今月の本棚・2005年版

12月号

 12月の「奥能登楽しい授業の会」の授業書《ものとその電気》の講座の為に,以前の本を読み返したり,新しい本を購入したりしました。まずは,それを紹介します。

○板倉聖宣著『仮説実験授業のABC』(仮説社,1997,172ぺ,1800円)
 仮説実験授業をはじめるなら,この本を読んでからにして欲しい。本書は,何度か増補改訂されています。
 ボクが持っているのは,1982年発行(第2版:ボクが教師になったのは1983年4月から),1987年発行(1984年に出た第3版),そして,この夏根上の講座で買った2004年発行(1997年に出た第4版)です。
 今回,講座を担当するにあたり,初心に返って読んでみました。すると俗世間にどっぷりとつかりつつあたった頭がスッキリとしてきて,大切な物をもう一度確認することができました。また,第4話は,「仮説実験授業の理論の多様化」と題して仮説実験授業の考え方がどのように発展してきたのかが書いてあり,今まで『たのしい授業』や『仮説実験授業研究』で読んできたものの整理がついた感じです。
 仮説をはじめて長い皆さんも,時々読んでみませんか?

○仮説実験授業研究会編『授業書研究双書・ものとその電気』(仮説社,1989,224ぺ,2500円)
 以前研究会から出されていた研究誌から,授業書やテーマ毎に再編集した本です。タイトルの授業書以外にも,『電気で遊ぼう』などの授業のことも出ています。このシリーズは,授業書本文と共に授業記録も載っているので,はじめて研究するときには参考になるでしょう。ただし,実際に授業をやるときには授業書が改訂されている可能性があるので,仮説社に問い合わせた方が無難です。

○板倉聖宣編著『磁石と電気の発明発見物語』(国土社,1983,212ぺ,1380円)
 本書は「発明発見物語全集」の1冊です。ボクは17巻まで持っています。すべての編集者が板倉さんというわけではありません。ついでにすべて読んだわけでもありません。
 この本には,文字通り電気と磁石の発明発見物語が読みやすく書かれています。副題には「らしん盤からテレビジョンまで」とあるように,コハク電気の話から,八木アンテナまで網羅されています。
 巻末には,「さらに理解を深めるために」と「磁石と電気の研究のあゆみ<年表>」がついています。「さらに…」には,簡単な解説と参考文献が上げられていますので,もっとつっこんで科学史を勉強したいという人には大変便利です。

○板倉聖宣責任編集『電気となかよくなろう・前編<静電気の世界>』(板倉研究室,1998,240ペ,?円)
 サイエンスシアター用に書かれたシナリオです。そういえば北陸サイエンスシアターでボクが担当したのも丁度この≪ものとその電気≫の発展編のあたりだと思い当たって,再度,シナリオを読んでみました。
 このシアターでの進め方と,《ものとその電気》では,扱い方が若干違っています。このシアターでは,デンキウナギなんかも用意しておもしろかったなあ。その時の実験セットを横に置きながら,1週間ほど遊んでしまいました。

○林ひであき責任編集『授業究理学・第1集』(名古屋仮説会館,1989,190ペ,1800円)
 《ものとその電気》の一番新しい版が紹介されています。ボクは中学校にいた頃,この案で授業をしました。これには,双書には出ていない授業や実験のポイントも書かれていて大変参考になりました。
 ただし,今回は,ここに紹介されていた作者の塩野さんに連絡して,印刷用原稿を分けていただきました。おかげできれいなプリントを用意することができました。

○宮地祐司著・小出雅之絵『楽知ん絵本② びりりん』(楽知ん研究所,2001,100ペ,1200円)
 静電気と言えば,昔からエレキテルなどというものがあって,けっこう見せ物的な要素がある<もの>ですよね。そこで,「大道仮説実験」という催し物を発展させようとしている楽知ん研究所では,静電気による大道仮説実験<びりりん>というプランを作りました。
 今回,電気ベル(講座では紹介しなかったのだが)を注文するついでに,このプランも送ってもらいました。ついでに,2006年版『楽知んカレンダー』も送っていただきました。
 エレキテルなんてなくても,塩ビパイプでかんたんに実験できるのがいいです。
 今度いつかみんなでプランをしてみたいなあ。

○小林卓二著『静電気のふしぎ』(さ・え・ら書房,1987,63ぺ,1100円)
 静電気の歴史が分かる子ども向けの科学読み物です。わりと分かりやすく書かれています。これも,電気のシアターの時に参考図書として手に入れて読んでいたものです。テレビを使った実験や簡単なライデンびんのつくりかたなど,身近なもので遊べる方法も紹介されています。

○堤井信力著『静電気のABC』(ブルーバックス,1998,167ぺ,800円)
 昔懐かしの数式が出てきたりして,ちょっと…と思う本ですが,静電気のことを学生時代の知識と連携して少し詳しく知りたいと言う方にはもってこいの本かもしれません。
 特に第3章「静電気を使う,利用する」と第4章「静電気プロセスの世界」は,こういった本ならではの情報かと思いますので,読んでみてはいかが。
 静電気でのビリッを防ぐためには,電気人間になっている自分から電気を逃がせばいいので,濡れた物(濡れティッシュなど)に触るか,抵当な大きさの物体(静電気を分散してくれる)に触ればいいそうです。 

 次に,静電気以外の本を2冊。

○山廣康子著『やればできるんよ』(ダイヤモンド社,2005,149ぺ,1300円)
 鍵山さんの掃除の本からたどり着いた本です。前回のサークルでの話題になっていましたね。女性校長が荒れた学校を改革していく姿が描かれています。何をやってもムダだから…という教職員達を前に「やればできるんよ」と態度で示す校長。何をやってもどうせオレは…と自暴自棄になっている生徒達に「やればできるんよ」と挙げます校長。
 校長と対決することが組合員の姿だと思っている情けない組合員のいることが,組合を弱くすることになっている気がします。自分の教育実践をもって語ることで,組合への理解も深まると思うのです。
 本書に出てくる教師達は,なんとも無気力で寂しい限りです。あきらめないでくださいっていいたいですね。

○中一夫著『ボクと仮説実験授業』(ガリ本,2001,214ぺ,1500円)
 今年一番の収穫が,中さんにあって実際に話ができたこと。その中さんのレポートというかエッセイを集めた本です。むずかしい年頃の中学生とどのようにつきあっているのか,ビシバシ伝わってきます。頭から怒ってたんじゃ,生徒との中は離れていくばかりですね。じゃあ,仮説をやっていれば大丈夫かというと,そんな簡単なものではない。しかし,子どもの気持ちを優先した教師の行動は,しっかり子どもたちにしみこんでいくのです。とても元気の出るあたたかい本でした。

11月号

 ん~,毎月書こうと思っていたのに,2ヶ月もご無沙汰してしまいました。
 9月~10月上旬までは,珠洲原発反対連絡協議会の記念誌『反連協の歩み』の編集作業に追いまくられており,じっくりと本を読むことはできませんでした。それで,ちょっと欲求不満になりかけでした。11月に入って,少しは余裕ができたので,また,自分のパターンをつみかけています。
 今月は,主に梶田さんの本といわゆるビジネス書を読みました。

○梶田叡一著『基礎・基本の人間教育を』(金子書房,2001,215ぺ,1600円)
 教務主任講座Ⅱでの講演を聴いて以来,さらに梶田さんの本を読んでいます。これが結構おもしろいのです。全て賛成!と言うわけではありませんが,ほとんどの部分で「そのとおり」と頷きながら読んでいます。
学校教育では「わかる・できる・覚える」は大事です。「知識・理解・技能」はもちろん身につけなければなりません。これをおろそかにしていたら,学校教育の意味はありません。(中略)しかし同時に,「わかる・できる・覚える」は,その人自身にとっては「道具」でしかない,ということも忘れてはいけません。私たちは,道具がなければ,世の中でやっていけません。しかし,道具は「いつ,どこで,どういうふうに使うか」が大事です。「何に関心があって,何に意欲がわいてくるか。どういうことをどういうふうに考え,どういうふうに判断するか」という,人間そのものとしての育ちがなければ,道具が立派であればあるほど危険が増すのです。(183~184ぺ)
 前のサークルで梶田講演の一部を紹介しました。「確かな学力」を氷山にたとえた話がありましたが,それを砕いて言うと,上のような表現になるのだと思います。また,同様のことをこういう言い方で表してもいます。
結論はできるだけ日常の近いところに引き降ろしてみて,それが自分の実感の中で,ものの感じ方,ものの考え方,ものの判断の仕方まで変えてくるという工夫をしなければいけません。(181ぺ)
 梶田氏の言う基礎・基本を「第1部 教育の基礎・基本を考える」から上げておきましょう。
・基礎は土台のこと,基本とは柱のこと。
・道具的技能…「読み・書き・計算」
・新たな学習の前提となる知識・技能・特性…当面の学習に必要な土台。認知的前提能力・情意的前提能力(ブルーム)
・カリキュラム体系における基礎基本…このことをマスターしておかなければあとあと困るというポイントの部分。カリキュラム体系の中の必須の部分。
・好奇心・積極性…生涯にわたって学習を支える意欲,姿勢。
・内的拠り所…自分なりに生きていく上で必要なもの。自分自身の実感・納得・本音の世界に目覚めさせ,その本音を大事にし,さらに深化・拡大する
 久しぶりに,赤線で真っ赤になった本です。ここでは紹介しませんでしたが,「第9章 創造的人間が育つ条件」という論文も,とてもおもしろかったです。こういう文章を読んだのは初めてでしたので(板倉聖宣さんも別の表現で似たようなことをいっていたかもしれませんが…)。

○梶田叡一著『教師・学校・実践研究』(金子書房,2005,205ぺ,2000円)
 今年の8月に出たばかりの本です。副題が「人間教育の基盤を創る」とあります。
 本書の内容は「ここ十年くらいの間に雑誌等に公にしたものであるが,かなり大幅に加筆訂正したので,初出については省略する(あとがき)」というものです。
 梶田氏は,本書をまとめた理由として,中央教育審議会の正委員としての任期にあることを上げ,その審議会の場で「その場限りの思い付き的な発言をしないためには,そして確たる基盤も見通しも欠いた『審議のまとめ』に堕することのない方向付けを図っていくためには,自分自身の内部にある理念的土台を明確にし,常に再吟味してみることが不可欠であることを痛感しているからである」と述べています。
 本書の特徴として,現場と研究者との関係に関する記述があります(「実践研究の部分」)。珠洲でも,研究を引き受けた学校が,発表会までに何度か同じ研究者を呼んで一緒に研究しているという姿が見られます。佐藤学さんもそうですよね。そういう研究者の立場的なもの,研究の寄って立つ土台などについて書いてある文章は,あまり読んだことがかなったので結構新鮮でした。
 もっとも,三分の二は『教師・学校』についての教育原理となっています。少しだけ引用します。
・教師自身が自己実現ということについての明確なイメージを持っていなくてはならないであろうし,小学校なら小学生の時期に,中学校なら中学生の時期に,子どものどのような姿が実現していけば,生涯にわたっての基盤としてそれが生きていきことになるのか,具体的な形で考えておかなくてはならないであろう。(82ぺ)
・講義式の授業にきちんと耳を傾ける,という姿勢が育たなければ自己教育力ではない。(84ぺ)
・どこの中学,高校へいこうが,どこの大学へいこうが,あるいは大学なんかいこうがいくまいが,自分はこういうことを原理・原則にして生きていくぞ,というものをこそ,何とか少しずつ小学生,中学生の時期に築かせたい,あるいは育てていきたい,ということである。(87ぺ)
・民主主義社会においても,少数の者が選ばれて指導的役割を果たさざるをえない,という当然の前提をすべての人が承認し,そうした「エリート」的な人物には,識見や能力だけでなく,他の人々が眠っている間も,その人々のために悩み,考え,手を打っていくという強い使命感と責任感が必要であることを,すべての人が認識しなければならない。(92ぺ)

