのか 金沢大学理学部教授 河野芳輝
金沢が抱える弱点は何か 金沢大学工学部教授 北浦 勝
石川県の地質と地盤――地震・断層活動と火山活動――  金沢大学理学部助教授 石渡 明
津波襲来への備え 金沢大学理学部助教授 古本宗充
2 阪神大震災の教訓
木造倒壊が意味するもの 金沢工業大学教授 鈴木 有
この目で見た現場
 合掌しながらの調査活動 金沢大学工学部技術官 池本敏和
 瓦礫の下から人の声が聞こえる!  陸上自衛隊第十四普通科連隊長 松島順一
 都市型災害に対応した救援資機材を 金沢市消防本部次長 前川晃
 行政の役割を強く認識 辰口町助役 宮本長興
3 できることから始めよう
阪神大震災は北陸型震災だ――私の考える地震防災への取り組み方――  金沢大学理学部教授 河野芳輝
家庭でできる地震への備え 金沢大学工学部助教授 宮島昌克
防災チェックリスト
家族で確認すること/住居と周囲の点検リスト/わが家の非常時備品リスト/町内会・自治会で話し合うこと/わが家の避難経路図
防災に関する問い合わせ先
コラム①地震発生時の心構え
コラム②大地震は忘れたころにやって来る
コラム③知っておきたい地震保険

以上のように,地元金沢大学理学部・工学部の教授・助教授たちが,資料に裏付けられた論文や提言を寄せているし,阪神淡路大震災発災後,現地に入って活動した方々の見聞録もある。なかなか読み応えのある本だった。

2024年能登半島地震前の予想・提言の数々

それでは,いまから30年前に書かれた本書を読めば,
「わたしが生きているうちに,2024年能登半島地震規模の地震が起きるかもしれない」
と少しは覚悟ができたのだろうか。それとも,本書では,能登でここまで大きな地震が起きるとは想定していなかったのだろうか。そんな問題意識で,本書を読んでみようと思ったのである。
今さら感があるとは思うが,興味のある方はお付き合い願いたい。

答えは「ノー」

本書の表紙をめくると,1ページ目1行目に,編集者の次のような言葉が飛び込んでくる。

石川は安全か,という問いにたいする答えは「ノー」です。

はい,終わり。ちゃんと警告されていたようだ。
「ほうら,30年以上も前の本でさえ〈石川は安全ではない〉と言っているでしょ。だから,備えていなかったあなたが悪いのよ。」
てな感じかな。
「日本中,地震の被害から逃れられるところなんてない」――こう言ってしまえば身も蓋もないけれど――と思っていた方がいいのだろう。しかし,この事実は,われわれ日本人には余りにも当たり前すぎるので,返ってわれわれの生活にはなんら影響を与えることなく,「それでも,能登は関東よりもましだろう」とか勝手に解釈するのが人間の性というものなのだろう。2024年能登半島地震後,「地震が怖いから」と能登を離れて金沢方面へ行った人もいるけれども,少なくとも「安全かどうか」ということについては,そのような転居はまったく意味のない行動なのだ。仕事がないから――という理由なら分かるのだが。

引き続く大地震

河野芳輝(こうのよしてる,~2010)「地震予知はできるか」から,戦中・戦後の日本で発生した地震の状況について確認しておこう。

今から約50年前にも大地震災害が引き続いた時期があった。すなわち,昭和18(1943)年10月,鳥取市近くを震源とする鳥取大地震(M7.2)がその始まりであった。この時の死者は1083名であった。第二次世界大戦が終末を迎えた昭和19(1944)年12月に東海道沖(紀伊半島南東の沖合い)で東南海地震(M7.9)が発生した。この時の死者は998名であった。大津波も発生した。翌20(1945)年1月,三河地震(M6.8)が発生した。これは地震としては中型のものであったが,愛知県半田市付近の直下で起こったため大災害となった。いわゆる直下型地震だ。この周辺には多数の軍需工場があり,石川県からも学徒動員で作業に従事していた多くの学生がいた。この地震で合計1961名が死亡した。戦時中のことであり,これらの地震の報道は戦意をそぐものとして禁止された。この少し前(昭和19年6月から翌年9月にかけて)北海道で畑の中から火山が隆起した。それは昭和新山と名付けられた。この事件も報道禁止にされた。第二次世界大戦が終わって1年たった21(1946)年12月,四国と紀伊半島の間の沖合いで南海地震(M8.0)が発生した。この地震により死者1330名の被害が生じた。この時も大津波が発生した。さらにその2年後,23(1948)年6月,福井県丸岡町近くを震源とする福井地震(M7.1)が発生し死者3769名家屋の倒壊も90%以上に達する大災害となった。この時の災害が余りにも大きかったため,気象庁はそれまでV(6烈震)までしかなかった震度階に新たにW(7激震)を加えたほどであった(表1)。死者の数だけで見ると,死者1000名を超える地震は,今回の阪神大震災まで約50年の間が空いたのだ。
このように昭和18(1943)年の三河地震から昭和23(1948)年の福井地震までの5年間に4個の大地震がたて続きに発生し,戦争に疲弊した国民は度重なる震災と毎年襲ってくる台風とそれによる洪水などで自然の脅威の前になすすべもない時代が続いたのである。
(河野芳輝「地震予知はできるのか」9~10ぺ,下線・西暦表示は引用者〔以下同じ〕)

