尾形正宏
1995.12.15 記
興味・関心・意欲・態度
「新しい学力観」「新しい学力観」と言われて数年たちました。言われ出したころよりも下火?になったとは言え,学校現場では,未だに,「新しい学力観にたった…を」などという言葉が聞かれます。
さて,このときの「新しい学力観」とは,何を指しているのでしょうか。一般には,「<興味,関心,意欲,態度>を重視すること」が「新しい学力観」の真髄と思われています。なかには,<意欲・関心・態度>を書く順番まで大事にしたりしている人も出現したりして,もう教育界は,「新しい学力観」一色です。
でも,われわれ教師は,今まで授業や行事をする中で,<意欲・関心・態度>を大事にして来なかったのでしょうか。少なくとも仮説実験授業は<意欲・関心・態度>を最も大切にしてきました。そのほかの授業においても,「子どもたちにいかに興味を持たせるか」に関心を持って,教師は実践を続けて来たはずです。
ですから,「いまさら,なにを」というのが,正直な気持ちでした。
また,一番おそれていたこと-<意欲・関心・態度>を教師が評価すること-が,現実のものになったのには参りました。
板倉さんは,珠洲での講演でも,
「子どもたちの意欲や態度は,一番大切にしたい。一番大切にしたいからこそ,安易に教師や大人が子どもを評価してはいけない。」
とおっしゃってました。
「『あなたは,理科に意欲がない』と言われた子どもはどんな気持ちになるだろうか。そんなことをしてはいけない。」
と大変強い口調でおしゃってました。算数に興味がないのは教師の責任であり,教材の責任です。子どもが,ある教科に興味・関心がないからと言って,それを子どものせいにするのはどうかしています。
先日,筑波大学の教授たちが作成したという「TK式『関心・意欲・態度インベントリー』」というものが職員室の回覧で回って来ました(☞資料)。これを見たとき,「ついに来るべきところまできたか」という思いを強くしました。これは<関心・意欲・態度>を評価するためのテストなのです。以前,「道徳度を点数化する」なんてのもありましたが,まあ,それと似たり寄ったりの,「こんなものいらない辞典」にでも載せてもらいたい愚行です。
「新しい学力観」を言い出した人
それにしても,いったいだれが,この「新しい学力観」ということを言い出したのでしょうか。こんなことを考えてもみなかったのですが,『たのしい授業』編集会議(1994.12.24)での板倉さん話の記録(以下の文章)を読んで,興味を持ちました。
板倉聖宣 今の新しい学力観について一応形式的に言いだしたのはウチの所長なんだけど 〔註. 今の学習指導要領をつくった初等中等教育局長が現在の国研の所長〕 最近の学校現場の様子を伝え聞いて「どうも困るなぁ。今普及しているような意味でやるつもりは全然ないんだけどな。新しい学力観はいつまで新しくあり得るだろうか」という言い方を非公式な場で僕に向かって話したんだけどね・・・。
舘光一編集「最近の教育問題を考える」『未来の風Ⅳ,No.6』より
舘光一 それは,どういう意味で「まずい」と言ってるのですか?