○梶田叡一著『絶対評価<目標準拠評価>とは何か』(小学館,2004,146ぺ,1300円)
 小学館の「教育技術MOOK」シリーズの1冊です。構成は大きく3部に分かれていて,「第1部 なぜ教育評価なのか-真の『生きる力』を育てるために」「第2部 絶対評価時代の学力観・評価観」「第3部 目標分析の手順と授業改善の道筋」となっています。この章立てを見てもわかるように,本書では,教育評価の一般的な考え方の説明から入り,最近重視されてきた絶対評価の生かし方を説明。最後に実際のその評価を目標分析や構造図を使って授業構想や学習活動などにどう生かすかの具体が書かれています。
 第1部からの引用。
・全般的にいうと,日本の子どもたちの学力水準は,そして国民全体の学力水準は,今でも国際的にトップレベルにある。
・技能的な力・見える学力の点では確かに素晴らしいけれども,人間としての成長・見えないところのそだちはどうか。どうもおかしくなってきているぞ…(8ペ)
・知識の蓄積があれば感動の中身の具体を自問自答することもできる。藤原俊成にいわせると,知識がなければ感動は深まらない,ということになる。(15ペ)
・評価というのは,本来,教育活動そのものの中に埋め込まれた不可欠のフィードバック機能である。(中略)例えば総合的な学習であっても,評定はなくても,評価は不可欠といえる。(17ぺ)
・目が輝くのは結構だが,それでどういう力がつくのか,が大事である。(21ぺ)
・特に困った子,指導をようする子についてメモを残すだけでいい。それから,これは他の子の模範になるという子の具体的な姿についてメモを残す。これが本当の評価活動なのである。(21ぺ)
・教師をやるということは怖いことである。結果が出なければいけないのだから。教育というのは,大阪的な言い方をすると,「わかってナンボ,育ってナンボ」ということである。(25ぺ)

 大変コンパクトな本ですが,内容は結構厚いです。特に第3部は,今まで読んだ梶田さんの本では,はじめて出てきた話でした。梶田さんは,評価を実際の授業づくりに生かすための具体的な手順について,加藤明著『評価規準づくりの基礎・基本』(明治図書)という本をお薦めしています。アマゾンで頼みましたので,来月にでも紹介できると思います。

○大橋禅太郎著『すごい会議』(大和書房,2005,160ぺ,1400円)
 だらだらした会議,集められたからという受け身の会議,ただ時間だけが過ぎる会議,終わるのを待つ会議…,そんな中身のない会議をいかに盛り上げていくのか。その方法が書かれているのかなと思って読んでいったのですが,ま,それに近いことが書いてありました。
 本書で得た「すごい会議」にする方法。
一つ 紙に書いてから意見を発表する。これをすると,前の人が言った意見に引きずられなくてすむ。また,この会議が終わったときにどんな成果を上げることを期待しているかと問うことで,受け身から積極的な態度に変化する。
一つ いままでに何が達成されたかを考える。何も考えつかなければ,「蛍光灯がついている」というようなものでもよいから…もちろん紙に書いて発表。
一つ 問題を「どのようにすれば…」に置き換える。例えば,「資金が足りない」という問題があったとすると,それを「どのようにすれば資金を得られるだろうか」というように置き換える。すると,できない理由ではなく,解決策を話すことになる。これは使えると思いました。
一つ 言えない問題は何か。上の問題を言っていったあとで,それでも出てこない「言えない問題」「言ってはいけない問題」があります。それをあえて出そうというわけです。しかも,その「言えない問題」の方に,問題解決の鍵があったりします。「上司とうまくいっていないこと」「製品そのものがカスである」ということが出てきたりすると,「売れない」ことよりも,別の所に問題解決の糸口があるのではないかと感じられます。
 その他にも,数点,「すごい会議」にしていく方策が書かれています。本書は,会社などで,いかに業績を上げるか,新しいプロジェクトにどう取り組むかなどという会議をするときには大いに役立つと思います。しかし,学校現場のように,会議時間が1時間しかない,とかなら,あまり出番がなさそうです。が,それでも,学校全体の活性化や子どもたちのこと,行事のことを見なおすときには,じっくりと時間をとってやってみたい方法だなとは思いました。

○後藤芳徳著『ダメな奴でも「たたいて」使え!』(フォレスト出版,2005,207ぺ,1300円)
 この本は,Hさんから買ったものです。同じ本を2冊購入してしまったということで,それじゃあ,オレも読んでみようということで譲ってもらいました。
 まずは,この本のタイトル。ちょっと偉そうですよね。だいたい,この使っている方(というか筆者)は「自分がダメな奴」とは思っていない。まわりの奴にはダメな奴がいるけど,「うちの社にはいい人材が入ってこない」などと文句ばかりも言っていられないから,その使い方を教えてあげましょう,ってな感じがします。そこがどうも気に入らない。で,気に入らないまま,どんな「使い方」があるのかと思って読んでいきました。
 すると,ダメな奴は,先ず採用するなと書いてある。 冷えた鉄を打ってもムダだから,そういう奴は切れとも書いてある。これじゃあ,「ダメな奴でも」って言っているタイトルにウソがあるとは言えないか。ま,救いは,「そういう問題の人材は,他に適所があるのだ。その人が悪いのでも自分が悪いのでもない」と書いてあることでしょうか。
 いわゆるこういうビジネス書には,先人の教えや座右の銘,成功者の人生観や価値観などがちりばめられています。しかし,ともすると自分自身の身をふり返るというよりも,人の扱い方などについて,そのノウハウを述べるということが中心となっている本もあります。ま,本書はそのつもりで書かれたのですから無理もありませんが…。
 ボクは,本書を読んで「LOVEアンドリスペクト」という考え方が気に入りました。これは一緒に仕事をしている人たちとのつきあい方にヒントを与えてくれます。でも,考えてみれば,ちゃんとそう思いながらやっていたことですが。
 他にボクが頷いたこととして
・人間はアウトプットでしか変わらない。
・モチベーションを上げるためには,強制的に成功体験を積ませる。
・目標は段階的に。達成できる目標から徐々に上げていく。
・今できることを確認し,少しだけ無理をさせる。
 このあたりのことを小学校の教師は大切にすべきでしょう。みんな平等に扱っていることで,ある子には「たくさんの無理」をさせてしまい,成功体験どころか「失敗体験」を多くさせてしまっているのではないか。それでよけいにモチベーション
が下がっているのではないか,そんなことを自戒を込めて思いました。
 この本もなかなか得るところがあるじゃないか。
 先の梶田氏の著書『基礎・基本の人間関係を』にも,アウトプットに関して,次のような言葉が出ていました。
・教師,あるいは親自身が,あるべき人間の方向へ少しでも自分を近づけていくと同時に,子どもに口で言うのではなく,子どもが自分で気づいていけるような場を少しずつ設定していかなければならないのです。(188ぺ)
 子どもたちが自分を出せる場を設定し,小さな成功体験を繰り返すことで,いつの間にか伸びてくるのだと思います。それは「砂漠に水をまいているような気分」(『すごい会議』より)かもしれないけれども,まかないよりはいいと思ってつづけることで『何か』が生まれるのでしょう。次の本は,そういう本です。

○鍵山秀三郎著『掃除道』(PHP,2005,251ぺ,1300円)
 トイレ掃除を40年間やってきたら,会社が変わり,学校が変わり,社会が変わってきた。そして,なによりも自分が変わった。
 以前,Hさんがサークルで話題にしていたイエローハットの社長さんの本をいろは書店で見つけたので,さっそく読んでみました。
 読後の第一印象は「これは尋常ではない結果だ」ということです。たかがトイレ掃除なのに,ここまで社会的に広まりいい影響を与えているとは驚きでした。
 確かに掃除をしていると,徹底的にきれいにしたくなります。それは,汚ければ汚いほど,そう思います。トイレ掃除や側溝の掃除,グレイティングの掃除,換気扇の油汚れ落としなどに取りかかると時間を忘れて徹底的に掃除をしてしまいます。ボクの場合,草むしりをし出すと半日でも徹底的にやってしまうことがあります。となりとなりのキミコ方式で…。掃除も草むしりも,それを終えた後は,何とも言えない爽快感,達成感があるのも経験しています。
・掃除をするときに,私どもがとくに心がけていることは,範囲を限定して掃除を徹底するということです。(中略)そうしますと,汚いところときれいなところがはっきりしますので,それをほおっておけない気持ちになります。(40ぺ)
 これも,その通りだと思います。ちょっとだけ前に進み達成感を味わい,また,前に進む。となりとなりのキミコ方式や,ちょっとだけ無理をさせて成功体験を踏ませるという考え方にも共通しています。
 そして,
・自分が掃いたあとにはらはらと落ちた落ち葉を見て「きれいだなあ」と思えるような感受性豊かな人間でなければいい人生は送れません。(48ぺ)
との言葉。せっかく掃いたのに,これじゃあきりがない,やめた! ではなく,そこに美を見いだす。あるいは自然の力を感じる。こういう感性を磨くためには,基礎的な知識も必要となります。散りゆく落ち葉に命のバトンを感じることができるためには,それなりの知識が必要なのです。
 鍵山さんたちはトイレ掃除を素手でやります。ゴム手袋などは使いません。その理由をこう述べています。
・ゴム手袋をしたり,長い柄の道具を使いますと,その分だけ得る感覚から遠ざかってしまいます。換言しますと,問題から遠ざかることになるわけです。自分の子供のおしめを替えるとき,手袋をするお母さんはいないはずです。素手で触るからこそ,子供の病気の状態から健康状態までわかるのではないでしょうか。/大事なことは,直面する問題から逃げるのではなく,できるだけ近づいて対処することです。(57~58ぺ)
 なかなか含蓄のある言葉です。
 本書を読了後,いろはに行ってもう1冊購入し,読んでいます。『鍵山秀三郎「一日一話」』(PHP研究所,2004,221ぺ,1000円)です。鍵山さんの生き方のヒントがコンパクトにまとめられた新書大の本です。
 実はこの『掃除道』から派生して,もう2冊,本を注文してあります。それは鍵山さんの本ではありませんが,『掃除道』で紹介されていた本です。これも,来月紹介しますね。

○稲盛和夫著『君の思いは必ず実現する』(財界研究所,2004,225ぺ,1200円)
 京セラの創設者,KDDI(携帯のauの会社)最高顧問の稲盛さんが,中高生(というか青少年)に向けて書いた人生の手引き書です。これも,掃除の本と一緒にいろは書店で購入しました。
 ボクは,本書を稲盛氏の自伝として読んでみました。
 戦後の闇市で,家業の袋を売り歩いたことが商売の原点になっているという話など,おもしろい話がいっぱいあります。人間,何が幸いするかわからないなあ。というか,いろんな体験をすべて糧にすることもできるのだろうなあ,それが幸せをつかむかつかまないかの違いなのかなあと思いました。「どっちにころんでもシメタ」というボクの座右の銘は,ココにもつながっているんだろうとも思います。
 中村天風さんの哲学から学んだことや,六波羅蜜の教えなどにも感銘を受けておられる様子。六波羅蜜といえば,協和石油の男子トイレに貼ってあるヤツ。アレを貼ったのは店長かなあ? こんど行ったら聞いてみよう。
「一つのことを継続することで愚鈍な人が非凡になる」(205ぺ)とは,まさに鍵山さんの言っていることと一致します。
 最後の,お寺の老師の「地獄・極楽の話」(213ぺ)はおもしろかった。心のあり方次第で同じことも全く違った結果をもたらすのです。(216ぺ)

 こうして読んだ本から,気になった部分を取り上げてまとめていると,とても共通点が多いのにビックリします。大切なこと,不易なことは,どこの世界でも同じなのだなあと思います。もしかすると,教師としての専門的な知識なんて枝葉末節なことなのかもしれないと思ったりもします。原点を見失わずに,実践を積み重ねていきたいのもですね。