戦後80年の今日,80数年前に起きた度重なる地震のことを読むと,空恐ろしくなる。「たまたまこの50年間(1945~1995)に大きな被害を起こす地震がなかっただけだよ」ということらしい。そう,「たまたま」だったのである。
あれ,でも,わたしが知っている地震は他にもあったような気がするが――日本海中部地震とか北海道でも度々――ね。
河野氏は,阪神淡路大震災より少し前に起きたこれらの地震についても,上の文章の前に言及している。

最近大地震が相いついだ。平成5(1993)年1月の釧路沖地震(M7.8,Mはマグニチュードを表す),2月の能登半島沖地震(M6.6),6月の北海道南西沖地震(M7.8),翌6(1994)年10月の北海道東方沖地震(M8.1),12月の三陸はるか沖地震(M7.5)などである。すでに少し古くなったが昭和58(1983)年には日本海中部地震(M7.7)も発生している。これだけ,快調に(?)大地震が発生すれば,次にどこで起きるかくらい予知できそうであり地震活動南下説もささやかれた。関東大地震(1923年)からすでに72年も経過した関東地方に住む人々は,いよいよ次は自分たちの番かと覚悟したはずだ。(本書9ぺ)

当時から50年前(いまから80年前)のことならいざしらず,阪神淡路大震災の数年前にも度々大きな地震が起きていたのである。
2024年能登半島地震がM7.6だったが,日本海中部地震や釧路沖地震,北海道南西部沖地震,北海道東方地震は,いずれも今回の能登半島地震よりも大きなエネルギーを持っていた。しかし,それさえも教訓にならなかったのは,なぜなのか。河野氏,曰く。

これらの地震はいずれも陸からかなり離れた場所に起こったので,地震の大きさの割には直接的被害が少なかった。多くの人は,たとえ大地震が起きても死者の数はあんなものだろうと高をくくりはじめていた。(同上)

戦中・戦後に起きた地震は,戦争による被害も甚大だったので,言葉は悪いが〈どさくさに紛れて起きた地震〉といえるかもしれない。人間が起こす戦争と自然が起こす地震。どちらも怖いけれども――。一方,1980~1995年ごろに起きていた地震は,エネルギーは大きかったが,それほど被害をもたらさなかったことで,人々への地震の備えにあまり影響を与えなかったのではないか。
「たとえ大地震が起きても死者の数はあんなものだろうと高をくくりはじめていた」と河野氏はいうのだ。
そして,そのようなタイミングの中で,未曾有の大地震が起きたのである。

“ただの”地震と“本当”の地震

ここに2枚の日本地図がある。地図上のドットは,いずれも日本列島の周辺で起きた地震の震源の場所を表している。(本書14,15ペより)

図1 “ただの”地震(1961年~1981年)
図2 ”本当の”地震(415年~1992年)

図1は1961年~1981年までの20年間のこと。図2は,415年~1992年までの1577年間の地震分布である。
あれ,何かおかしくはないか。図2の方が長期間の記録なのにドットの数が少ない。
実は,これには訳がある。

“ただの”地震

図1は,M3以上,深さ60㎞までの地震――河野氏は「“ただの”地震」と呼ぶ――を示している。一方,右図は,大きな被害を引き起こした(記録のある)地震――同じく「“本当の”地震」と呼ぶ――の分布を示している。

わたしがこれまで見てきた地震の資料は,ほとんどが図1のようなものだった。たとえば,東京大学地震研究所が作成した「日本の地震活動」というポスター(図3)。これを授業で利用するときには,
 ①日本全国で地震が起きている
 ②主に太平洋海溝付近で大きな地震が起きている
ことを学習するのだが,どちらかというとプレート型地震の話題に持っていきたくて②の結論を引き出すことで,逆に①の「日本全国どこでも――」が弱くなるのだった。

図3 日本の地震活動(東京大学地震研究所)