板倉 それはね,「新しい学力観の下では何にもしなくていい」という言い方を一生懸命言ってる人がいるでしょ。でも,たとえば僕のところには音楽教育の人がいるんだけど , 「音楽教育は必ず教えないとできないから教えるけど, 美術の先生なんかは教えることを放り投げたから教育が全然成り立たなくなってしまっている」ということを言うのね。所長はそういうことをとりあげて言ってんだろうね。そういう意味では今はウチの所長に『たのしい授業』に書いてもらっなっておかしくないもんね(笑)。「新しい学力観について」とかね。
竹内三郎 いいじゃないですか。 「新しい学力観はいつまで新しいか」という特集にね。
舘 それは,学校現場の声を聞いて所長さんがそんなふうに言いだしたんですかね。
板倉 少しは聞いてるかもしれないね。所長は,「〈新しい学力観〉 というのは,,新しい学習指導要領 〔註.今の学習指導要領のこと〕の内容を実現させるための学力観という意味でつけた」と言ってるのね。 そうすると,また新しい学習指導要領に変わったりするとね・・・。
少し引用が長くなりましたが,これで大体分かりました。つまり,「新しい学力観」という言葉は,「新しい学習指導要領の内容を実現させるための学力観」という意味だったのです。そして,それを最初に言い出したのが,現国立教育研究所所長(当時は初等中等教育局長)だと言う訳です。
<意欲・関心・態度>を大切にする-だから指導上の留意点じゃなく「支援」である-教師が一方的に教材を与えてはいけない-知識・理解より意欲が大事
これが,現場の一般的な今の状況ではないでしょうか。
ボクは自分で「新しい学習指導要領」を読んだことはなかったのですが(いまだに読んでいないのだが),おそらく<意欲・関心・態度>をもっとも大切にしょうというふうに書かれているのだと思い込んでいました。
「新しい学力観」に思う(森下知昭)-を読んで
前回のサークルで紹介した“「新しい学力観」に思う”(森下知昭,’95年仮説実験授業研究会夏の全国合宿大会資料)を,大会が終わってから大変興味深く読みました。
特に,学習指導要領を新から旧へとさかのぼり,「新しい学習指導要領が目指す学力観」とは何かを捜し出して行く過程は,大変おもしく,かつ説得力もありました。森下さんは,「新しい学力観」について,以下のように結論づけています。
そうなると,今回の学習指導要領の新しい部分として残るのは,
(ウ) 「基礎的・基本的な内容の徹底」
(オ) 「体験的な活動」
(コ) 「海外帰国児童教育」
(サ) 「家庭や地域社会との連携」「学校相互の連携や交流」
以上の部分となってしまいます。まさか,(コ)「海外帰国児童教育」や(サ)「家庭や地域社会との連携」が「新しい学力観」を示しているとは思えません。そうなると,・・・おお,なんと今回の指導要領は戦後初めて,「基礎的・基本的な内容の徹底」がうたわれた指導要領なのです。これこそ大切にしなくてはいけません。「自発性」とか「関心・意欲」などというのは指導要領をよく読んでいない人の言うことなのです。ボクは妙なことに感激しました。
「新しい学習指導要領」の中身を忠実に追った結果,「基礎・基本をもっとも大切にする」ことが「新しい学力観」だと言うのです。
しかし,次に問題になるのは,以上のようにして見つけた「新しい学力観」と一般に言われている「新しい学力観」とは,どうして違いが出ているのかです。
◇新しい学習指導要領のいう学力観……「基礎・基本を大切にする」
◇一般的に言われている新しい学力観…「意欲・関心・態度を第一に考える」
「新しい学力観」という言葉は,「新しい学習指導要領が目指す学力観」を略して言ったものだということは確かなようです。
こうなってくると,「新しい学力観」の生みの親-現国立教育研究所長-のほんとのところの話が聞きたくなります。でも,板倉さんの談話だけでは,その辺りがよく分かりません。
しかし,こんなことを思いながら待っていると,ちゃんと見つかるもんですね,求めていた文章が。「棚を作ってぼたもちを待つ」とはこのことでしょうか。
元祖「新学力観」とは
ひと月ほど前,教頭先生の机の上においてあった『教頭会報No.25,1995』(48ぺ,全国公立学校教頭会発行)を何げなく手にとって見てみました。表紙に「特集:講演集」と書いてあったからです。だれの講演かなあ。教頭会で講演するなんてどんな内容だろうと思ったのです。今までこんな本は一度も見たことがなかったのに不思議なものです。
内容は,講演記録が2本入っていました。そのうちの1本が
記念講演(平成7年度 第37回定期総会) 演題「学校教育の今日的課題」 講師 元初等中等教育局長・国立教育研究所長 菱村幸彦氏