7月号

 学期末は,担任ほどではないけれど,級外も忙しい。わたしは花壇の係をしているので,その関係で,天気がいいと水やりや草むしりが気になって仕方がない。なんせ,相手は生きものだから…。一方,朝学校に来ると,待っていた3年生が「アオムシがさなぎになったよ」「チョウチョになっていたよ」と報告してくれるのがうれしいこのごろです。

○板倉聖宣監修『発明・発見の大常識』(ポプラ社,2005,143ぺ,880円)
 ポプラ社の「これだけは知っておきたい」シリーズの18冊目。小学校4年生から読みがな対応だそうで,大変読みやすかったです。
 板倉さん監修の本書は,一つの発明・発見に2ページから4ページを使って説明してあり,大変読みやすくなっています。ページ下には,簡単な三択問題もあり,ミニ知識を得られるものとなっています。内容は「くらしのなかの発明・発見」「食べものの発明・発見」「医学の発明・発見」「科学と文明を進歩させた発明・発見」「文化をささえる発明・発見」の5つの柱でまとめられています。
 巻末の索引も充実しております。レーウェンフック,お金といった項目がちゃんと索引にありますからね。
 ところでこのシリーズには,「動物の…」とか「恐竜の…」とかにフツーのタイトルに混じって,「新撰組」や「源義経」,あるいは「妖怪」「オリンピック」などというものもあり,ちょっと触手が動きます。

○山田浩之著『マンガが語る教師像』(昭和堂,2004,280ぺ,2400円)
 此の手の本としては,ちょっと割高感がありますね。
 副題に「教育社会学が読み解く熱血のゆくえ」とあります。教育社会学という学問自体はじめて聞きました。
 内容は,ご想像のとおり,マンガの世界に描かれている教師像を分析し分類分けし,解説したものです。
 著者が読んだマンガは,並大抵の数ではありません。タイトルだけで手に入れてみたが内容が学校の教師ではなかったものもあったりしたようです。その逆もあるだろうしね。
・つまり物語全体がドラマを作り出しているはずなのに,あたかも金八先生個人がそうした感動を作り上げたように語られたのである。金八先生が現実にいれば,物語と同じ感動を現実世界でも与えてくれるはずだという,とんでもない錯覚を生み出してしまった。(257ぺ)
・こうして金八先生も人間主義により理想化されてしまった。金八先生は個々の授業や生徒指導の方法など具体的な教師としての行為が評価されたのではない。その情熱や生徒を思う気持ちという人間性が「人間主義」によって評価されたのである。(中略)マンガ世界でも人間主義はこうした教師の問題を覆い隠してしまう。(258ペ)

・熱血教師という概念は具体的な教師像を示しているわけではなく,抽象的でとらえどころのないものにすぎない。どのような行為をすれば生徒に受け入れられる熱血教師なのかを定義することは難しい。いわば熱血的な雰囲気,あるいは生き方としか言いようのないものである。それよりも教師という職業に求められるのは,もっと具体的で多様な能力や資質であろう。教育の専門家としての深い知識と洞察力をもった教師像を求めていく必要がある。

○村上令一撮影『靖国の日』(朱鳥社,2001,40ぺ,1000円)
 夏休みの根上のサマーセミナーで「靖国神社」の講座を担当することになったので,靖国神社について数冊本を取り寄せて調べています。
 靖国神社については,最近テレビ等でも紹介されており,知識としては増えている人がいるように思います。ただ,これほど左右の問題が絡むものも珍しいですので,授業で取り上げるときには気をつけないと…。幸い,仮説実験授業研究会には『靖国神社』というミニ授業書があるので,それをもとに授業を進めていきます。

○星田直彦著『単位171の新知識』(ブルーバックス,2005,270ぺ,940円)
 本書は2003年に広文社より刊行された『はやわかり 単位のしくみ』を大幅に加筆,修正,再編集したものだそうです。『はやわかり』の方も,以前紹介しました。
 第1章の「単位とはなにか」を読んで,あとは,必要に応じて開く事典として利用すればいいでしょう。もちろん,ずっと読んでいくこともできる本です。その単位にまつわるいろいろな話題も載っていますので,飽きずに読むことができるでしょう。

○ガリレオ工房編『びっくり,ふしぎ写真で科学・全6巻』(大月書店,2003~2004,35ぺ,1800円/冊)
 読むと言うより,見る本。いろんな写真を紹介しながら自然界の神秘に迫る。どのようにして撮った写真なのか解説があるものもある。見ていて飽きません。
 第1巻 ズームアップで発見
 第2巻 見えない光を見る
 第3巻 動物の目,人間の目
 第4巻 植物の素顔
 第5巻 瞬間をとらえる
 第6巻 自然がつくるアート
 ちょっと高いけど,娯楽のためにはこれくらいはいいかな。

 いよいよもうすぐ夏休み。今年は,途中になっている『斎藤喜博全集』とSSSの英語,そして,靖国神社に関する本などを読むつもりです。できれば,集めた中谷宇吉郎の古本も読んでみたいなあ。

6月号

 昨年植えたホウキグサが,秋の台風に運ばれた塩水の影響で枯れてしまったのに,タネをしっかりまき散らしていたと見えて,今年も芽を出してくれました。大きいものは,もう20センチ近くになっているので,これからが楽しみです。雨もしっかり降り出したし,学校の花壇も少しは賑やかになるのかな。
 さて,この1ヶ月に読んだ本の中には,小説も入っています。ほとんど作り話はよまないのですが,この本はお薦めです。まずは,その本の紹介から…。

○恩田陸著『夜のピクニック』(新潮社,2004,342ぺ,1600円)
 なぜこの本が目についたのか。それは『本の雑誌』という月刊誌で,「本屋が選んだベスト1」として上げられていたからです。実は,学生時代,椎名誠が好きだった私は,彼の編集している『本の雑誌』もよく購読して読んでいました。そこで,今でも本屋に行くと,時々,『本の雑誌』を立ち読みすることがあるのです。
 この6月に見つけた『本の雑誌』に2004年度ベスト10の第1位として『夜のピクニック』が選ばれていました。そして,『本の雑誌』のとなりにちゃんと『夜のピクニック』が置いてありましたので,すぐに買い求めました。
 6月10日の金沢の帰りに穴水で購入し,次の日の土曜日の夕方には読み終えました。これだけ一気に,小説を読んだのは久しぶりです。
 高校生活最後の長距離歩行のスタートからゴールまでを,なんの章も設けずに(もちろん,区切りはあるが,小見出しなどは一切ない),綴っていく。生徒たちの様々な青春がそこには詰まっているのですが,それがまた,とてもほのぼのとしていて,いいのです。
 ウォーターボーイズもスウィングガールズも高校生が主人公ですが,今はやりの携帯電話は一切出て来ません。そして,この『夜ピク』にも携帯の存在はないのです。むしろ,転校していった子が残した手紙が,大きな意味を持って物語を進めていきます。たぶん,このあたりが読んだものたちに幸福感を与えるのではないかと思うのですが…。
 もう絶対お薦めの小説です。自分の高校時代を思い出しながら読んでください。

○能登ラブ・レジェンド実行委員会編集『1000の星 1000の愛』(知玄社,2005,112ぺ,1600円)
 能登を格好良くまとめるとこんな本になりますってな感じのいかした本です。「能登」と題した文章を仲代達也さんがよせています。また腰巻きを見ると,田口ランディ,桐島洋子,喜納昌吉,湯川れい子といった方々が,「私たちも応援します」なんていっています。
 文と詩と写真で綴る能登のすばらしさ。能登の再発見。
 能登ラブ・レジェンド実行委員会というのは奥付けによると「21世紀の新しいコミュニケーションスタイルとして,古代から受け継がれた能登の神話伝説をもとに,融合・融和の精神や地域づくりを推進する市民プロジェクト」だそうです。設立が2004年の5月。HPもあるそうなので,興味のある人は見てみて下さい。
 本書のメインである福澤もろさんという歌手(故人)の詩は,本物を聴いてみたくなります。CDなんか出ていないのかなあ。
 この本のことは,うちの小学校のミニバスの監督さんからの情報で知りました。

○梶田叡一著『学びと育ちのフィールド』(金子書房,1994,261ぺ,1800円)
 本書も前回紹介した梶田さんの本同様に,異動されたとなりの先生にいただきました。内容は,梶田さんが関わってこられた付属校や公立校,あるいはサークルや研究会で講演されたものが掲載されています。
 でも単なる講演記録集と違うのは,その講演を行うまでの当該校での研究の話や発表会当日の公開授業のようすなどが紹介されていることです。そのような前提があって「こういう話をしました」って感じで講演記録が出て来ます。「成る程その通り!」と思った部分をいくつか紹介します。
・分かったという事実がなくても,おもしろかったという事実がなくても,子どもは,義理なのかつられてなのか知りませんが,先生が“分かった?”というと“分かった!!”と言ってしまうのです。子ども達はみんな素直で純真ですから,先生を悲しませては悪いと思ってか,たいていはそうします。(中略)子どもの内面に何も残るものがなくて,ただ先生に迎合する習慣だけが付ついて,あるいは周りの友達に同調する習慣だけがついて,結局あっち見こっち見して世渡りだけはうまい軽佻浮薄な人間になるのではないかと思うのです。(31ペ)
・指導と評価の一体化というのは,結局そういう<目>を持つということなんですね。くどいようですが,いろんな評価活動を授業に組み込んでみてもしょうがないのです。(中略)これ(注:形成的評価)も細かく目標を洗い出してチェックして行く,というような実践が出てきすぎたために,ベンジャミン・ブルームが提唱したもともとの形成的評価とは縁もゆかりもないものになってしまった,という気がいたします。(中略)そういうふうに,<願い>や<ねらい>ということや,あるいは子どもの育ちということを語ると,何か話が細かくなって,そして結局は授業をがんじがらめにしてしまうような,そういうまずい傾向があったことは私もやはり率直に認めなくてはいけないと思います。(41ペ)
・そこで子どもの内面には悩みが生じるし,外側との関係では反抗が起こってくる。悩みと反抗,基本的には同じことで,捉え直しが内側に向かうか,外側に向かうかなんです。それまで周りから与えられてきた意味づけに埋没していてなんの疑問も不安もなかったのに,自分で捉え直そうとするから悩みや反抗が出てくるわけです。(178ペ)

○桜井邦朋著『福沢諭吉の「科學のススメ」』(祥伝社,2005,224ぺ,960円)
 著者の桜井さんはその「まえがき」を次のように書き出しています。
 本書で取り上げた福沢諭吉の『訓蒙 究理図解』という本は,今から140年近く前の1868年(明治元年)に発行された小編である。福沢の数ある著書の中では,それほど知られてはいない。いや,むしろ忘れられていると言ってもいいだろう。だが,そうなった理由については措くとして,この著作ほど現代人にいま求められているものはないといっても,決して過言ではない。まさに幻の名著である。
 本書の章立ては,
序章 なぜ今,福沢諭吉の「物理」なのか
第1章 若き福沢諭吉と,科学との触れ合い
第2章 科学する心とは何か
第3章 『訓蒙 究理図解』を現代語訳で読む
第4章 現代科学から見た『訓蒙 究理図解』
となっています。メインは第3章(本書の約半分)です。この章では,左ページに原文,右ページには現代語訳というふうに対比してありますので,大変分かりやすくなっています。原文で読むも良し,現代文で読むも良し。私は,原文を読みながら,ちょっとどういう意味か分かりづらかったら現代文のお世話になるという読み方をしました。