“本当”の地震

一方,「“本当の”地震」震源分布図(図2)を見ると――若干太平洋側に多いものの――日本列島全体で「被害を起こす大きな地震」が起きていることが分かる。能登半島付近にもそういう地震が起きていたことも分かる。
いつも図2のような震源分布図を見ていれば,わたしたち日本海側の住民の地震に対する意識も変わったのではないかと思う。

石川で起きた“本当”の地震

図4は,能登半島周辺の最近の主な地震の分布である。★印は,以前,被害を起こした地震である。(本書17ぺ)
地図上にプロットされている(★印の)地震について,『理科年表』(国立天文台編,第91冊)で,どのような地震だったのかを調べてみた。
恐らく,あまり読んだことがないと思うので,石川県周辺の県で起きた地震も含めて紹介してみよう。
なお,歴史上の地震発生場所やその規模,被害のようすを,本『理科年表』編集者がどのように調べたのかは上掲『理科年表』734ぺをお読み頂きたい。

図4 石川で起きた地震

1714年4月28日〔正徳4.3.15〕(M≒6と1/4)
 信濃北西部:大町組(大町以北の北安曇郡)で死56,全潰194,半潰141,善光寺でも被害があった
1725年6月17日〔享保10.5.7〕(M≒6.0)
 加賀小松:城の石垣・蔵など少々破損,金沢で同日4~5回地震
1729年8月1日〔享保14.7.7〕(M6.0~6.5)
 能登:珠洲郡・鳳至郡で損・潰家791,死5,山崩れ31ヶ所,輪島村で潰家28,能登半島先端で被害が大きかった
1799年6月29日〔寛政11.5.26〕(M6.0)
 加賀:上下動が激しく,屋根石が1尺も飛び上がったという。金沢城で石垣破損,城下で潰家4169,能美・石川・河北郡で損家1003,潰家964。全体で死21
1815年3月1日〔文化12.1.21〕(M≒6.0)
 加賀小松:小松城の破損多く,岐阜県白鳥町の悲願寺で香炉が落ちた。金沢で強かった。
1858年4月9日〔安政5.2.26〕(M7.0~7.1)
 飛騨・越中・加賀・越前:『飛越地震』:飛騨北部・越中で被害が大きく,飛騨で潰家323,死209,山崩れも多く,常願寺川の上流が堰止められ,後に決壊して流出および潰家1600余,溺死140の被害を出した。跡津川断層の運動(右横ずれ)によると考えられる
1892(明治25)年12月9日(M6.4)
 能登半島西岸:家屋・土蔵の破損があった。11日にも同程度の地震があり,羽咋郡で全潰2,死1
1896(明治29)年4月2日(M5.7)
 石川県北岸:蛸島村で土蔵倒壊2,家屋破壊15,禄剛崎灯台破損
1933(昭和8)年9月21日(M6.0)
 能登半島沖:石川県鹿島郡で死3,家屋倒潰2,破損143,ほかの被害があった。富山県でも傷2

とにかく,歴史を300年ほど遡れば,石川県周辺にもM6.0以上の地震が度々起きてきたことが分かる。これらのことは,今回,じっくり調べてみたからこそ分かったことだ。資料が本棚に並んでいても,問題意識がないと調べようとしないんだよね。

石川県周辺の活断層

ところで,石川県周辺にある活断層は,どのくらい認識できて――発見できて――いたのだろうか? 
2024年能登半島地震で,〈外浦の海底にはいくつかの活断層が走っていること〉を,ようやく石川県民も認識したようだが,専門家たちは,いつ頃からそこに活断層があることを分かっていたのだろうか。

1992年頃の活断層

本書21ページに掲載されている「北陸地方の主な活断層の位置」(図5)には,活断層研究会1(1992)にもとづく活断層の場所が描かれている。
ここで,活断層の意味と記号の見方を説明しておく。 〈活断層〉というのは,「断層のうち特に数十万年前以降に繰り返し活動し,将来も活動すると考えられる断層のこと」である。図5では,主な活断層は実線で示されている。点線は位置が不明確な活断層である。また直線に対して直行している短線は,その活断層が断層面に対して〈縦ずれ〉することを示している。相対的に低下している側に短線が延びている。
輪島沖に不明確な――点線で表された――活断層が1本ある。また,珠洲岬の北北東の方にも,短い活断層が数カ所見つかっていたようだ。さらに富山湾の海底には長い活断層がある。
まあとにかく,1992年頃に専門家によって知られていた能登半島周辺の活断層は,「この程度」だったのである。