というものです。
おお~,出てるじゃないか! この菱村さんという人,名前の読み方もよく分からないけど(ヒシムラと読むのかな?),恐らくボクの探していた人に違いありません。この講演記録では,大きく分けて「情報公開の問題」「児童の権利条約」「新しい学力観」の3点について書かれていました。まさに,元祖「新しい学力観」の話が読めるのです。
では,紹介しましょう。
さて最後に,新しい学力観のお話を申し上げたいと思います。新しい学力観というのが,かなりはやりました。まあ,はやるなんて言うと,不謹慎な感じがありますけれども,当初,こんなにこの言葉が教育に普及していくだろうとは予想もしていなかったのであります。
なんと,言い出しっぺの本人は,はやらせようなんて少しも思っていなかったようです。それにこの言い方。「はやったこと」が大変意外だったような言い方です。
で,どのような経過で「新しい学力観」という言葉ができたのかというと…
(注:いろいろキーワードを考えたけれどはやらなかった)それで,今回はキャッチフレーズなしの教育課程か,キーワードなしの教育課程かなあなんて思ってたんです。ところが,平成3年に指導と評価は一体でありますから,指導基準を改めると,評価の基準を改めるというんで,指導要録の改定をしたわけです。
この中でこういう言葉を使っている。「新学習指導要領が目指す学力観の定着を 図る評価」と。今回の指導要録の改定は,新学習指導要領が目指す学力観,その定着を図る評価であると,こう言ったわけです。
要するに,「新しい」は「学習指導要領」に付けていた言葉なんですが,間が抜けて「新しい学力観」と,こうなったわけであります。
やはり,間が抜けて「新しい学力観」という言い方になったようです。これは,初めの方に引用した板倉さんの談話の中で話されていたことと一致します。森下さんのレポートにもそう書いてありました。
それにしても,「新しい指導要領が目指す学力観」とは,何を指して言ったのでしょうか。
<関心・意欲・態度>なのでしょうか。<基礎・基本>なのでしょうか。
では,新しい指導要領が目指す学力観というのは何であるかということになるわけですが。それは昭和62年に教育課程審議会の答申に中にあります。「これからの学校教育は,生涯学習の基礎を培うものとして,自ら学ぶ意欲と,社会の変化に主体的に対応できる能力の育成を重視する必要がある。そのためには,児童,生徒の発達段階に応じて必要な知識や技術を身につけさせることを通して,思考力,判断力,表現力などの能力の育成を,学校教育の基本に据えなければならない。」 これが要するに新しい学習指導要領が目指す学力観であり,エッセンスだと言って差し支えないと思います。
(中略)
新しい学力観というと,とかく後のほうばっかり言われるんですね。思考力,判断力,表現力の力をつける必要があるんだということが強調されますが,実はこの答申自体が,「必要な知識,技術を身につけさせることを通して」と言っている。
これは,「基礎,基本をしっかり教えることを通して」ということと同じなんですね。とかく新しい学力観というとファジーで,ふわふわしたものとなっている。しかし答申自体は,基礎,基本がまず大事なんだと言っていることをもう一度確認する必要があると思うのであります。
軍配は<基礎・基本>に上がったようです。
元々の「新しい学習指導要領が目指す学力観」では<基礎・基本>がもっとも大事だと言っているのに,一人歩きした「新しい学力観」では<関心・意欲>が大切だってことになってしまったわけです(なぜそうなったかの追跡は,前掲の森下レポートで考察している)。
今,現場で言われている「新しい学力観」は,いつの間にかもっとも大切な<基礎・基本>を飛び越えて,<意欲・関心>だけを育てることができるような幻想を与えてしまっています。それで,特に生活科などで「教師は教えてはいけない」などといって現場を混乱させているのです。
いろいろ書いてはみたが
文部省の近辺で言われたことに対して,いろいろこだわったり,以上のようなことを調べたりしても仕方のないことです。元祖「新しい学力観」が示すものがなんであろうが,たいしたことではありません(といっても,上からの指導によって通知表の記入の仕方まで変わったので,たいしたことなのかも知れません…が,まあ,それにしても通知表自体たいしたものではないので,やっぱりたいしたことではありません)。 じゃあ,なんでこんなことに興味を持ったのかなあ。回りが,あまりにも騒ぎ過ぎだから,原点が知りたくなったのかなあ。自分でもよく分からないです。