○山田真哉著『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』(光文社新書,2005,216ぺ,700円)
 この題名につられてつい本書を手に取る人は多いのではないでしょうか。私もはじめてこの本を見たときに,思わず手に取って見てみました。でも副題に「会計学」という言葉があって,「う~ん,今すぐにはかんけーないかな」と,購入を控えている間に,ベストセラーに登り詰める勢い。
 組合の会議で「損益決算書」とか「賃借対照表」というのを見たりするのですが,どうもよくわかりませんでした。本書を読んでもそれはわかるようにはなりません。それでも「会計学」に触れたような木になるのですから,面白いです。
・決算書というまさしく「数字の壁」を前にしてただ怯むのではなく,「いまの自分にとっていちばん大切な数字はなにか?」「どの数字をおさえるべきなのか?」ということをじっくりと考えていけばいい。すべての数字を均等に見ようとするから,わけがわからなくなる。だれもが正しいと答える正解はないのだ。(199ぺ)
「50人にひとりが無料! キャッシュバックキャンペーン実施中」-この数字に秘められた意味とは…。気になる人は,本書を開いてみて下さい。

○渡邊香春子著『調理以前の料理の常識」』(講談社,2004,191ぺ,1400円)
「初心者も,ベテランミセスも,単身赴任のお父さんも! 一家に一冊。だれにも聞けないときに,そっと開いて答えを見つけよう! 料理するのが楽しくなります。」とカバーの内側に謳っていますが,その通りの本というか,先ず料理をはじめたい人には,ぴったりかな。だいたい「大さじ一杯」といわれても何のことかわかんないし,まな板の管理のしかたも知りませんのでねえ。「レシピのどこにも書かれていない!だけど,知らなきゃ料理ができない!」というわけで,本書を読めば,「基本の知識253」が手にはいるはずです。
 本書は,家庭での実地と,給食だよりのネタ本として利用しています。最近,一番よく開く本が,これだったりするのだ。あはははは…。

○松本猛著『ぼくが安曇野ちひろ美術館をつくったわけ』(講談社,2002,172ぺ,1500円)
 著者は,いわさきちひろの長男。
 東京にも「ちひろ美術館」はありますが,ここの館長は黒柳徹子だそうです。松本さんは,長野県の安曇野にもう一つの「ちひろ美術館」をつくり,現在はそこの館長さんです。
 安曇野ちひろ美術館へ,5月の連休に行ってきました。この本を読む前です(この本は,その美術館で買ったのだから当たり前)。いわさきちひろの展覧会へは,数年前,石川県立美術館で開かれた時に行ってきました。その会場でも本や色紙やポスターが売っていましたが,私は,色紙を4枚と「いわさきちひろ展」という冊子を買って帰りました。
 さて,この美術館は,なかなか居心地のいいものでした。なんで居心地がいいのかなあというと…それがこの美術館を「つくったわけ」にあるのです。
・ここ(ルイジアナ美術館)での体験は,ぼくに美術館というものを根底から考え直させることになった。美術館とは何のために存在しているのか-。「収集,保存,研究,公開」という,専門家があたりまえのように語る美術館の原則は,いったい誰の立場に立ったものなのだろう。運営する側の立場ではなく,美術館を訪れる人の立場で考えるならば,美術館の価値は違うところにあるはずだ。(8ペ)
 なんか,そのまま学校の授業のあり方にも当てはまりそうな意見だとは思いませんか。
「授業とは何のために存在しているのか-。人類の文化の伝達という,教育学者が当たり前の用に語る授業の原則は,いったい誰の立場に立ったものなのだろう。大人社会の立場ではなく,子どもの立場で考えるならば,授業の価値はちがうところにあるはずだ。」
・画商を育てるための何よりの教育は,自分のお金で絵を買わせることらしい。自分のものにするかどうか,というときに,人は真剣に絵を見るようになるからだ。それはおそらく何十万,何百万,何千万円の世界だけではなく,一枚百円や百五十円の絵はがきの場合も同様で,自分のお金を出すとき,自覚はなくても,人は真剣に,自分の判断で絵を見ている。絵との価値ある出会いが,展示室ではなく,ときには絵はがき売り場で起こっているのかも知れない。(28ペ)
 これには,思わずうなづきました。以前から,展覧会の売店がとっても好きな私は,自分でもその理由が分かりませんでした。でも,それは,自分の価値判断で品定めをしている自主的な行動だったわけです。確かに,絵はがき1枚でも吟味して買っている自分を思い出します。お金と相談しながら,「この展覧会で,自分は何に感動したのか」を探していたのだと思います。この前も,アトリオのギフトショップで,迷った末に買わなかったある作者の「絵はがき」があります。たかが「はがき」です。缶ジュースなら,簡単に買ってしまうのに…自分が娯楽として選ぶ「価値」というのは,もしかしたらすごい「重さ」をもっているのかも知れません。
 駐車場から美術館へは,子ども達がメダカを追いかけている浅い池を横目に見ながら進んでいきます。都会ナンバーの車が,この場所に居場所を見つけてとまっているのです。
 ちひろがますます好きになった。

○毛利子来・母里啓子編集代表『予防接種へ行く前に』(ジャパンマシニスト,2004,140ぺ,1100円)
 日本脳炎の予防接種がいきなり通達が学校に来ましたね。6月の日程にも入っていたのに(行事黒板にも書かれていたのに)…です。これっていったいどういうことでしょうか。危険と安全は,まさに隣り合わせです。確率論的に言って,10万人に2人くらいやばいけど,接種を受ける方がいい…というのは,安全と言えるのか? 接種を受けないとその病気にかかる可能性が極めて高いのならいざ知らず,もうほとんどそういう病気が発生していないのなら,副作用を覚悟してまで接種する必要はないのではないかとも思います。
 この本を読んで,自分がいかに何も知らずに,我が子にあるいは学級の子どもたちにいろいろな予防接種を受けさせてきたのかと思い,呆然としました。「受けるこどもの側にたって」と本書の副題にありますが,まさに,病気になるのも副作用を受けるのも子ども達ですからね。「ある程度の病気にはかかってもいいじゃないか」という発想の大切さも,改めて感じました。
 本書は厚生労働省が親向けに配布している『予防接種とこどもの健康』というパンフレットの,ずばり「攻略本」(8ペ)なとっています。パンフレットのコピーを紹介し,その読み取り方,考え方を説いてくれていますので,大変読みやすい文章となっています。シロウトのような私でも読めましたので…

○正木不如丘著『身體と食物』(アルス,昭和3年,241ぺ,古本)
○金田一京助他著『日本童話集・下』(アルス,昭和4年,240ぺ,古本

 以前,『子供ノ實験室』という古本を紹介しましたが,そのシリーズ本(日本児童文庫)の中の2冊です。
 『身体と食物』の方は,今でいうと,理科と家庭科を合わせたような内容となっています。いろいろなことを説明するための表現が,昔風でおもしろかったです。たとえば
・みなさまが散歩に行くとか,又は駆け足などをするとか,さうでなくても,みなさまの心臓が働くと,その時にはお砂糖が入用です。汽車を動かす時には,石炭が入用ですが,人が動くときにはお砂糖が入用なのです。さういう時には,肝臓はしまつて置いたぐりこーげんをまた砂糖にして,入用なだけを血の中に入れて送ります。つまり人の血の中には,いつも同じくらゐのわりあひにお砂糖があるのです。(115ペ)
なんて調子です。授業で使えるのもあるかなあ。「それでは,私のかわいいみなさま。丈夫で元気で,よく遊んで,よく勉強して,國のため,親のために,立派な人になつて下さい。をはり」という最後の文が,なんとも戦前ですよね。
 一方『日本童話集・下』をなぜ購入したのかというと,この「日本」童話集には「アイヌ編(金田一京助著),朝鮮編(田中梅吉著),琉球編(伊波普猷著),臺湾篇(佐山融吉著)」が掲載されているからです。まず,この地域が「日本」だったということだけで,この本は教材になります。昔話の内容も,内地と違い,バカにしたような雰囲気もあり,その当時の子どもたちへの影響も考えてしまいます。
 浦島太郎に似たような話などもあり,ねる前にちょっとずつ読んでいました。

5月号

 今月始めの連休に,信州へ行ってきました。信州は3度目ですが,観光をしたのは初めてなので,たった1日でしたが,楽しかったです。この時の旅でボクのアンテナに引っかかったものについてはおがちゃんのブログ「世の中まとめて好奇心」の方に紹介しましたので,よろしければみて下さい。
 ま,そういうわけで,休みはあったものの,この旅と『反連協の歩み』(8月発行予定,500ページ近くになるかな)の編集作業で,ほとんどの時間がとられました。ふつうの本も英語の本も読めませんでした。そこで最近,活字欲求不満気味です。

○土井隆義著『「個性」を煽られる子どもたち』(岩波ブックレット,2004,71ぺ,480円)
 昨年?の一番利用された曲(カラオケ・CD売上げ・着メロなどすべての音楽ソースで)は,今回も「世界で一つだけの花」だそうです。ダントツだったとか。NHKのニュースでやっていました。
 さて,この「世界で一つだけの花」。ガッコの先生も好きです。
「ナンバー1にならなくていい,もともと特別なオンリー1~♪」
っていうじゃな~い。
 でもあんた,自分の中にある,「もともと特別なオンリー1」を探す方が難しいですから!! ザンネン!!
と言いたくなりませんか。
 あなたには,もともと個性が備わっている。その個性を発揮してこそ,あなたらしい生き方ができる。小学校・中学校・高校いや人生を通して,自分の個性って何だろうか,それを探し出し,磨いていけばいいのです。なにも,人と競争などして勝った負けたと一喜一憂しなくていいんだよ-というわけです。
 でも,これってほんとうに楽でしょうか。もともとある個性って何ですか? 最近は「算数ができないのも個性のうち」という風潮まで出て来ています。「個性にあった勉強を教えて,それなりに育てばいいのです」という発言もあります。そして,子どもたちにとっては「お前の個性はなんだ。それを見つけろ。人とは違うのだ。生まれつき違うのだ」ということを強調しすぎていませんか。
 本書は,その部分をついています。個性が必要なことをみとめながらも,ほとんどは人様と同じであるし,その個性は生まれつき備わっているというよりも,人と人との人間関係の中で形作られてくるものではないでしょうか。「自分の中の個性を発見する」のではなく,「友達と一緒に自分の個性を作っていく」のだとボクは思います。
 ボクが最近6年生を持ったとき教室に掲げるテーマに「友と共に自分づくりを」をいうのがあります。どこからヒントを得たのか忘れましたが,もう10年間くらいは,教室の前にはってあります。語呂も良いので気に入っています。
 「生まれつきもっているものを教育の力で引き出す」という考えも分からないではないですが,幼い頃から「個性的であれ!」と強制されることは,子どもたちにとって過ごしやすい環境でないことは確かです。実は「わがまま」でしかないことが,「個性」として扱われているところに,著者の指摘の正しさを感じます。
 最近の「個性」重視の流れについつい乗ってしまっている人には,必読の本です。