図5 北陸地方の主な活断層の位置

2024年頃の活断層

一方,2024年能登半島地震前後には,能登半島周辺海域にある多くの活断層2が発見されていた(図6,図は産総研「令和6年(2024年)能登半島地震の関連情報(第一報,2024.01.03)」より貼り付け)。
しかし,能登住民の多くは,これら新たに発見されていた活断層が引き起こす地震の規模や被害の程度の見直しの途中だったことを,地震後初めて知ったのだった。珠洲市では,数年前から約10㎞地下にある〈流体の情報〉はあったが,それが地下にある活断層に及ぼす影響については,ほとんど知られていなかった――金沢大学の平松良浩教授の講演を聴いた人は少しは予想できたかもしれないが――。

図6 能登半島周辺海域の活断層(2024)

津波は大丈夫か

石川県における津波の危険性について――積丹半島沖地震(M7.5,1940),新潟地震(M7.5,1964),日本海中部地震(M7.7,1983),北海道南西沖地震(M7.8,1993)による津波が石川県に到達した事実を伝えたあとで――河野氏は次のように述べている。

このように日本海には大津波が発生する可能性がこれまで考えられていた以上に高いことがわかってきた。津波を引き起こすような大地震は日本海の深海底と日本列島側の大陸棚の端が接する境界で生じる可能性が高い。――中略――北陸地方でも津波襲来の可能性,それも非常に近くで発生した地震で,あっという間に(津波警報が出る前に)津波が来てしまう可能性も頭の中に入れておく必要がある。(本書23ぺ)

1993年北海道南西沖地震の際,震源近くの奥尻島を巨大津波が襲ったことは,わたしの記憶にも刻まれている。その地震では1時間後に能登半島にも津波(輪島市鵜入3.5m,珠洲市木ノ浦2.9m)が来たという。そして,2011年3月の東日本大震災である。さすがに,この大震災により,いま生きている日本人には「地震=津波」という図式がしっかりノーミソに刻み込まれている。実際,わたしたち能登の人間も,津波からの避難ができたのであった。 

地震は予知できない

河野氏は,最後に,たいへん重要なことを主張している。それは,現時点では「地震がいつ・どこで・どのような規模で発生するか予知することはできない」ということである。言い換えれば「地震は,今すぐ,あなたが住んでいる場所で起きるかもしれない」ということでもある。

現在の地震予知研究の状況を比喩的に述べると,それは気圧配置図(天気図)なしに個々の測候所の観測データから天気予報をしようとしていることと似ている。天気予報は,天気の移り変わりの傾向を天気図で知り,各地の観測データと長年の経験とから予報を出している。一方,地震予知研究では個々の観測点で詳しい観測データ(地震や地殻変動など)を取っているが,全体の傾向を知る地下の天気図のようなものをもっていない。それに長年(1000年,1万年という)の経験ももっていない。地下の天気図とは現在地下に加わっている力の分布である。このような天気図を知らないで,あそこで微小な地震が起こったとか,変わった変動があったとかで正しく地震の予知ができるであろうか。1000年間の資料(歴史地震)から,やっと西の空がきれいな夕焼けだと明日は晴れだろうという古来からの知恵に近づきつつある段階なのだ。この夕焼けの光のスペクトルをいかに精密に測っても天気の余地には結びつかない。(本書28ぺ)

河野氏は「ずっとずっとずっと先,将来的には地震予知ができるかもしれない」というような期待もしているようだが,そういう期待は一般市民に持たせてはいけないとわたしは思う。

できもしない「地震予知」にお金と時間を使う「エネルギーのムダ」「学問界のペテン」については,ロバート・ゲラー著『日本人は知らない「地震予知」の正体』(双葉社)に詳しい。これ,とてもいい本。帯の言葉を紹介しておく――「地震予知はできるという“マインドコントロール”にこれ以上騙されてはいけない!」
ただし,地震予知実現派である上田誠也著『地震予知はできる』(岩波科学ライブラリー,2001)という本もある。上田氏は,河野氏同様,ギリシア式地震予知法(VAN法)3で地震予知を研究している人らしい(出版当時の情報)。しかしVAN法という電磁気的な方法は,日本では適していないらしい(そもそも,あたったと言われる予知でさえ眉唾である,という学者もいる)。

減災――地震への心構え

いつになるか分からないが,大きな地震が来るのは必然だから,その地震対策はしっかり取る必要がある。北浦勝金沢大学工学部教授(当時)は「金沢が抱える弱点は何か」で,金沢を例にとり具体的な提案をしている。

1 気象の観点から

阪神淡路大震災は1月に起きた。もし冬の金沢で大地震が起きたら――ということを考えた避難場所の確保が大切だという。

例えば北丹後地震は,雪がまだあちこちに残っている昭和2年(1927)3月7日に発生した。この年は大雪で,その被害も多かった。避難広場へ避難してからも,冷たい雨や名残の雪で,体の弱いお年寄りが衰弱し,次々と亡くなった。火事も発生し,死者は2900名に達した。(本書36ぺ)

