文部省著作教科書『民主主義』(復刻版)

昔の教科書を読む

1995.11.18 記
2025.11.02 HP化

〈文部省が敗戦後すぐ(昭和23年~24年)編集した教科書等のなかに,なかなかいいものがある>というのは,以前から2,3知っていました。その一つは『あたらしい憲法のはなし』という小冊子であり,もう一つが今ここに紹介する『民主主義(上)(下)』という大部な教科書です。

『あたらしい憲法のはなし』の方は,学生時代に友達から教えてもらい,京都の河原町4条と3条のあいだ辺りにあった革新系の本がたくさんおいてある小さな本屋で買った覚えがあります(もう,本屋さんの名前は忘れました)。
『民主主義』の方は,仮説実験授業研究会の全国大会に出だしたころ,広島のサークルの人たちが復刻して売っていたのを購入し,読んだことがあります。この時は『上』だけしかありませんでした。が,その斬新で過激な内容に「すごい! あのとき,既に,ちゃんとここまで考えられていたのだ」という思いを強くしたのを,今でも思い出します。
今回,径書房から「1948年発行『上』と1948年発行『下』をまとめて1冊の本に復刻した本」が出ました。漢字の表記のみ旧字体を新字体に改めた他は,仮名遣いも,誤記もそのままだそうです。
余分な解説など一切なしで,ひたすら復刻のみに専念したこの本。あなたも1冊いかがですか? と言っても内容が分からないと,ボクのこの「お薦め」も空しくなるでしょう。そこで,内容を少し紹介したいと思います。ボクもすべてを読んだわけではなく,興味ある章から拾い読みしている程度ですが…。

0 まずは目次をどうぞ

○はしがき
〇第一章 民主主義の本質
〇第二章 民主主義の発達
〇第三章 民主主義の諸制度
〇第四章 選挙権
〇第五章 多数決
〇第六章 目ざめた有権者
〇第七章 政治と国民
〇第八章 社会生活における民主主義

〇第九章 経済生活における民主主義
〇第十章 民主主義と労働組合
〇第十一章 民主主義と独裁主義
〇第十二章 日本における民主主義の歴史
〇第十三章 新憲法に現われた民主主義
〇第十四章 民主主義の学び方
〇第十五章 日本婦人の新しい権利と責任
〇第十六章 国際生活における民主主義
〇第十七章 民主主義のもたらすもの

1 はしがき

今の世の中には,民主主義ということばがはんらんしている。民主主義ということばならば,だれもが知っている。(1ぺ)

という文章からはじまっています。これは,現在(1995年のことだが,2025年の今も同じ)の状況とちっとも変わっていません。何かというと「民主的じゃない」とかいったり…。さて,『民主主義』のはしがきでは,<民主主義の根本精神>は何だと言っていると思いますか。

すべての人間を個人として尊厳な価値をもつものとして取り扱おうとする心, それが民主主義の根本精神である。(本書,1ぺ)

いかかです。すごいでしょ。いきなりはしがきの部分からこれですから。そして,この本をなぜ作ったかということも書いてあります。

複雑で多方面な民主主義の世界をあまねく見渡すためには,よい地図がいるし,親切な案内書がいる。そこで,だれもが信頼できるような地図となり,案内書となることを目的として,この本は生まれた。(2ぺ)

と言っています。まさに,この『民主主義』という本は,戦後の日本が歩むべき道への指南役になろうというのです。
そして,この本を読んで言葉としての<民主主義>がある程度理解できたら,わたしたちがやるべきこととして,

そうして,納得の行ったところ,自分で実行できるところを,直ちに生活の中に取り入れて行っていただきたい。なぜならば,民主主義は,本で読んでわかっただけでは役に立たないからである。言い換えると,人間の生活の中に実現された民主主義のみが,本当の民主主義なのだからである。(3ぺ)

というわけです。どうです,すごいでしょ。もう,はしがきから気合バンバンです。
なんか,ボクの紹介も「すごいでしょ」しかなくなってきたみたいです。
とにかく先へ進みましょう。