○梶田叡一著『形成的な評価のために』(明治図書,1986,191ぺ,760円)
 教委主催の「評価に関する研修会」に各校からレポートを持ってこいという要請。これは言うまでもなく,最近流行の「1枚レポート持ち寄り講座で少しでも主体的な参加を!」方式の研修会というわけです。「現場は,ただでさえ忙しいのに!」という声があちこちから聞こえてきます。こういうレポートを幾つも幾つも書かせるのは,おそらく何のためにもなりません。それは,「自分から書きたい」と思って書いているのではないからです。
 このあたりを教委はよく理解していないのが情けない。なんでも書かせれば,少しは勉強するだろうと思っている。3年ほど前からこの方式をやっているのだから,今までのみなさんのレポートを読めば「役目済まし」になっていることはしっかり見えているだろうにねえ。まったく,教委の発想は,子どもを扱う鼻高教師と同じ。教師が子どもを引きつけるためには,まず自分の授業を魅力あるものにしなければならないのと同じように,教委が研修を意味のあるものとしたければ,たのしい研修のあり方こそ探らなくてはならないのです。
 宿題をしてこなければ参加できない授業は,おそらく最低の授業ですが,レポート持ち寄りを強制する研修会は,最低の研修会といわれてもしかたがないでしょう。もちろん,自分が自主的に好きこのんでいく場合には,参加条件として「レポート持ちより」もありですよ。今は,授業と同じように強制的に参加させられている研修会について書いています。
 これ,教委の人読んでくれるかなあ。読んだらボクの「評価」は下がるのかなあ。
 さて,ここまでが前置き。実は,「評価」については,仮説実験授業と関わってから,ずっと気になっています。常識的な評価という概念にはあきあきしています。
 以前,通知票とは別に「到達度評価」の一覧表を作り,それで子どもたちの評価をしたこともあります。算数だけでしたが,単元毎に作るのが楽しかったけれど,その後中学校へ転勤したので続きませんでした。その頃は市販テストでも,間違った問題に○を付ける-なんてこともしてみました。間違った問題こそ,もう一度見て欲しいからです。でも,これも長続きはしなかったなあ。余り意味がないようで…。
 評価に関して,幸いうちの学校はあまり統一したことはやってきていません。で,「レポートを持ってこい」ということなので,「これは好きな本を読んで,感じたことを書いてみよう」と思いました。また,今年はどんな方法で評価について研究していくか,少しだけ考えを書いてみました。
 本書は,『形成的評価』について,その言葉の意味から,評価のしかた,扱い方,授業への生かし方まで,多方面にわたり解説してあります。今から20年近く前に出版された本なのに,ぜんぜん古い気がしません。教育界は変わっていないのでしょうね。
 評価と言うことについてハタと膝をたたいた言葉を一つ紹介します。
・評価において最も重要なのは,言うまでもなく,教育そのものの有効適切化にそれが役立つ,という点であるはずである。(67ペ)
 こんな当たり前のことを忘れるために「やれAAACで学期末は3だ」とやっているのでは,本末転倒だと思うのです。
 本書は,異動されたとなりの先生にいただきました。ちゃんと役に立ったよ。
追伸:上記リンクは,2016年の復刻版です。

○板倉聖宣著『私の評価論』(国土社,1989,310ぺ,3000円)
 梶田さんの本を読みながら,「板倉さんの評価の本ももう一度読んでみようかなあ」と思いたち,本棚から取り出して読んでみました。本書も,梶田さんのと一緒で,十数年前に出版された本(しかも収録論文の初出は1970年代です)なのですが,言っている内容は今でも新しいです。で,今,自分が子どもと接するときに,ずいぶんこういう考え方で動いているよなあと自分の成長を振り返ることもできました。十数年前に自分が赤線を引いてある部分を読んでいくときって,なんとなくスリルがあります。今回,またまたあたらしく赤線を引っ張ってしまいました。
 本書は,たぶん絶版でもう手に入らないと思います。その変わり,最近仮説社から板倉聖宣著『教育評価論』(2003,238ぺ,2000円)という本が出ました。この『教育評価論』の「はしがき」に板倉さんは「今回,仮説社から新版を出していただくにあたって,直接<評価>に関係した文章だけを残して,本をスリムにすることにしたのです」と書いておられます。
 新版の方には「いちばん大切なことは評価してはならない-あとがきにかえて」という文書が新しく掲載されました。これは『たのしい授業・1994年4月号』の再録だそうです。「関心・意欲・態度」や「人間性」は一番大切にしたいことだからこそ,おいそれと評価してはならない-もっともっと多くの人にこのことの重みを感じてもらいたいです。

3,4月号

 「あと1ヶ月余で今年度も終わり。2年間続いた級外ともやっとおさらばできそうです。級外から見ると,担任はやはり大変そうに見えます。(中略)2年間もブランクがあって,ちゃんと学級担任が務まるかなあ。学校でも,研修時間にはよく本を読んでいました。担任になるとそんな時間はなくなります。おそらく学級通信などを書いているのではないかな。それもまた楽しいのですが…」と書いたのが今年の2月。新しい子どもたちとの出会いを心待ちにしていた頃です。
 ところが…。
 この異動で学校の職員構成が変わり,そのあおりを受けて,またもや級外となってしまいました。担任やりたかったのになあ。いつの間にか,わがままを言えない歳になってしまったんだなあと思います。で,来年こそは…と思いながら,4月はスタートしたのです。 

○桑原眞二,大野一興共著・ikko絵『山古志村のマリと三匹の子犬』(文藝春秋,2005,120ぺ,1200円)
 犬好きだから買った本。確か北陸中日新聞の「中日春秋」欄に紹介されていたのだったかなあ。ま,新聞で見たのは確かです。
 金沢の本屋での積んでなくて,うつのみやの方に聞いて見つけてもらいました。4月のはじめに「うつのみや」に行ったときには,平積みされていましたが…。
 10月23日,3匹の子犬を生んだマリは,その夜,中越地震にあいます。村民たちは避難しますが,ペットたちはあの村に残されたままです。そして,再び飼い主の元に返るまでの16日間。マリが3匹の子犬の世話をしながら必死に生き抜いている様子が想像して書かれています。
 犬が命の大切さ,生きることの勇気をあたえてくれるお話です。

○高木仁三郎著『証言-核燃料サイクルの未来は』(七つ森書館,2000,257ぺ,1800円)
 「私自身は,自分の闘病生活もいよいよ,しめくくりの覚悟をしなければならない時機に来たと秘かに思っている。そのしめくくりの作業の一つが本書において実現したことは,個人的にも幸せなことであった。そんな幸せに恵まれる人は少ないかもしれない」と「まえがき」に書いているように,この頃の高木さんは,ガンと闘う末期にいました。この『証言』というのは,生き証人という意味もありますが,文字通り,裁判に出て証言台にたって話した記録なのです。その裁判は「六ヶ所ウラン濃縮工場の核燃料物質加工事業許可処分無効確認・取消請求訴訟」と呼ばれるものであり,その「第45回口頭弁論」(2000年4月28日)で高木さんが証言にたったのです。
 高木さんは10年前の1991年に『下北半島六ヶ所村核燃料サイクル施設批判』(七つ森書館)という本も出しており,この間,この本の予言どおりに核燃料サイクルに関する事故が起きてきました。このまま,六ヶ所村の施設が稼働するようなことがあれば,取り返しのつかないことになると訴えかけています。
 『証言』は,前から買って持っていたのですが,途中になっていました。今回,組合の環境教育学習会で「核燃料サイクル」を扱うので,自分自身の学習のために読み直してみたというわけです。

○斎藤貴男+東京管理職ユニオン編著『成果主義神話の崩壊』(旬報社,2005,171ぺ,1300円
 『機会不平等』などですっかり私の愛読著者の一人になった斎藤さんですが,今回は,「成果主義」の方から攻めていて,本書に出会いました。原発神話も既に崩壊しているのですが,この成果主義もいろいろなアンケートを見ると,もう百害あって…という感じで,今更この制度を採り入れるなんて,会社の自殺行為に等しいとさえ思ってしまいます。労働者が生き生きしないと内需拡大なんて絶対にありえません。
・企業は部門部署,チーム単位で仕事をする。組織が上げた成果と個人が上げた成果を判然と区別して客観的に測定することなどできないし,100パーセント区別して個人でできる仕事ならそもそも会社組織などいらない。(74ぺ)
・ソニーや日立製作所でも目先の成績だけを追う現場と経営陣の相互不信が噴出していると報道されている。(76ぺ)

 第3部の「成果主義とたたかう方法」では,現状と闘うためには,現在の労働運動の弱点(カンパニーユニオン・企業ごとの労働組合)とその克服が必要だと述べ,具体的な提案もしています。
 今年から試行に入る「人事考課制度」が,私たちの職場を暗くしないように,運用面でどんどん意見を言っていきたいです。で,いつかは,この制度が間違いだったと撤回されることを待ちましょう。真理は10年にして勝つ。原発計画がなくなるまで28年かかりましたからね。それにしても生活科は,私の予想より長持ちしているなあ。もうそろそろ終焉に近づいているようにも思うけど。

○滝川康治著『幌延-核に揺れる北の大地』(七つ森書館,2001,174ぺ,1400円)
 いったり来たりしながら,核の最終処分場に狙われた北の大地は「国」策に翻弄されています。本書は,七つ森書館の「脱原発シリーズ」の第1巻めです(ちなみに第3巻は北野さんの『珠洲原発』です)。
 こういう本を読むたびに,「お金に目がくらむのが人間の本当の姿なのかもしれない」と思ってしまいます。本当に自分の生活がかかれば,道徳や正義などは吹っ飛んでしまうのかもしれないと思います。ただ,しかし,そこまでギリギリの人たちが「原発」を選んでいるわけではないことも確かです。一方で「アンタは公務員だからそんなこといっていられるんだよ」と言われると反論できない自分が情けない。でもでも,お金より大切なことがあると信じたい。幌延を核廃棄物から守ることが,お金儲けになる方法があれば一番良いのだろうなあ。それは,すなわち,土地貧乏を逆手にとることなのでしょう。これは能登半島も同じことですよね。

○梶田叡一著『内面性の人間教育を』(金子書房,1989,210ぺ,1400円)
 この本は,自分で選んだわけでなく,お隣の先生にいただいたものです。お隣の先生が,この度の異動で学校を変わられたのですが,引っ越しをしているときに,「私読まないからあげる。先生が読んだ方が,この本のためにいいと思うし」などといいながら,4冊の本をくれました。これはそのうちの1冊です。
 著者の梶田さんの講演は2度ほど聴いたことがあるような気がします。
 文章は上手なので,理論書なのに,とても読みやすかったです。それは,いろいろなたとえやお話があるからかもしれません。ついつい,さらりと読んでしまったのですが,「内面性の教育」という意味を納得できたとは言えません。また,機会があればじっくり読んでみたい本です。
 今年度の教務主任講座の講師の名に梶田さんの名前がありました。じっくり聞いていきたいと思います。

○和田秀樹著『大人のためのスキマ時間勉強法』(PHPエル新書,2003,217ぺ,760円)
 この系統の本をまたまた買ってしまいました。たまたま行った本屋にならんでいて,他に買いたい本がなかったので,ついつい手に取ってしまったのです。ま,どれを読んでも同じようなことが書いてあるとは思いながらも,何か,もっとよい時間活用術はないかと探し求めている自分が,ちょっと情けないのですが…。
 それでも「スキマ時間勉強術」はそれなりにおもしろかったです。まとまった時間をいつとればいいのか。スキマの時間で,何ができるのか,いろいろとヒントになることがいっぱいありました。やはり,「朝の時間」が大切というのは,他の著者と同じです。
 第1章では
 法則1 生きるために必要な時間は削ってはいけない(そのとおり)
 法則2 削るべきはダラダラとした時間(そのとおり)
 法則3 優先順位を決めて無駄な時間を減らす(やっているつもり)
 法則7 所要時間を強く意識する(これがまだできない)
 法則8 お金で時間を買う(これもそう思っています)
 法則10 無理をしない(これはできていない。「予定は崩れる」という前提を持って計画していないなあ)
などという法則を上げて,「時間有効活用術」のヒントを教えてくれます。私も,結構この著書と同じようなことを考えているなあと思いました。
 今年は,昨年より時間があるかもしれないけれど,昨年通り,うまく時間を使っていきたいなと思います。本を読む時間はしっかり確保し,SSSの英語の本も毎日読みたいし(ここ10日間ほど全く読んでいない),授業の準備や学校の仕事もこなしていきたいものです。あと,家庭でも役目を果たしたいなあと思っています。さて,こんなにできるかな。

 3月~4月は,何かと環境の変化する季節。じっくりと本とつきあってもいられない。それでも,活字が身近にないと禁断症状を起こすので,授業準備用の参考書を横目に見ながら,明日の授業の準備に直接役に立たない本も自分のために読んであげています(人ごとみたいですが)。
 デモ,今ふりかえってみると,<明日の授業のためではない本>が,数年後の授業に役立ってきたのかもしれないと思います。<明日の授業のためだけ>ではついつい近視眼的になってしまいテクニックのみに走ってしまいがちですが,そういう自分の実践を「本当にそれは必要なことなのか」と問い直してくれるのが,いろいろな読書ではないかと思うのです。
 そんなわけで,これからも,いろいろな本を読んで,楽しいひとときを過ごしたいなあと思います。時間が許す限り…。