実際,2024年の能登半島地震も冬に起きた。
あの元旦夜,気温は零下になった(図7は気象庁より)。わたしたち家族(おとな4人,子ども2人,猫・犬各1匹)は狭いながらも自家用車で暖を取りながら過ごすことができたが,旧宝立小学校体育館へ避難した人たちは,体育館前で段ボールをひいて一夜を過ごしたという。
もし雪が降っていたら――いや,雨であっても――台風なら――といろんなことを思ってしまう。
北浦氏は「春から夏へのフェーン現象も地震火災の誘因である」(37ぺ)と警鐘を鳴らす。

図7 2024年1月1日の気温の変化(珠洲のアメダス)

2 地理的観点から

 災害が起きた場所へのアクセスというのも,大切な視点である。

山間部へ通じる道が一本しかなくて,それが通れなくなると,その後の救援,復旧活動は極めてやりにくい。(上掲38ぺ)

と指摘。金沢での例として「金沢大学角間キャンパス」を取り上げている。
これについても,能登半島では奥能登全体が一本道ないしは二本道だったし,珠洲に至っては,あらゆる地区で孤立した。
復旧のための道路の啓開に時間がかかっただけでなく,せっかく車が通れるようになっても「勝手にボランティアに入るな」という呼びかけがあって,より孤立感を深めた気もする。

実際,わたしのいた自主避難所では,県知事の呼びかけを無視して来てくれた大坂の若い衆たちが,近くの家の井戸水を,40mくらい離れている避難所の玄関先まで引っぱってくれたのだった(撮影:2024.01.07)。そのお陰でトイレ水の準備がとても楽になった(幸い浄化槽は使えたのである)。結局,避難所が閉鎖されるまで,この井戸水を利用できた(ちなみに,避難所に水道が来たのは5月の中頃だった)。

写真1 自主避難所まで井戸水を引く作業

一方半島の地震と言えば,昭和49年の伊豆半島沖地震では東京と伊豆の下田を,船が物資や人を運んだ。今回の阪神大震災でも被害の少なかった大阪の天保山と神戸の間が船で結ばれた。(本書39ぺ)

能登でも「道(車)がなくても海(船)があるさ」と思っていたが,今回の地震では,港が悉く隆起して使い物にならなかった。志賀原発事故の避難計画でも「道路がダメなら港があるさ…」ということらしいが,残念ながら――今回の地震が示すように――それもダメなのである。さあ,どうする。

3 社会的環境

高齢化社会を迎えた日本。自分のことは自分でできない人も多くなってきている。さて,そこに大地震が来たらどうするのか。

そこで提案だが,きめ細かい対策を練っておく。個人個人は防災グッズを用意しておく。身体が不自由で一人で準備できなければ,手伝ってもらう。あのように激しい地震の直後では警察,救急車,消防車の応援は期待できない。そこで威力を発揮するのが家族であり,日ごろの町内会自治防災組織であり,ホームヘルパーの活躍である。この人たちは,どのお年寄りがどんな身体の状態にあるかを知っているので,みんなで助け合いながら最も適避難場所や病院などへお年寄りを連れていける。場合によっては地震の影響を受けていない地域へある期間避難してもらうことも考える。現地にいないと情報が入ってこない,それがその後の生活に不利になるなどの理由から,現地を離れたがらない人が多いということだが,災害弱者が他地域で十分な世話を受けられると同時に,負担の軽くなった被災地で,被災者がゆったりとサービスを受けられる。検討に値するアイディアだと思うが,いかがであろうか。弱者切り捨てにつながる発想でないことはいうまでもない。(本書40ぺ)

この点については,能登半島地震でもおおむね対応できたと言えそうだ。
わたしごとで言えば,防災グッズはちゃんと持って出たし,自主避難所ではまさに日頃の付き合いがあってこその「寿司詰め状態でも文句なし」だった。
さらには,行政が主導して「集団での2次避難」も進めてくれた。「集団で」という発想は,一人暮らしの老人たちを移動しやすくしたと言える。結果,2次避難した人たちは快適な生活を送ることができたし,残されたわたしたちも「ゆったりとサービスを受けられ」た。しかも,地元の情報から取り残されないような工夫(例えばLINEなど)もあった。
最後にもう一つ紹介しておこう。今回の地震でも悪者にされた「瓦屋根」について,北浦氏は次のように言う。