2 「第1章 民主主義の本質」

 ここでは,まず総論がかかれています。「民主主義の根本精神」ということについては,以下のように書かれています。

人間が人間として自分自身を尊重し,互いに他人を尊重しあうということは,政治上の問題や議員の候補者について賛成や反対の投票をするよりも,はるかにたいせつな民主主義の心構えである。 -(中略)- だから,民主主義を体得するためにまず学ばなければならないのは,各人が自分自身の人格を尊重し,自らが正しいと考えるところの信念に忠実であるという精神なのである。
 -(中略)-
自分自身を人間として尊重するものは,同じように,すべての他人を人間として尊重しなければならない。民主主義の精神が自分自身を人間として尊重するにあるからといって,それをわがままかってな利己主義と取り違えるものがあるならば,とんでもないまちがいである。自らの権利を主張する者は,他人の権利を重んじなければならない。(17ぺ)

<民主主義>を具現化するには,「まず,自分自身を大切にし,自分の信念を大切にすべきである」というのです。その次に,「自分と同じように,他人の権利もきっちり守るべきである」というのです。他人の権利を踏みにじってなんとも思わない現代人が多い世の中ですが,その人達は,おそらく「自分自身も大切にしていない」のではないでしょうか。「自分の信念」をまげ,長いものに巻かれながら生きているから,「他人の権利」など,考えにも及ばないのかも知れません。そう考えると,そういう人達がかわいそうな気もしてきます。
また,「<民主主義>の反対は<独裁主義>である」として,<独裁主義>についても述べています。これもまた,スルドイです。

人間社会の文化の程度が低い時代には,支配者たちはその動機を少しも隠そうとしなかった。部落の酋長や専制時代の国王は,もっと強大な権力を得,もっと大規模な略奪をしたいという簡単明白な理由から,露骨にかれらの人民たちを酷使したり,戦争にかり立てたりした。ところが,文明が向上し,人知が発達してくるにつれて,専制主義や独裁主義のやり方もだんだんとじょうずになって来る。独裁者たちは,かれらの貪欲な,傲慢な動機を露骨に示さないで,それを道徳だの,国家の名誉だの,民族の繁栄だのというよそ行きの着物で飾る方が,いっそう都合がよいし,効果も上げるということを発見した。(21ぺ)

そして,「現にそういうふうにして日本も無謀きわまる戦争を始め」たと言っています。そして今後も

独裁政治を利用しようとする者は,今度はまたやり方を変えて,もっとじょうずになるだろう。今度は,だれもが反対できない民主主義という一番美しい名まえを借りて,こうするのがみんなのためだと言って,人々をあやつろうとするだろう。(同上)

と言います。「こんな民主主義の世の中に,もう,戦争なんてしないよ」なんて声も良くききますが,この考えほど危ないことはないのです。「子どものため」に体罰が横行し,「国際化のため」に軍隊が他国に入り,「平和を守るため」に軍隊が強化されているのですから。
では,これを打ち破るためにはどうすればよいのか? 

それを打ち破る方法は,ただ一つある。それは,国民のみんなが政治的に賢明になることである。人に言われて,そのとおりに動くのではなく,自分の判断で,正しいものと正しくないものとをかみ分けることができるようになることである。(22ぺ)

自分がだまされないためには,「自分の政治的判断を鍛える必要がある」のです。「人にあわせるのではなく,自分で考え,判断する」ことが大切だというのです。「自分で判断する」人が多ければ多いほど,多種多様な意見が出てくることになります。
そこで,仕方なく<多数決>での方針決定ということにもなっていくのですが…。

3 「第5章 多数決」

 「多数決」というと,板倉さんの「最後の奴隷制としての…」という文章1を思い出します。そして,「多数決で決まったんだから従わざるを得ない」「多数意見の方が正しい」と言わんばかりの主張に,割りと少数派に属するボクとしては,煮え切らないものを感じます。そこで,真っ先にこの章を読んでみました。

1度決めた以上は,反対の考えの人々,すなわち,少数意見の人々もその決定 に従って行動する。それが多数決である。多数による決定には,反対の少数意見の者も服するというのが,民主主義の規律であって,これなくしては政治上の対立は解決されず,社会生活の秩序は保たれえない。(95ぺ)

なんだこれ。これじゃあ,一般に言われている「多数派が正しい」「多数の意見に少数派は従うべきだ」という論理と全く同じじゃないか。いくら「議論が前提にあって」といったって,少数派は浮かばれないし,<真理は多数決では決まらない>という科学の世界が全く理解されてないじゃないかと,ちょっと情けない気分になりながら先を読んで行きました。すると,「多数決原理に対する疑問」という節でなかなか鋭い文章に出会いました。