2月号

 あと1ヶ月余で今年度も終わり。2年間続いた級外ともやっとおさらばできそうです。
 級外から見ると,担任はやはり大変そうに見えます。人は,学校研究や書記長大変だねといいますが,わたしは担任の方がより大変だと思います。2年間もブランクがあって,ちゃんと学級担任がつとまるかなあ。学校でも,研修時間にはよく本を読んでいました。担任になるとそんな時間はなくなります。おそらく学級通信などを書いているのではないかな。それもまた楽しいのですが…。
 一方,『めざせ100万語!』の方は,レベル2まで行きました。12月以降,これまでに読んだ洋書は60冊になりました。夜寝る前に読んでいるのですが,最近,『生徒諸君』というマンガを1冊ずつ読んでいるので,英語からは遠ざかっています。あと2冊でマンガの方は終わるので,またSSSをはじめようと思います。100万語にはいつ到達するやら…これも,担任を持つとそちらが気になって時間を取られるかも知れませんが。

○石原純著『子供の実験室』(アルス,昭和3年,231ぺ,古書)
 先月のサークルでいくつか実験を紹介した本です。ネットの古本屋で見つけ,購入しておきました。暇なとき読もうかなと思っていたのですが,丁度,お正月前の学校にいなければいけない日に読みました。
 本書は,「日本児童文庫」の中の1冊で,奥付けを見ると「非売品」となっています。また,扉には「賜 天覧・台覧」という文字もあり,これまた不思議です。この本がどんな意味を持つのか,調べる方法はあるのかなあ。
 敏雄さん,友達の理吉さん,その妹の妙子さん,従兄弟や先生が出てきて,会話形式で色々な実験が進みます。科学読み物としてもおもしろかったです。第1章の「しゃぼん球の実験」から第14章の「電気のいろいろなはたらき」まで,かんたんにできる実験を紹介しながら,科学のおもしろさを訴えています。
 今度また,いくつか実験をしてみて,ご紹介することがあるかも知れません。

○茂木俊彦著『障害は個性か』(大月書店,2003,166ぺ,1400円)
 副題に「新しい障害観と特別支援教育をめぐって」とあります。著者のことは,以前,Hさんが紹介してくれた(学生時代に読んだ著書の紹介をしてくれました)ので知っていました。
 本書の構成は,「第1章 障害は個性か」「第2章 障害と人間,社会」「第3章 障害児の行動療法・訓練と心理療法」「第4章 ノーマライゼーションとインクルージョン」「第5章 特別支援教育と障害児の学習権」となっています。
 第1章では,「障害は個性である」という一部の意見に対して反論しています。
・障害はなんといっても個人の生活と活動を制約する面をもつ(その意味で負の影響をおよぼす)属性であり,その制約は意識のうえでいかに軽く位置づけてみたところで軽減したり解消したりするものではない。(31ペ)
・歌が上手,下手といったことと障害を同列におくこの議論は,障害によって発生してくる困難,特別なニーズに注目させない方向へと人びとの認識を誘導し,ニーズに対応する社会的・行政的方策の立案と実施を回避する方向で,その役割を果たす可能性がある。(32ぺ)

 「障害も個性だ」ということで,「おれは,障害者だからといって差別していないのだ」といっていることと同義だと思っている人もいるようです。しかし,その言葉が,かえって障害者のための方策の実施を阻止する方向にはたらいているのではないかという著者の指摘はもっともだと思います。
 また,第4章の「ノーマライゼーションとインクルージョン」では,その言葉の概念について整理をしてくれています。
・支援なしに障害のある人びとを地域社会にダンピングするのはノーマライゼーションの原理・思想と似て非なるものである。(115ぺ)
・それは簡単に言えば,専門施設,専門機関の存在意義,その機能は認めつつ,障害者とみれば即座に専門のところへと安易に考えるようなことはやめ,可能な限り通常の場で通常のしかたで生活し,学び,働き,文化・レクレーションを楽しめるような方向を追求しようということなのである。(119ペ)

 さらに,第5章で,文科省が言い出した「特別支援教育」について,
・「21世紀報告」では,対象拡大にかんしてLD,ADHD,高機能自閉症「等」と記されていたのに,「特別支援教育報告」では「等」が削除された点に注目しておく必要がある。この一事をみるだけで,「特別支援教育」は,その対象の面では障害児の教育の枠から出ないものであり,前章で扱った特別な教育的ニーズ(のある子ども)の教育とは似て非なる考え方に立っていることがわかるであろう。(138ぺ)
と述べ,その対策が不十分であることを指摘しています。しかも,新たに対象となった三つの軽度障害でさえ,
・軽度であるために,この子どもたちと障害のない子どもとを区別し,さらに障害の特質や傾向を周囲の者が理解するには,それなりの基礎知識も必要である。そしてそれが不十分な段階では叱ることが多くなり,悪くすれば体罰も行われてしまうことがある。(141ぺ)
という状態であり,私たち教師の学習が必要だと感じました。ただ,茂木さんは,今回の文科省の特別支援教育の在り方にも一定の前進も感じており,これからのわたしたちの取り組みこそが大切になるのだと思います。
 学習しなくちゃ…。

○佐藤学著『授業を変える 学校が変わる』(小学館,2000,238ぺ,1900円)
 今年度,追っかけた佐藤学さんの理論本です。次の本と共に,一気に読んでしまいました。とてもおもしろかったです。
 主体性について,気に入った部分を書き出してみます。
・授業における「主体性」神話は,大正自由教育において成立し,戦後の新教育において広まっている。(20ぺ)
・「主体性」神話とは,教師との関わりや教材や学習環境と切り離して,子どもの関心や意欲や態度など,子ども自身の性向に「主体性」を求める神話であり,子どもの内面の「主体性」によって遂行された学びを理想化する神話である。
・欧米では,神,自然,国家,真理,民衆の意志など,自己を超越した存在の従属者になることによって「主体性」が獲得されると考えられている。学びの「主体性」が「謙虚さ」に求められるのは,このような「主体=従属」という思想が根底にあるからである。
・わが国の「主体性」は,むしろ,あらゆる従属関係や制約から自由になって自分の内面にそって行動することを意味している。このような「主体性」は「わがまま」でしかないのではないか。さらにいえば,この「主体性」は,従属すべきものを喪失した「宙づりの主体」でしか,ありえないのではなだろうか。(22ぺ)
・「主体性」神話に冒された授業は,「はい」「はい」と活発に活動を展開してはいるものの,子どもが学んでいる内容は雑然としていて質的に貧弱であり,子どもの育ちも表面的で貧しいものになっている。(24ぺ)

 また,授業の中の「ハンドサイン」をみるとがっかりするとも述べています。こういう先生は,思考や意見の表明を明晰に行うべきだと考えていることがおおく,そんな教師は,
・子どものたどたどしい発言のすばらしさを理解することができない。微妙に揺れる曖昧模糊とした思考や矛盾や葛藤をはらむ複雑な感情のすばらしさについて理解することができない。(28ぺ)
のだといいます。
 主体性についていえば,仮説実験授業が,本当の意味での主体性を求めている授業です。子どもに迎合することなく,子どもが主体的に考えるための手だてを授業書という形で与えています。仮説実験授業に即して考えることで,教師は,より創造的・主体的になっていきます。

○佐藤学著『教育改革をデザインする』(岩波書店,1999,201ぺ,1900円)
 これも佐藤氏の理論本です。
 授業や学校の改革が主な話題だった前掲書『授業を変える…』と比べ,本書は,日本の教育改革にもものを申しています。その分,前掲書よりやや固い内容となっていますが,わたしにとっては,この本が佐藤さんの本の中で一番おもしろかったです。
 最近はやりのカウンセラーについても,その導入に疑問を投げかけながら,「教育の危機的減現象を精神分析や臨床心理学によって心理化し私事化して認識し対処するのは,それ自体が,今日の教育改革の深刻な病理現象である。いじめ,不登校を始めとする教育の危機的現象のほとんどは,心理学的な問題ではなく,社会的な問題であり制度的な問題である」と言い切っています。
 教育も社会的な問題であり,日の丸・君が代の強制や教職員の人事考課制度なども,子どもたちに大いに影響するのです。なぜなら,そういう制度を押しつけようとする教育行政のもとで,教育せざるを得ないのですから。
 佐藤さんのいいところは,現在の教育改革にもものを申しながらも,しっかりとした改革のための対案を示していることだけでなく,今現在の状況でも,各教室や各学校でやることはあるではないか!と,身近な部分での具体策も示してくれていることです。その代表作が『授業を変える…』であり,その改革の成果が一連の茅ヶ崎市立浜之郷小学校の著作なのです。
 何はともあれ,「教師の職業時間の7,8割を専門家としての仕事にあてられるように学校の機構を単純化する必要がある(本書,135ぺ)」ことは確かであり,そのための手だてを早く取ることが大切です。

○三崎亜記著『となり町戦争』(集英社,2005,196ぺ,1400円)
 小説など殆ど読まない私が,新聞広告を見て読んでみたくなった本です。
 この作品は第17回小説すばる新人賞受賞作だそうです。
 本書の帯の言葉を紹介します。
・ある日届いた「となり町」との戦争の知らせ。僕は町役場から敵地偵察を任ぜられた。だが音も光も気配も感じられず,戦時下に実感を持てないまま。それでも戦争はちゃん区実に進んでいた-シュールかつ繊細に,「私たち」が本当に戦争を否定できるかを問う衝撃作。
 戦争って,日常の中で進んでいくんですね。そして,いつの間にかそれに取り込まれるんですねってことが,隣の町と戦争するというとんでもない話から見えてきます。それにしてもけったいな本だった。

○城 繁幸著『内側から見た富士通「成果主義」の崩壊』(光文社,2004,235ぺ,952円)
 本書のことは珠洲支部の情宣にも書きましたので,ここでは,そこから抜粋して紹介します。
 民間に行われていることを公務員でもやってみようとする。これが最近の流行か?
 県教委が出してきた「人事考課制度」も,最初は民間で始まった。それでは,その成果は? 1993年,日本の大企業として初めて「成果主義」による「目標管理制度」を導入した富士通の10年間はどうであったのか。元富士通人事部に所属していた著者の目で書かれた,富士通凋落の顛末を読んでみる。
 かつて富士通では,売上高1兆円,経常利益1000億円を達成したとき,社員全員に1万円が入った祝儀袋が配られたという。それから十数年後,2002年度決算で3825億円という巨大赤字を計上。2004年3月期決算で3年ぶりにかろうじて約500億円の黒字を計上したが,これはやっとのこと(持ち株の売却や管理職の賃金カット)で捻り出した数字である。
■「成果主義」導入で,どんなことが起きたのか
 無能なトップとそれに群がった無能な管理職(彼らは年功序列で管理職となっている)が,この制度を使いこなせず,社員の士気は低下。社内には,不満と嫉妬が渦巻き,自殺者まで出るという惨劇が出現した。以下,本書より<社員の声><著者の声>を紹介しよう。
「新制度導入後は,それまでチームで一つの成果を上げていた社員が,自分だけの目標に固執するようになった。この弊害が一番大きいですね。トラブルや仕様変更があれば,日々そういう『誰の目標にも書かれていない仕事』が発生する。でも,誰も自分からはそういう仕事をやろうとしなくなった…。職場の雰囲気は1年でガラリと変わってしまったんですよ」「『仕事をやりとげる』という目的意識が,いつの間にか,『単に目標を達成する』というドライなものに変わった」
 しかしその評価も,分布率が決まっている「相対評価」だったので,
「分布比の枠に収めるため,目標達成にかかわらず評価の格下げが行われる。決められた枠をオーバーすれば,SAからAへ,AからBへと,評価は落ちていくのである。自分の評価を下げられた従業員は,目標に対して努力するモチベーションなど維持できるわけがない」「目標をたてさせられて,頑張って達成しても,『やっぱりオマエは最初からB要員だから』っていわれている気がするだけになってしまった」
ということになった。そこで,富士通は「絶対評価」にしたのだが,
「だがこれも,成績分布を自由に設定できるというだけで,ボーナスの平均支給額自体は変更しないという規定があったので,有名無実化した。つまり,これまでのA評価が,実際にはB評価に近い価値しかもたなくなってしまったのだ。これは評価のインフレである」
 こういう会社でははたらく気力もなくなります。優秀な社員も他社へ行ってしまったのです。
「目標管理自体もそうですが,本質的な仕事以外のことに神経を使うのに,ほとほと飽きたんです。きっかけ,それは課長昇給の話を頂いちゃったから…,自分が課長になって詐欺の片棒を担ぐのは,もっとイヤですからね」(途中で富士通を退社した優秀エンジニア)
「なんと,採用時に評価の高かった新人のほとんどが,5年以内に退職していたのだ。特に1998年以降の入社組では,選考時の評価上位1割が3年以内に,ほぼ全員退職していた」「なかには,富士通にいたときより給料が下がった人間もいる。いや,むしろその方が多い。しかし,『いまの方が働いていて楽しい』と言うのだ」
 著者は,本書の最後をこう結んでいます。
「当たり前のようだが,社員はロボットではない。重要なのは,人の気持ちなのである。富士通もそうだが,人の気持ちを無視した制度に,未来はない。この点に気づかない会社は,今後も将来はないだろう。」
 富士通の「成果主義」による崩壊は決して他人事ではない。