雪の重さは地震時に構造物には不利である。雪に地震とは,いわば重い荷物をもって足がふらついているところへ足払いを食らうようなものである。今回の地震では「古い木造の瓦葺きの家が多く壊れた」と言われるが,古い家は柱が白アリに食われて腐っていたり,壁に筋交いが入っていなかったり,柱が束石の上にちょこんと置かれた構造だったことが問題なのであって,瓦の責任にするのは筋違いである。あまり軽い屋根では台風のときに飛んでしまうので,関西地方では重石代わりに瓦と土とで家を押さえつけているらしい。(本書37ぺ)

 「瓦が重いから壊れた」と能登半島地震の際にも言われていたし,新築した住宅には瓦が乗っていない家が多いように思う。北浦氏は「金沢の家は雪が積もっても壊れないように,太い柱(四寸角,およそ12㌢)と梁からできている」とも言っている。むしろ問題は,耐震をしていないことなのだ。

石川県の地質と地盤

石渡明金沢大学理学部助教授(当時)が書かれた「石川県の地質と地盤――地震・断層活動と火山活動」を読んだとき,「なんで,もっと早くこの本を読まなかったのだ」とたいへん後悔した。「はじめに」にも書いたように,わたしは,能登半島の地質と地震の揺れとの関係などについて調べていた時期があった。専門書を図書館からお借りしながらの独学だったので,たいへんな時間と労力をかけて調べたのだった。それが,本節を読むと,すっきりとまとめられていた。
この論文に関しては,結論の部分だけを取り上げる。

石川県の地盤は,数億年間にわたって何度も繰り返されてきた激しい地震・断層活動と火山活動によって形成されてきたものであり,現在起きているそれらの活動もその延長上にある。我々は広い視野と長い目で自然と人類の未来をみつめ,来るべき地震災害に正しく対処する必要がある。――中略――そのためにも,まず何より活断層の調査が必要である。(本書61ぺ)

「石川県の地盤は,数億年間にわたって何度も繰り返されてきた激しい地震・断層活動と火山活動によって形成されてきたもの」とは,言い得て妙ではないか。まさに,2024年の能登半島地震は,「これまで〈何度も繰り返されてきた〉海岸線の隆起」を目の前で見せてくれたのである。
自宅下の浜(見付海岸付近)に立つと見えるきれいな海岸段丘(写真2,3の黄色直線)は「激しい地震・断層活動」のお陰なのであった。

写真2 自宅下の浜から,長手崎(三崎町小泊)方面を望む(撮影:2026.05.16)
写真3 自宅下の海岸から,赤崎(能登町松波)方面を望む(同上)

木造家屋の耐震性について

2024年の能登半島地震では,多くの木造家屋が全半壊となった。2007年の地震と比べても,その被害はおよそ10倍に及んだ。

図8 能登半島地震と住家被害(石川県「令和6年能登半島地震による木造建物の被害調査」より)


本書には,地震発生の翌日1995年1月18日に,いち早く現地入り調査をした鈴木有金沢工業大学教授(当時)「木造倒壊が意味するもの」が収録されているので,そこからエキスを拾ってみたい。
梅田から被災地に向かった鈴木氏が目にしたものは以下のようなものだった。

淀川を越えてしばらくすると,屋根瓦がずれている住宅が目立ち始めた。その数は次第に増し,崩落しているものも少なくない。――中略――こんなに広い地域で屋根瓦の被害をみるのは初めてだ。(鈴木有「木造倒壊が意味するもの」本書80ぺ)

木造は粘り強い,崩壊は特殊な例外だと考えていた私には,ショッキングな光景であった。――中略――これまでは全半壊といえども構造体は形を保っていたものであったが,ここには生存の可能性の空間すらない。(本書81ペ)

やはりここでも,専門家でさえビックリするような光景が広がっていたのである。
「生存の可能性の空間すらない」という表現は,2024年能登半島地震でもそのまま当てはまる。図8・図9は「令和6年能登半島地震による木造建物の被害調査」(石川県農林総合研究センター林業試験場 鈴木修治)より転載。

図9 宝立町鵜飼の倒壊した住宅のようす

本書刊行当時(1995年頃)の時点では,どの程度の「耐震」が施されていたのだろうか。

昭和26(1951)年に制定された建築基準法には,筋かいと壁で地震力に抵抗するという方針が盛り込まれ,筋かいや土台の使用,接合部には金物の使用が定められた。昭和35(1960)年の改訂で「耐力壁」の考え方を明示,2階建て以下の小規模木造には,複雑な構造計算をする代わりに,床面積当たりに必要な耐力壁長の最低基準を守ることが義務づけられた。その後,46(1971)年にはコンクリート製の一体の布基礎以外の使用は認めないことが明記され,さらに昭和56年の大改訂で耐力壁の基準値が引き上げられて,今日に至っている。(本書96ぺ)