多数決ということは,一つの便宜的な方法である。-(中略)-意見の一致点を見いだすことができないという場合には,-(中略)-やむをえず多数決によるのである。(96ぺ)

 そして,

実際には,多数で決めたことがあやまりであることもある。少数の意見の方が正しいこともある。むしろ,少数のすぐれた人々がじっくりと物を考えて下した判断の方が,おおぜいでがやがやと付和雷同する意見よりも正しいことが多いであろう。いや,国民の中で一番賢明なただひとりの考えが,最も正しいものであるということができるであろう。(同上)

少数意見が正しいこともあった例として,「地動説と天動説」についての歴史が少し書いてあります。

中世の時代には,すべての人々は,太陽や星が人間の住む世界を中心にしてまわっているのだと信じていた。近世の初めになって,コペルニクスやガリレオが現れて,天動説の誤りを正した。その当時には,天動説は絶対の多数意見であった。地動説は正しいと信じたのは,ほんの少数の人々にすぎなかった。それと同じように,政治上の判断の場合にも,少数の人々の進んだ意見の方が,おおぜいが信じて疑わないことよりも正しい場合が少なくない。それなのに,なんでも多数の力で押し通し,正しい少数の意見には耳もかさないというふうになれば,それはまさに「多数決党の横暴」である。民主主義は,この弊害を,なんとかして防いで行かなければならない。(100ぺ)

「多数決の横暴」について,さらに強烈に踏み込んでいきます。

多数決という方法は,用い方によっては,多数決の横暴という弊を招くばかりでなく,民主主義そのものの根底を破壊するような結果に陥ることがある。なぜならば,多数の力さえ獲得すればどんなこともできるということになると,多数の勢いに乗じて一つの政治方針だけを絶対に正しいものにまでまつり上げ,いっさいの反対や批判を封じ去って,一挙に独裁政治体制を作り上げてしまうことができるからである。(同上)

ここに引用しませんが,上の例として,ドイツのナチスの話が出ています。民主国家が独裁国家に移り変わった様子が良く分かります。
このような「多数決による弊害」を防ぐためにはどうすればよいのでしょうか。『民主主義』では「何よりもまず言論の自由を重んじなければならない」と言います。

民主主義は多数決を重んずるが,いかなる多数の力をもってしても,言論の自由を奪うということは絶対に許されるべきでない。何事も多数決によるのが民主主義ではあるが,どんな多数といえども,民主主義そのものを否定するような決定をする資格はない。(103ぺ)

なるほど,「多数決をもってしても決めてはいけないこと」があるんですね。それが,「言論の自由だ」ということです。しかし,もっとたくさんの「多数決で決めてはいけないこと」があるような気もします。「民主主義の根本原理」である「人間を個人として尊厳な価値のあるものとして取り扱おうとする」ことに反することは,すべて<多数決で否定する>ことはできないのではないでしょうか。もし,そうならば,多数決を使う場合を良く考えなくてはいけません。いつの間にか,個人の生きる権利さえも「多数決」で押さえ付けようとしていることが多くなっているような気がしますが,これは,ボクの気のせいでしょうか。
さて,言論の自由は守れたとして,では「間違った多数意見」が力をもってしまったとき,それはどのようにして訂正されうるのでしょうか。これが一番大切なことなのですが,現実はどうもうまくいっていないように思われます。

対立する幾つかの意見の中でどれが正しいかは,いつまでたってもわからないのであろうか。いや,決してそんなことはない。正しい道と正しくない道との区別は,やがてはっきりとわかる時が来る。何でわかるかというと,経験がそれを教えてくれるのである。 -(中略)- 一応多数決によって問題のけりをつけ,その方針で法律を作り,政治をやってみると,その結果は,まもなく実地の上に現れて来る。公共の福祉のためにやはりその方がよかった,ということになる場合もある。逆に,多数の意見で決めた方針が間違っていて,少数意見に従っておいた方がよかったということが,事実によって明らかに示される場合もある。前の場合ならば,それは,そのままでよい。あとのような場合には,少数意見によって示された方針によって法律を改め, 政治のやり方を変えて行く必要が起こる。ー(中略)ー このようにして,法律がだんだんと進歩して行って,政治が次第に正しい方向に向かうようになって行く。(104ぺ)