○高橋伸夫著『虚妄の成果主義』(日経BP社,2004,244ぺ,1600円)
○高橋伸夫著『できる社員は「やり過ごす」』(日経ビジネス文庫,2002,260ぺ,600円)

 高橋教授のこの本も「成果主義」についてのものです。先の城さんは,「成果主義全面否定」ではありません。が,高橋さんは全面否定です。
 著者は,成果主義を採り入れた企業は,どこも失敗したと感じており,方向転換を余儀なくされていると言います。日本はなんでもアメリカの真似をしたがり,この「成果主義」もその一つですが,そのやり方が日本の社会に合致していない理由を分析しています。たくさんの調査の結果,日本型年功序列制度の復活が,必要だと説きます。
 賃金などの外発的動機付けより力に見合った仕事で報いる内発的動機付けの方が,より自己を生かす仕事,自己存在感のある仕事が出来るのだといいます。そのとき,未来をある程度展望できる年功序列制があると,現在も安心して仕事に打ち込めるのです。それを未来傾斜原理と呼んでいます。
・未来傾斜原理とは,わかりやすく言えば,過去の実績や現在の損得勘定よりも,未来を残すことを選択し,その実現への期待に寄り掛かり傾斜した格好で現在をしのいでいこうという意志決定を行う原理である。過去の実績に基づいて評価し,現在の損得勘定に訴えて動機づけをしようとする成果主義と比較すると,「日本型年功序列制」が,いかに未来傾斜原理に則ったものであるかは,容易に理解してもらえるはずだ。(『虚妄の成果主義』212ぺ)
 『できる社員』の方にも,未来傾斜原理のことがでてきますので,どちらを読まれてもよろしいかと。『できる社員』の方が,成果主義にかかわらず,いろんな調査の内容や結果とその考察が詳しく出ています。著者がなぜ「成果主義」を否定しているのかの,バックボーンをより理解できると思います。

○H.トーマス・ジョンソン/アンデルス・ブルムズ著『トヨタはなぜ強いのか』(日本経済新聞社,2002,372ぺ,2200円)
 これもビジネス本です。これは成果主義について興味を持ってから買ったのではなく,以前から買って読まずにおいてありました。今までもセブンイレブンやディズニーランドなど,「成功した企業」の原因をさぐる本を読んできています。というのも,教師という職業もサービス業であり,子どもたちが喜ぶ顔を見るというのは,企業でいうとお客様の喜ぶ顔を見るということにつながっていると思うからです。なにか教育を考えるときのヒントを得ることができるのではないかと思うのです。ポケモンやたまごっちの発明物語もおもしろかったです。
 さて,本書のことですが,これはアチャラの人が書いたトヨタの会社の仕組みを研究し,なぜ世界で成功したのかを考察したものです。帯には
・利益,売上げ-「結果」を目標に掲げる経営は,敗れ去る。名著『レレバンス・ロスト』の著者が,現代の主流は経営とは対極にあるトヨタの普遍的な強さを解き明かし,経営思考の大転換をうながす。
と書かれており,「結果ではなく,プロセスと人間を重視する」のがトヨタだといいます。
 トヨタのやり方は,自然生命システムにあっており,無理がないのであるということが,本書の主張です。
・「結果による経営」を実践するにあたって,量的な値で示された抽象的な目標を使用することは,われわれの管理する組織のあるがままの現実との「接触を失う」ことになる。目標を抽象的な量として設定してしまう結果,組織を機械論的システムとみなしてしまう。そのために,量という抽象的概念を「世界に対する理解の幅を広げる」ための手段として利用できると考える。残念なことに,こうした考え方は,人間の組織が一つの生命システムであるという現実を無視するのだ。人間の組織は,量的尺度で測れる部分の機械論的な集合体ではなく,くもの巣状に張り巡らされた関係性を持ち,しかもそうした関係性の中でこそ機能するものとしてとらえられる。(81ぺ)

○北野進著『珠洲原発・阻止へのあゆみ』(七つ森書館,2005,391ぺ,3000円)
 ついに出ました。やっと出ました。昨年の12月には出るといっていた北野さんの本です。
 出版社は,原発関連の本をたくさん出している七つ森書館さん。1月中旬の出版記念パーティーには,中里代表取締役にも出席していただきました。400ページで3000円。珠洲原発計画浮上当初から,断念にいたるまでの経過が,節目節目の選挙を軸として語られています。また,珠洲原発反対運動そのものについても,主張の違いを乗り越えて,紆余曲折しながらやってきたことも,赤裸々に綴られています。
 『珠洲市勢要覧2004』の「珠洲市のあゆみ」には,原発についての記述が全くないと聞きます(自分の目で,まだ確認していませんが)。こういう状態で,歴史が抹殺されることは許されることではありません。まるで731部隊が,アウシュビッツが,その証拠となる書類や建物を破壊してから逃走したような態度と似ています。
 珠洲の現代史の中で,国策に翻弄されたこの30年間をしっかり見据えることが,新たな珠洲市づくりには必要だと思います。

○平林浩・津田道夫著『イメージと科学教育』(績文堂,2005,253ぺ,2200円)
 2月13日(日)の『北国新聞』の読書欄に紹介されていました。「へえ~,こんな本が出たんだ。しかも実践家と理論家の共著なんて面白そう」と思っていたところ,ご本人の平林さんから仮説実験授業研究会の会員向けにお手紙が…。
 そこでさっそく本屋タウンで注文し,いろはさんから届きました。
 第1部では,平林さんが,自分がやってきた授業記録からイメージを育てる仮説実験授業の実際を大変読みやすく紹介してくれています。それを受けて,第2部では,津田さんがイメージの世界と題して,認識論を展開しています。
 お二人の関係が,結構昔から続いていると聞いてビックリ。津田さんは,仮説実験授業草創期の頃出版された庄司和晃著『仮説実験授業』の書評(1965年『日本読書新聞』)を書いたのが,仮説実験授業とのつきあいの始まりだそうです。
 私の本棚には,他に『イメージと意志』『実践的認識論への道』という2冊の本がありますが,この第2部の方が読みやすかったです。

○樋口裕一著『たった1分でできると思わせる話し方』(幻冬舎,2004,218ぺ,1300円)
 ベストセラー『頭がいい人,悪い人の話し方』(PHP新書)を書いた樋口さんの本です。新聞の広告欄で見ました。この系統の本は買わない方なのですが,ほとんど意識していない「自分の話し方」が,この方のいうどんな部分にあたるのか(それは頭がいいのか悪いのか,はたまた人はどう感じているのか),知ってみるのもいいだろうと思い,読んでみました。
 「頭がいい人に見せる法」「底知れぬ人に見せる法」「才気ある人に見せる法」の3つが書かれています。まずは外見から,これをやっているうちに本当の中身が充実してくるだろうという論調です。本書の評価は,★ひとつかな。

1月号

 あけましておめでとうございます。
 今年も続けます-「今月の本棚」。今年も,これまでどおり,「これは絶対あなたのためになる」という本から,「こりゃもう私でさえ2度と読まないだろうなあ」という本まで,いろいろと出てくることでしょう。ただ,どの本も捨てられないのが,わたしの悪いくせ。いくら「整理法」の本を読んでみても,長年(20年以上)定期購読している月刊誌でさえ捨てられません。先日読んだ本(以下に紹介してあります)に,「ものを購入するときには,そのものを置くスペースがあるかどうかを考えなさい」-という当たり前のことが出ていましたが,本を置くスペースもないのに買い続けているわたしはどうすりゃいいの?

○鈴木邦夫著『売国奴よ!』(廣済堂,2001,214ぺ,1400円)
 著者の鈴木氏は,新聞社勤務を経て新右翼団体「一水会」を創り,その代表になった方。TVなんかにもときどき出るので,御存知の方もおられるでしょう。
 右翼といえば,日の丸・君が代・旭日旗,そして天皇陛下バンザイさえ言っておればいいし,ほとんど脅迫団体と考えてもいいのではないか,と思っている人が多いでしょうが,この一水会はちょっとちがいます。
 「あとがき」の著者の言葉を紹介すると,他とのスタンスのちがいが分かるでしょう。
 僕は長い間,右翼運動をやってきた。素晴らしいこともあったし,集団主義の怖さや偏狭さもわかった。いいことも悪いことも素直に書き,話してきただけだ。それなのに,右翼からも左翼からも批判された。
 最近は,よくわからん「新保守」みたいな愛国者ヅラする学者や評論家も増えてきた。やたらと景気のいい,過激なことを言う。そして穏和な僕に向かって「鈴木は反日だ」「非国民だ」と攻撃する。
バカヤロー! お前ら,「君が代」を何回歌ったんだ!と言いたいね。要はそういう問題じゃないか。(213ぺ)
 「君が代」を強制して歌わそうとは何事だ!と鈴木は怒るのです。もっと「君が代」を大切にしろ!と。それが本当の右翼の姿ではないのか,と。教育への強制に反対する右翼もいるのだと言うことをじっくり考えてみたいものです。

○東洋大学井上円了記念学術センター編『妖怪学入門』(すずさわ書店,2000,187ぺ,1800円)
 井上円了というと,仮説社が復刻した『妖怪玄談-狐狗狸の事』があります。明治期に,すでにコックリさんの研究をし,その謎を解いたことで有名です。板倉聖宣著『かわりだねの科学者たち』(仮説社)にも取り上げられていて,私も読んだことがあります。
 本書は,妖怪ブームと言われていた90年代に,記念学術センターが企画したシンポジウムと講演会がもとになっています。
 シンポジウムは,1998年11月18日に「妖怪と日本人」をテーマにして行われました。岡崎柾男(劇作家・演出家),なだいなだ(精神科医・作家),北原照久(おもちゃ博物館館長),大島建彦(民俗学者),島田茂樹(チベット仏教学者)の5名が参加しています。また,講演会は,1999年6月9日,板倉聖宣氏を講師として「井上円了の妖怪学 その今日的意義」と題して行われました。
 板倉さんは,「妖怪や迷信は常に新しい問題として起きています」と述べ,「無知蒙昧な,学校にも行っていないような人がお化けにとりつかれたりするのだというのはうそなんです。そういうことを井上円了は見通していたと思います,あやしげな妖怪とか迷信を信ずるのは決して無知蒙昧な人ではなく,もっとも知識がある人たちが引っかかってしまうのです(166ぺ)」と,その今日的意義を述べます。
 板倉さんの話から,いくつか引用します。
・結論を申しますが,いくら迷信をなくそうとしてもなくなりません。なぜなくならないのか。井上円了も,これはかなりはっきりと気がついていました。それは,「迷信は役立つことがある」からです。(176ぺ)
・「火曜日には火の用心」などといって,「時どきは思い出して」という,「きっかけの論理」です。迷信にとらわれてしまう人たちはそのきっかけ以上に思ってしまうから問題なのです。(178ぺ)
・超能力などに反対する人は,「なぜかと問う心が枯渇しているから迷信がなくならないのだ」と言ったりします。しかし,私は,「なぜという心があるから,考えすぎるから迷信にとらわれるんだ」と考えています。
・「原因がわからないけれど確かだ」ということはたくさんあります。だから「なぜか」ということをいつでも考えなければならないのは科学ではありません。むしろ「なぜか」ということがすぐに出てくる人はだいたい信用できないのです。(179ぺ)

 脚気の話から,オウム真理教の話,そして仮説実験授業まで,楽しい講演記録です。この記事だけでも,買う価値あり。もっとも,他の著者の話もとっても面白く読めます。著者たちの職業を見ただけでも,わくわくしませんか?