ここで,たいへん恐縮だが,わたしの自宅の話をしよう。
拙宅で一番古い建物は,基礎石に小木石を使っている〈土蔵(昭和元年築)〉である。地震が起きる度に壁の崩落などの被害を受け続けてきたが,内部には床を張ってある――大きな囲い(外壁)の中にもう一つ建物がある感じな――ので,使用不可にはならなかった。次に古いのは〈主な居住空間部分〉で,これは昭和48(1973)年の建築。わたしは中学2年生だったかな。部活の遠征から帰ってきたら朝まであった家がなかったことを思い出す。その後,老人のための平屋を追加したのが昭和61(1986)年,商店部分を取り壊し,玄関を含めて増改築したのが平成28(2016)年である。

自宅は一部損壊だったが,その被害は「家全体の柱部分が数㎝沈み込んでいる」ことによる床の傾きである。どこにビー玉を置いても転がっていく(^^;)。もう一つは,増築されている部分のつなぎ目が2~3㎝ズレていること。家の基礎にも何カ所がヒビが入っている。
上の「建築基準法」によると,わが家の基礎は,土蔵以外は「布基礎」になっているハズだが,それでもダメだったのだ。

今では,布基礎よりも地震に強い「ベタ基礎」が主流となっているようだ(図10)。実際,地震後に新築している近所の家をみると,みんな,ベタ基礎となっている(写真4)。おそらく拙宅でも,2016年に増築した部分はベタ基礎なのだと思う。建築方法も少しずつ進化しているので,耐震をしていない建物に住んでいる人は,いますぐやって欲しい。

図10 木造建築の基礎(〔株〕松島組HPより)
写真4 ベタ基礎の準備をする新築の家(撮影:2026.05.22)

わたしは2016年に増改築した際,昭和に建てた建物の方も耐震をしてもらった。今回,向こう三軒両隣のうち,残ったのは左隣の家だけ。拙宅と隣家は,かろうじて少しの沈下で収まってくれたのである。

2007年能登半島地震の頃はどうだったのか

ここで,これまでと同じ問題意識で,〈2007年能登半島地震当時〉の学者の話を見てみよう。
わたしの本棚には『緊急出版●特別報道写真集 能登半島地震』(北國新聞社,80ぺ,2007.4.12発行,以下『写真集』と略す)という本――2007年3月25日に発生した平成19年能登半島地震(M6.9)の被害のようすをまとめた写真集――がある。本書にも,当時,判明していた活断層図(主な地震の震源付)が掲載されている(図11)。それは,先の図5のカラー版と言えるようなものだった。
前に紹介した図5(1992)と図11(2007)を比べてみて欲しい。
約15年間で,どれくらい新たな活断層が見つかっていたのだろうか? 
まあ,じっくり見比べて欲しい。

図11 石川県の主な地震と活断層(2007)
図5 石川県の主な地震と活断層(1992)

未知の活断層

この活断層の図は『写真集』に掲載された「未知の活断層が動き大災害に 政府の地震危険度情報に大きな疑問」と題する河野芳輝氏(金沢大学名誉教授・地球物理学)の論文(談)に添付されていたものである。お~,また河野氏が出てきた。今回(2007年)の震源近くに走っている活断層は,「本震発生から2日後に,金沢大学の石渡明教授(岩石学)らの調査グループが,地表に露出した断層の一部を――中略――発見したもの。おお~,今度は,石渡教授だ!
河野氏は云う。

能登半島地震(引用者註:2007年能登半島地震)を起こした活断層はまったく分かっていなかった。活断層というのは,目で直接確認できたものをいうが,調査してもみつからないものが多い。(『写真集』73ぺ)

2007年3月25日の地震も,それまでは知られていなかった活断層が引き起こしたのである。自然の中の人の位置というのは,まだまだその程度のものなのである。
河野氏は,地震が発生した日が数日前から天気も良く,日曜日の朝であったこと,住居が耐雪仕様だった(柱が太い)などをあげ,「好条件が重なり最小被害になった」とも述べている。震源付近がわりと固い地盤だったことも幸いした。その一方で,「局所的に川沿いには堆積物でできた軟弱地盤もあり,そこに建造物全壊などの被害が集中して見られた」(『写真集』75ぺ)とも云う。