ともあれ,今,「新しい学力観」「新しい学力観」といって騒いでいる人達よりは,元初等中等教育局長の方が,まともなような気がします。「地に足がついている」という感じがして,好感が持てます。現場にとって分かりやすいです。
また,「新しい学習指導要領が目指す学力観」=「新しい学力観」は,言葉の上からいけば,常に存在する(した)ことになります。なぜなら,もし数年後に学習指導要領が改訂されれば,その改訂学習指導要領の目指す学力観が,また新たな「新しい学力観」となるからです。現「新しい学力観」は次期「新しい学力観」に取って変わられるいうわけです。となると,目くじら立てて「新しい」「新しい」と言わなくても,少しずつ現場が進歩して行けばいい。今回だけあまりにも大きな価値観の変化があるように煽り立てるのはやめてほしいと思います。
もっとも冷戦構造が崩れたのをきっかけに,文部省が大きく路線転換し,自由化への大改革をやりだしたのなら話は別です。が,現在のように,たかが学習指導要領の一部を改訂したくらいでガタガタ騒ぐ方が,おかしいと思うのです。
新しい学力観を具現化する<もの>としての仮説実験授業
「“新しい”は繰り返す」と言う意味で,戦後すぐの問題解決学習あるいは生活単元学習の例もあります。
カリキュラムがあるようでないような。「子どもを大切に」「子どもが問題を見つけるのです」「子どもの生活から出発する授業を」なんて言いながら,子どもたちの学力低下にあわてふためき,結局は,現代化-系統学習の方向へ。すると今度は,どこからか,「知識偏重の詰め込み教育だ」「もっと子どもの生活に根差したものでなければいかん」「教師が問題を与えるのはすべていかん」と,過激な意見が大勢を占めてきて,別の新しい大きな流れがまたできる。
いったい,いつになったら解決するのでしょうか?
ボクは,大学時代に,この教育現場の状況を打開する<もの=思想>を知ってしまいました。それが仮説実験授業です。<自由と束縛><教授と学習><系統学習と問題解決学習>の矛盾を見事に止揚してできた授業が仮説実験授業です。「弁証法の真髄ここにあり」と感動して出会ったことを思い出します。
・選択肢(束縛)があるから,自由に考えられる
・頭がいいから間違える
・間違うから,楽しい
・少数派だから,楽しい
・簡単すぎてやる気が出ないのだ。もっと程度の高いことを教えよう
・「易から難へ」もいいし「難から易へ」もいい
・違う意見があるからこそ,授業がおもしろい
・科学的に考えるということは,科学の法則に束縛されて考えるということ
・自由に考えているつもりの人は,常識的な考えしか持てないのではないか
・科学的に考えようとする人を「狭い考えだ」といってばかにする人ほど迷信や習慣 にとらわれて自由な考えができなくなってしまっている人達だ。
など,仮説実験授業からボクが学んだことはいっぱいあります。
「とことん使って限界を知る」まで,仮説実験授業およびその根底にある思想・哲学に付き合って行きたいと思っています。
「新しいは古いの始まり」-なんて言葉もふっと頭をよぎります。どこかで聞いたことがあるのか,ボクがいま作ったのかは定かではありませんが…。ともあれ,こんな考え方ができるのも,仮説実験授業を学んできたからかも知れません。
追記
板倉さんの著書に『未来の科学教育』(国土新書)という本があります。初版が1966年ですから,今からもう30年近くも前のことになります。しかし,この本を今読んでも,『未来の科学教育』という題名でぴったりするのはどういうわけでしょうか。
しかし,本当に未来の科学教育がいま私の考えているようなものになるかどうか,それはもちろん断言できません。もっともっとよいものができるかも知れません。そうなればたいへんすばらしいことです。それなのに,私がこの本を「未来の科学教育」と名付けたのは,未来の科学教育は少なくとも私がここに書いたものよりさらによりよくなりうるはずだ,ということを示したかったからです。(板倉聖宣著『未来の科学教育』8ぺ)
2022年にHP化するにあたっての追記
『未来の科学教育』は,その後仮説社より,再版本が出ていますので,そちらの方をごらんください。なお,一番最初の「たのしい授業編集会議」の記録は,非公式なものなのですが,もう時効だろうと判断し,これからの学習資料ために敢えて紹介しました。いつの時代も,学習指導要領が変わる度に,現場はただただ〈新しい学力観〉に振り回され,本当に大切な基礎・基本や子どもたちの興味関心を高める授業をつくることが後回しにされがちです。そんな意味でも,本レポートは,まだまだ古くなっていないなと思いますが,どうでしょうか?
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