○板倉聖宣著『アーチの力学-橋をかけるくふう』(仮説社,2004,116ぺ,2000円)
○板倉聖宣・塩野広次著『吹き矢の力学-ものを動かす力と時間』(仮説社,2005,116ぺ,2000円)

 サイエンス・シアター「力と運動」シリーズの第1巻と第2巻です。
 この部分は,数年やってきた北陸サイエンスシアター研究会で,私が関われなかったシアターです。だから,新鮮な気持ちで読むことが出来ました。自転車のスポークの謎や吹き矢で力積を説明する部分なんかは,なかなかのものですぞ。
 実験セットは,なんとなく買ったのですが,通潤橋の模型は持っていません。欲しいなあ。今度買おう。あと,第3巻・第4巻も楽しみです。
 仮説実験授業関係が出たついでに,あと数冊ご紹介。

○中一夫著『<学力低下>なんかこわくない』(ほのぼの出版,2004,197ぺ,1500円)
 もうこれはすごい本です。今の世の中をしっかりした目で見るための教師の「基礎・基本」がびっしりです。
 新年に入ってからも「学力低下」がよく話題になっているようです。新聞の社説や全国教研の記事などで,ますます「どうする<学力低下>」と煽っているようです。しかし,本当に学力は低下しているのか。はたまた,学力とは何なのか。そして,学力が低下するのは悪いことなのか? そういった問題を考える時の基礎知識となるのが,この本には詰まっています。これを1冊読むと,今の教育の何が問題なのかがわかります。そして,仮説実験授業の意義を再発見することでしょう。
 本書は,中さんが数回にわたり発表してきたレポートなどを改定しまとめたものです。ガリ本なので,普通の書店からは買えませんが,是非多くの方に,手に取ってみて頂きたい本です。なお本書のエキスは『たのしい授業・2004年10月号』(仮説社)にも掲載されていますので,そちらをご覧いただいてもよろしいかと…。

○仮説実験授業研究会事務局編『仮説実験授業指導案』(2004,90ぺ,ガリ本)
 これは2004年10月16日~17日に開かれた京都ノートルダム学院小学校創立50周年記念「未来をひらく授業を求めて」の公開授業(仮説実験授業)の指導案集です。日本中の教師たちが飛び入りで授業ました。「1授業書のねらい」「2授業書の構成と本時で取り上げる内容」「3授業するにあたって」の3点について書かれている指導案です。
 付録に,1986年,ノートルダム学院小学校で行われた板倉さんの講演記録「仮説実験授業の考え方と成果」と,斎藤裕子さんの「流れの必然性」というレポートが載っています。これも味わい深い文章でした。
 これもガリ本なので,近くの仮説実験授業の研究家を捕まえて見せてもらってね。

○板倉聖宣著『ミニ授業書・えぞ地の和人とアイヌ人』(仮説社,2004,86ぺ,800円)
 副題は「日本人とアイヌ人との出会い」。「日本は単一民族国家である」といって失笑をかった元首相がいました。アイヌ人と和人が,いつ頃どのようにして交わり,今があるのかというのを一通り見渡せる授業書が出来ました。
 「いまも,地球上の各地で,<民族の違う人びとの間での争い>が続いています。そういう問題をどう考えたらいいか,というヒントともなれば,と考えています」と板倉さん。ミニ授業書ですが,中学生以上の子どもたちには知っておいて欲しいことだなと思います。

○佐藤学著『「学び」から逃走する子どもたち』(岩波ブックレット№524,2000,62ぺ,480円)
○佐藤学著『学力を問い直す-学びのカリキュラムへ-』(岩波ブックレット№548,2001,62ぺ,480円)

 先の中さんの『<学力低下>なんかこわくない』で,引用されていた文章のうち,板倉先生のもの以外で気になった本を3冊手に入れました。それが,佐藤学さんの著書2冊と,次に紹介する関沢さんの本です。いずれも岩波ブックレットなので,とてもまとまっていて読みやすく書かれています。
 『「学び」から逃走する子どもたち』では,まず最初に,最近の少年犯罪の増加を「創られた危機」であると指摘しています。今の子どもたちのマスコミを騒がす状況は「いずれも一部の子どもの現象であることに注意する必要があ」り,不登校に関しても「年間30日以上学校に通わない子どもが学齢児童の1%という国は,世界的に見てまれであることも知っておく」ことが大切だといいます。
 そして,問題はむしろ「少なくとも7割の子どもたちを襲っている深刻な危機」であり,それは「<学び>からの逃走」だといいます。「一たび<学び>から逃走した女の子は二度と戻ってこないというのが,高校教師の熟知している現象」であり,それが日本が「先進国諸国の中で学力の男女差が拡大する例外的な国の一つ」になっているといいます。
 また,「レベルを下げて教え」れば,わかるはずだというのは,「多くの教育者が陥っている誤謬の一つ」であり,最近日本で流行っている習熟度別指導は,世界では廃止される傾向にあることも教えてくれます(これについては,同じ著者が『習熟度別指導の何が問題か』で詳しく書いています)。
 そのためには,「勉強」から「学び」への転換を実施する必要があり,そのための3つの課題も示されています。その学びを実現している学校の一つが茅ヶ崎市立浜之郷小学校なのだと思います。
 『学力を問い直す』は,学力問題とは何なのかを,広い視野で見ていきます。
 この本からもたくさんのことが学べます。が,ここでは二つの文を紹介します。
・文部科学省の推進する「少人数指導」を推進するならば,多くの学校で教師の半数近くが非常勤講師で占められてしまいます。そうなれば,「学力の低下」どころか「学校の解体」を導いてしまうでしょう。(56ぺ)
・子どもの学力を向上させる上で,何よりも大切なことは子ども自身を創造的で探求的な学び手として育てることです。そして,子どもを良い学び手として育てるためには,子どもを育てる親や教師自身が良き学び手として成長し行動することが何よりも大切です。(57ぺ)

 学力が2極化していると感じている教師が6割以上と,最近の新聞に出ていました。習熟度別指導は,新たな格差と劣等感を生むだけです。なんとしても反対していかなければ,子どもたちはますます学びから逃走して,決して戻ってこなくなる-そう決意させられました。「うちは学力向上フロンティアの研究校だから…」と言っている場合ではないのです。そういえば,習熟度別指導にたよらない学校の姿が,元日の「北陸中日新聞」に出ていました。やればできる,今ならまだ間に合う…。

○関沢正躬著『算数があぶない』(岩波ブックレット№513,2000,63ぺ,480円)
 新学習指導要領でずたずたにされた算数を救い出せ!と呼びかける本。
「1深刻な問題をはらむ新学習指導要領」「2何が変わって何が問題なのか」では具体的な例を挙げて,雑多な知識を教えるだけになっている算数の現状を浮かび上がらせます。そして「3過去の失敗に学ぶ」では,過去の学習指導要領の変遷を見ながら,常に対処療法でしかなかった学習指導要領の轍をふむべきではないと訴えます。「4小学校では何を教えるべきか」では,各分野で何が教えるに値するのかを具体例をいくつか出しながら提案しています。「5教育の成熟を願う」で今後の期待を述べています。
 関沢さん本人は,本書について「学習指導要領の内容を各条ごとに検討して批判するという作業は,生産的な仕事だとは思わない」が,しかし,「この本では,生産的な仕事ではないことは承知のうえで,問題を指摘し,改善策を提案してきた」と述べ,そうせざるを得ないくらい,今の日本の算数があぶない状況であると指摘しています。
 私たち教師に出来ること,それは,教科書通り教えることではなく,算数の楽しさやすばらしさがわかるように授業を組みあげることなのでしょう。むずかしいけど,やりがいはあります。

○大瀬敏昭著者代表・佐藤学監修『学校を変えるー浜之郷小学校の5年間』(小学館,2003,236ぺ,1700円)
 浜之郷小学校の5年間を綴った記録です。何人もの職員が書いています。以前まとめられた『学校を創る-茅ヶ崎市浜之郷小学校の誕生と実践』では,少ししか触れられていなかったこと-例えば「職朝がない」「朝読書をしている」「校務分掌が一役一人制」「校内研究授業が多い」「全校集会もない」などの要素-が,実際の学校創りにどう影響してきたのか,伝わってきます。
 ここまでくるのに,決して平坦な道ではなかったのだなあと思います。こういう学校に少しでも近づくためには,校長の強力なリーダーシップとそれを理解する職員がいないといけないなあと思います。一人で出来るものではないのです。
 わたしは,これを読んでいて,前校でのことを思い出していました。数年前,騒々しかった小学校は,この2,3年で本当にしっとりとしてきた気がします。それは道徳がどうのこうのということではなく,子どもにとって<このこと>はどうなのかを考えることが多かったり,全職員が一緒に学ぶ姿があったことだったりします。
 もうしばらく,浜之郷小学校と佐藤学さんのことについて,学んでいくと思います。

○マリリン・ポール著『だから片づかない。なのに時間がない』(ダイヤモンド社,2004,254ぺ,1600円)
 えっと…まあ…こういう本を何冊読んでも,自分の意識がしっかりしていないと,全く実現不可能なのです。「家に帰る前(勤務時間終了前)20分間は,その日の机の上の整理に使う」とか「朝の時間に,今日やるべき事をなるべく細かく書き出す」などというテクニックは初めて聞くわけではないのです。なのに出来ない。
 いくつか気に入った部分を紹介します。
・誰でもスケジュールを立てるとき,これくらいはできるだろうと自分の許容範囲を誤って見積もってしまう傾向がある。
・やることがありすぎるなら,どれかをあきらめることだ。でないと,何もかもが中途半端に終わってします。(86ぺ)
・週末も,2,3時間空いているからと会議を割り込ませたりせず,やり残しの仕事を終わらせるための時間としてとっておく。その間には,返信のメールを送り,折り返しの電話をかけ,書類をファイルし,来週用のメモをつくって,資料の片づけができるはずだ。(89ぺ)
・一日の終わりには,必ず翌日のスケジュール表に目を通して,移動時間を十分とっているか確認しよう。(129ぺ)
・優先順位を決めることで,自分の本質や大事にしているものが見えてくる。それは同時に,好循環を生み出す。自分自身がわかりはじめると,優先順位を決めるのが楽になる。その結果,一度に多くのことをやろうとはせず,自分にとって重要なものに目が開かれていくのだ。(148ぺ)
・<ひと呼吸おいてかうための秘訣>
 「なんとなく欲しい」ではなく,「これだけはどうしても」というものに絞ろう。/スペースがない場合は,買うのをあきらめるか,何かを捨てること。/新しいものに目を奪われそうになったら,自宅に山積みされた手つかずの品々を思い出そう。/物の所有に対する考えを検討してみよう。それは自分にとってどんな意味を持つのか。(109ぺ)

 どれだけ引用しようが,問題は,やってみようと思うかどうかです。

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