河野氏は「この機会に強く警告しておかなければならない」として,次のように述べている。長くなるが,大変貴重な意見なので読んでみてほしい。

3月20日の北國新聞記事の中で金沢大学の平松良浩准教授(地震学)も言及しているように,この「地震動予測地図」によると,能登半島北部で「今後30年以内に震度6弱以上の揺れに見舞われる確率」は「0.1%未満」と見積もられている。5段階あるランクの最下位の確率とされていたのである。
ここで行われているランク付けは,東海地方や紀伊半島・四国の太平洋側など確率25%以上とされる地域や,6%以上,3%以上で確率が高いとされる地域の人々に,より切迫感を与える効果があるのかもしれない。しかし,そうでない地域,特に0.1%未満とされた地域に対しては,逆に安全宣言をしているように受け取られることに思い至っていない。特に行政への影響は大である。
1995(平成7)年に阪神・淡路大震災が起こったとき,大地震発生と聞いて静岡で起こったと思った人がかなりいたという。次の大地震は静岡だという情報の刷り込みが働いていたのである。政府や関係機関による発表にひずみがあり,それがマスコミ報道のひずみとなり,受け手にそのひずみが伝わっていたといえる。私のように北陸という地理的に日本の中心にいて,全国を見ている者は,「地震動予測地図」に現れた,いわば東京・東海中心主義に非常に危惧を感じていたが,それが今回の地震で現実になったのだ。(『写真集』73ぺ)

以上の文章を読んで,「あれ,これって2024年能登半島地震のときにも新聞報道で読んだ気がする」と思った人はどれくらいいるだろうか。
当時の報道(NHK「地震動予測地図」,2024.01.28)でも,

政府の地震調査委員会は今後30年以内に震度6弱以上の激しい揺れに襲われる確率を示した予測地図を公表しています。一方で2024年1月の能登半島地震のように確率が低い地域にも激しい揺れが。あくまで目安として捉え日本のどこにいても激しい揺れが起きうるとして事前の防災対策を取ることが重要です。(https://news.web.nhk/newsweb/na/nc-04b01a9b-a30f-46c5-af92-bd6f205a005f 参照 2026年5月16日)

というメッセージと共に図12「地震動予測地図」(出典:政府地震調査研究推進本部)が掲載されていた。「あくまで目安として」と云われても――ねえ。
少なくとも,この「地震動予測地図」(2005年作成)に対して違和感を持っている専門家が,発表当初からいたのである。

図12 地震動予測地図(2005年作成)

以上のことを考えるあわせると「地震のことはまだ何も分かっていない」と思っていた方がいいようだ。確率(%)なんて一見科学的に見えるけれど,その数値が返って「安心感」「無防備」を促すことがあるのでは,そんな数値にどんな意味があるというのだ。それなら「地震はいつどこでも起きる」と思っていた方が,結果的に,減災――自分の命を救うこと――に繋がるに違いない。
今回の能登半島地震を見て,「自分の家を耐震しよう」と思った日本人はどれくらいいるのだろうか。未だに,南海トラフばかりが強調されている気がするのは,わたしだけ?
最後に鈴木有氏の提言「防災は質素な暮らしから」をしっかり受け止めたい。

今私が強く思うのは「防災の基本は暮らしを質素にするところにある」ということだ。物質的に豊かな暮らしを追い求めた結果,われわれの住まい空間は非常時の凶器候補で埋まっている。利便性を求めて次々と新製品を買い込む消費文化は地球の環境破壊にもつながっている。暮らしを質素にすることは,現代社会が直面する多くの問題解決の共通項になることを考えてほしい。消費文化を反省して,自然と共生しながら気持ちよく暮らそうと心がけることが,実は安全な生活空間を築くことにもなるのである。(『本書』99ぺ)

脚注
  1. 活断層研究会――東京大学出版会より刊行された『日本の活断層』(1980年),『新編日本の活断層』(1991年)の著者を中心に組織された研究会。1985年~1997年まで『活断層研究』という学術雑誌を発刊。 ↩︎
  2. 能登半島周辺海域にある多くの活断層――産業技術総合研究所地質調査総合センターは,日本周辺海域における海域地質調査を実施してきた。とくに日本海においては,1985年から15年間をかけて5万km以上に達する測線で海底面以下の反射断面データを取得。さらに,2007年以降は,沿岸海域の活断層も調査してきた。なお,日本海における活断層の分布については,岡村(2019)にまとめられている。 ↩︎
  3. VAN法――ギリシャの物理学者ら(V. ヴァロトス,K. アレクソプロス,K. ノミコス)が開発した,地震前に地表に生じる特有の微小な地電流(自然電位)の変化を観測し,震源,規模,時期を予測する手法。提唱者らは「これまでに一定以上の規模の地震予知で高い成功率を収めている」と報告しているが,多くの地震学者は,地震の因果関係や判別基準が曖昧であるとし,偶然の一致やデータの恣意的な解釈であると批判している。 ↩︎

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