これは,一部は仮説実験的な考え方と似ています。ただし,黙って待っていれば「経験がそれを教えてくれる」のではありませんので,ちょっと,そこがひっかります。為政者が(あるいは国民が)予想をもって問いかけた場合にのみ,その「経験」が「実験」としての意味を持ち,生きてくるのです。まあこのあたりことは,戦後すぐに書かれた本だということもあり,アメリカの影響もあったでしょうし,仕方がないでしょう。 それにしても,これだけちゃんと「多数意見も一つの選択肢」という考え方が,かの文部省から出されているのに,世間にはあまり広まっていないのが不思議です。

4 「第6章 目ざめた有権者」

さて,しかし「多数意見が間違っていた」ということをボクたちが知るには,どうすればいいのでしょうか。<実は失敗していたのにそれを隠す>ことをされたら,ボクたちは,本当の結果を知ることはできません。ここで「デマ」の問題が出て来ます。この問題についても,『民主主義』に詳しく分かりやすく書かれています。
ここでは,おもしろい話を引用してみます。ワープロで肩がこって来たので,コピーで紹介します(お~手抜きじゃ)。

 印度洋を航海するある貨物船で、船長と一等運転士と一日交替で船橋の指揮にあたり、当番の日の航海日誌を書くことになっていた。船長はまじめ一方の人物だが、一等運転士の方は老練な船乗りで、暇さえあれば酒を飲むことを楽しみにしていたために、二人の仲はよくなかった。ある日、船長が船橋に立っていると、 一等運転士が酔っぱらって、ウイスキイのあきびんを甲板の上にころがしているのが目についた。船長は、それをにがにがしく思ったので、その晩航海日誌を書く時に、そのことも記入しておいた。翌日、一等運転士が任務についてその日誌を読み、まっかに怒って、船長に抗議を申しこんだ。
「非番の時には、われわれは好きなことをしてよいはずです。 私は、任務につきながら酒を飲んだのではありません。 この日誌を会社の社長が読んだら、私のことをなんと思いますか。」
「それは私も知っています。」と船長は静かに答えた。「しかし、君がきのう酔っぱらっていたことにはまちがいはない。私は、ただその事実を書いただけです。」
 内心の不満を押さえて任務に服した一等運転士は、その晩の航海日誌に、「きょう、船長は一日じゅう酔っぱらっていなかった。」と書いた。 次の日にそれを見て怒ったのは、船長である。
「私が酔っていなかったなどと書くのは、けしからんではないか。まるで、私は他の日はいつも酔っぱらってでもいるようにみえる。私が酒を一滴も飲まないことは、君も知っているはずだ。君は、うその報告を書いて私を中傷しようとするのだ。」
「さよう。あなたが酒を飲まないことは、私もよく知っています。しかし、あなたがきのう酔っていなかったことは、事実です。 私は、ただその事実を書いただけです。」と一等運転士はひややかに答えた。
 航海日誌に書かれたことは、どちらも事実である。しかし、言い表わし方のいかんによっては、事実とは反対の印象を読む人に与えることが、これでわかるであろう。(本書118~119)

とにかく,いい本です。絶対にお薦めです!!

  1. 板倉さんの「最後の奴隷制としての…」という文章…板倉聖宣著「最後の奴隷制としての多数決原理」のこと。初出『たのしい授業』(1987年4月号),のち,板倉聖宣著『社会の法則と民主主義』(1988年所収),中一夫編『板倉聖宣セレクション1 いま,民主主義とは』(2013年所収)。いずれも発行は仮説社。 ↩︎

図書の紹介

上に紹介したときの本『民主主義』は――わたしが調べた限りでは――古本でしか手に入らないようです。そのかわり,以下のような本が出ているので,こちらを手に入れればいいでしょう。抜粋本もあるので,全文を読みたい方はしっかり確認してご購入下さい。Kindle版も出ているようです。
また,脚注で紹介した板倉聖宣氏の文章が掲載されている本も紹介しておきます。これらの単行本も,民主主義を考える上では〈目から鱗の本〉です。お薦めです。

全文収録されている文庫本。

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